抉るグラス
冬の近づいた十一月の土曜日、夜七時。地元の居酒屋で行われた同窓会は大盛況だ。
十八歳で高校を卒業してから七年、もうみんな仕事を持ったいい大人である。それでも久しぶりの同窓会ということもあり、クラスの半分近くが出席していた。
二十五歳の私達の話題は、自然と偏る。仕事の話と、恋愛の話、ひいては結婚の話。
女子であれば特にそうだ。どんな飲み会でも大抵その話題になってしまうのはなぜなのだろう。広い座敷の隅っこの席で、私は当時仲の良かった子達に左手を囲まれていた。
「ねえねえ、それハリーウィンストン? いいなぁー」
「すごーい! うらやましい! 私も早く指輪欲しいー」
友人らは私の左薬指を高々と掲げ、居酒屋の安い蛍光灯へと翳す。
別に見せびらかすつもりでつけてきたわけではない。いつもつけている結婚指輪を外して同窓会に臨むほうが不自然だ。だからつけてきた、それだけだったのだが。
「でも結構早いね、結婚するの。旦那さんと出会ったのが半年前でしょう?」
「あ……うん。タイミングっていうか、なんか色々良かったのかな」
「ねえねえ新婚生活ってどう? やっぱベッドは一緒なの?」
アルコールのせいか、久しぶりの友人らはズケズケと詮索してくる。曖昧な笑顔でいなしながら、私は指輪をつけてきたことを少し後悔していた。
そこへ、廊下から戻ってきた幹事が大声を張り上げる。クラスの半分、二十人近くも集まっていれば声も張らざるを得ない。
「ちゅーもーく! 特に女子のお前ら、ちゅーもーく! なんと、千葉が来てくれたぞ〜〜!!」
言いながら、幹事は閉めてあった襖をパンと開け放つ。途端に女性陣が色めき立った。
開いた襖から現われたのは、二年半ぶりに見る千葉くんだった。自分の顔が強張ったのがわかる。
まさか来るなんて。どうせ艦の上にいれば連絡も取れないだろうし、来ないものとばかり思っていたのに。
「きゃあっ千葉くーん!」
「すごい、来てくれたんだー! 千葉くんが同窓会に来るの、初めてじゃないー!?」
千葉くんが幹事の隣に胡座をかくと、その周りにわらわらと女性陣が群がっていく。
「……ねー、そういえば昔千葉くんと付き合ってなかったっけ?」
純粋な疑問を投げかけられ、私は「うん、昔ね」とだけ答える。その後は乾き始めた刺身を頬張り、何も喋らない。食に徹することにした。
千葉くんが女の子に囲まれるのを横目で見ながら、私は今日初めて、指輪をつけてきて良かったと思った。
千葉くんと交際を始めたのは、高校三年生の時。終わったのは、私が大学を卒業し社会人一年目、千葉くんが防大を卒業し広島の幹候にいた時。互いに二十三歳だった。
始まりも終わりも、私からだった。「好きです、付き合ってください」と言った時も、「もう耐えられない、別れてください」と言った時も、彼の返事は同じ。「わかった」、その一言だけだった。幹候を卒業した後、どこかの艦に配属されたと風の噂で聞いていた。
挫けたのは私のほう。物理的な距離ではなく、精神的な距離に折れてしまったのだ。千葉くんを想い続ける体力が私にはなかった。
色めき立つ女の子達の声から察するに、彼はこの秋、防大に指導教官として着任したらしい。二つ向こうの座敷机から「しばらくは陸の上だ、艦には乗らない」と低い声が聞こえてきて、胸がざわついた。
* * *
「二次会行く人、こっちー!」
幹事が手をメガホンにして叫んでいるのを尻目に、帰ろうとしたところだった。突然ぐっと腕を掴まれ、驚いて見上げると同時に耳元で囁かれる。あの低い声で。
「お前は俺と二次会」
「ちょっ……」
そのまま反論する隙も与えられずに、ぐいぐいと引っ張られる。
千葉くんが私を引きずり込んだのは、付き合っていた時に何度か来たショットバーだった。
「本当、千葉くんって強引だよね」
「お前にだからだろ」
ギムレットのグラスに刺さったライムが、ふわりと香る。あの頃も千葉くんの一杯目はギムレットだった。私はカンパリソーダ。オーダーは昔と変わっていない。
無言で乾杯をして、互いに一口目を飲み込んだタイミングだった。ふいと乱暴に左手を取られる。
「な、何?」
千葉くんはカウンターの上で私の左手をじろじろと検分し、無言のまま、薬指の指輪を無骨な指で弄いじった。彼に指輪を矯めつ眇めつ見られると、脇や額に汗がじんわりと滲む。
ああ、良くない。事態は良くない方向へ向かっている。もうさっきの居酒屋のように、喧噪は助けてくれないのに。
切れ長の目が、指輪から私に移った。
「結婚したのか、俺以外のやつと」
絶対に、スムーズに答えなければいけない場面だった。
だが彼に尋ねられた瞬間、私の喉は引き攣ってしまう。
「……っ、す、するよそりゃ……だって、別れたのはもう二年以上前だし」
なんとか絞り出した声は上擦った。千葉くんの手が緩んだ一瞬の隙に、パッと左手を膝の上へと引っ込める。笑みを浮かべているつもりなのだが、きちんと笑えているか自信がない。
カンパリソーダをストローで一口飲むと、口の中が急に苦くなった。カンパリって、こんなに苦いお酒だっただろうか。舌が痺れるようにピリピリする。
鷹揚に構えなければいけない。鷹揚に構えなければ付け入られる。そう思えば思うほど、鷹揚はどんどん遠のいてゆく。
自分の意思と関係なく滲む汗も、思いの外苦かったカンパリも、全てが計算外だ。一番の計算外は、千葉くんとの二次会を断れなかった自分自身だけれど。
「旦那、俺よりかっこいい?」
カウンターで頬杖をつく千葉くんは、白い歯を見せて笑った。自分がかっこいいことをわかっているからタチが悪い。
「……そうだなあ、かっこいい」
「へえ」
本当のことを言えば、結婚相手のほうが千葉くんよりもかっこいいとは言い切れない。
同じくらいか……いや、千葉くんのほうが、多分。
だが真実なんてどうでもいいのだ。今大事なのは、私の結婚相手がいかに素晴らしいかを主張することなのだから。
「どんな奴? お前の旦那」
「どんな、って……」
一瞬言い淀んだが、んん、と咳払いをして姿勢を正した。私は、結婚相手が素晴らしい男性であることを表現しなければならない。
「銀行員。メガバンクの。多分優秀で、出世株っぽい。友達の紹介で出会ったの」
口は動き出すまで時間がかかったが、一度動き出したら箍が外れたようだった。ペラペラペラペラと、閂を外された口は勝手に動き続ける。
「向こうからアプローチしてくれたの。デートも凝ってて楽しくて、良い人だなって。プロポーズはベタだけど、夜景の見えるレストランだった。でもベタってことは、王道を選んでくれたってことでしょ? そういうのも良いかなって」
自分の目的のために意志を持って口を開いたはずだったのに、私は徐々にコントロールを失っていった。
喋れば喋るほど口は勝手に加速し、止まらなくなる。いつの間にか私の口は、私の意思とは無関係に回り続けていた。
「式はこれからなんだけど、ウェスティンでやる予定なんだ。向こうの親戚と職場関係の招待客が多くてね、一二〇人くらいになりそうで、席次を決めるのも大変。でも誰を呼んで誰を呼ばないとかってのも面倒だし、部署全員呼んじゃおうって。あ、見て、指輪はねえハリーウィンストンで」
一度引っ込めた左手を、再び彼の前に翳す。
瞬間、ぐっ、と四本の指をまとめて掴まれた。
ハッと息を呑む。
回り続けていた口がやっと止まった。私の意思とは無関係に、だったが。
握られたハリーウィンストンの向こうで、千葉くんは不敵に笑っている。
「何焦ってんの?」
「あ、焦ってなんかないよ」
彼の手を振りほどき、カンパリソーダを口にした。やっぱり苦い。だが喉が渇いて仕方がない。
私のカンパリソーダばかりがどんどんと減り、千葉くんのギムレットは半分以上残っている。ショートカクテルだというのに。
「そうか。ハリーなんとかはよくわからないが……まあ一個わかったことがある」
千葉くんがグラスを持ち上げた。グラスの動きに合わせてライムが香る。
「今お前ペラペラと喋ったけど、一度も旦那のことが好きって言わなかったな」
ビッと顔が引き攣った。瞬時に顔の熱が沸騰する。血圧が上がったのが自分でわかった。
「す、好きだよ、好きに決まってるじゃない、結婚するんだから。そんなの言うまでもないことでしょ!?」
戦慄く唇を咄嗟に開けば、出たのは荒げた声。もうずっと自分自身がアンコントロールだ。千葉くんは自身の唇に人差し指を立て、「シー」と私を窘める。
カウンターの上で、私のカンパリソーダだけがだくだくと汗を掻いている。ショートカクテルで氷の入らないギムレットは、汗一つ掻かず、涼しい顔をしてコースターの上に立っていた。
「いつ、結婚したんだ? 俺が艦の上にいる時か」
「……籍は、まだこれからなの」
千葉くんのほうは見ていなかった。けれど、切れ長の目が丸く見開かれたのが空気でわかった。私の口はまた勝手に言い訳じみたことを捲し立てる。
「あのね、婚姻届って証人が二人いるんだけど、うちの親と、遠方に住んでる彼の親にもお願いしたのね。そしたら郵送に時間がかかっちゃって。だからまだ届けは出せてないんだけど、まあそのうち。それに届けを出すならやっぱり大安吉日が良いし、せっかくなら晴れている日が良いし」
「ふーん」
言いながら、千葉くんはグラスを煽った。ようやくギムレットが空になる。
私のカンパリソーダはもうほとんど氷だけになって、グラスはびしゃびしゃに汗を掻いていた。コースターがじっとりと濡れている。
タン、とギムレットのグラスが乾いたコースターに戻されると、千葉くんは口角を上げた。
「式もこれから、婚姻届も出していない。つまりお前はまだ独身ってわけだ」
「……ち、ちが、」
「違わない。お前はまだ独身だ」
彼の断言に、私は言葉を失った。
がんがんと鼓動が身体中に響いている。
助けてくれる旧友や喧噪が、ここにはない。
ここは居酒屋じゃない。ここは、千葉くんのテリトリーだ。
「なあ、お前の二杯目、俺が頼んでも良い?」
そう言って、彼はびしょびしょのグラスを持ち上げる。なんて答えたら良いかわからないまま視線を向けると、勝手に肯定だと受け取られた。
「モーニンググローリーフィズを」
注文する千葉くんの声は、尊大で、傲慢で、自信満々だ。
私が当然そのカクテルを飲むと、信じて疑わない。そして私はきっと飲んでしまう。彼には全てお見通しなのだろう。
「飲むだろ?」
千葉くんの笑顔に泳ぐ視線を捉えられ、私はごくりと唾を飲み込んだ。
【抉るグラス Fin.】