クソ達の休日
恋人ではない。それはわかっている。じゃあセックスフレンドかと聞かれると、それも違う気がする。
セックスがあろうがなかろうが、「友達」というのは互いが対等であればこそ成り立つ呼称だが、私と千葉君は対等ではなかった。別に、千葉君が私を貶したり謗ったりしているわけではない。私より優位に立とうとしているわけでもない。
私が勝手に媚びて、阿諛して、卑屈になっているだけだ。
彼が決まった恋人を作らない主義であることは、言葉の端々から滲み出ていて、私はどこかでそれを安心していたのだ。
複数の女性の影があろうとも、私がその複数のうちの一人にしかすぎなくても、惨めなのは自分一人ではない。
自分と同列の女性がいることは、私の惨めさを誤魔化してくれた。
そもそも私達は簡単に会えない。防大というのはどうにも特殊な場所のようだし、作れる時間には限りがあるのだろう。
だから私は、生活の重きを彼に置かないようにした。私には私の生活がある。ゼミやバイトもあるし、卒論だって書かねばならない。
それでも、バイトは平日にしか入れなかった。週末に図書館に通い詰めなくとも良いよう、平日にしっかり勉強していた。週末に向けて、彼のために冷蔵庫の食材を充実させていた。
彼の休養日にいつ声がかかっても良いように。声がかかったらそのチャンスを決して逃すことがないように。
本当は彼の唯一でいたい。その願いを認めてしまうのが、ずっと怖かった。
叶わないものだと知っていたから。
* * *
土曜日、私は横浜へ来ていた。あまり土日に予定は入れないようにしていたが、卒論の参考文献としてどうしても必要な図書があったため、大型書店へやってきたのだ。
本屋が開店すると同時に入店し、小一時間ほどでさっさと店舗を出る。なるべく早く家に帰りたい。気まぐれな彼から、いつ連絡が入るかわからないからだ。
早足で横浜駅へと歩いていると、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。
千葉君が、いる。
駅前を歩いている。長身の彼は目立つし、何より私は彼のシルエットをすぐに認知できてしまう。
隣を歩いている女の子は多分同い年くらいだろう。ヒラヒラのスカートに、流行の形のトップス。彼女もまた、千葉君に媚びているのがよくわかった。
――同種だ。そう思った。
足が、動かない。
書店の紙袋が手から滑り落ちた。重く乾いた音が、ぼんやりと鼓膜を震わせる。
いや、違う。どうして同種だなんて言えよう。
あの子は私と同じではない。彼女は私より「上」じゃないか。私に声が掛からなかった休養日に、彼女に声が掛かっているのだから。
彼女に声を掛けてダメだったら、私に声が掛かっていた? いやそれも違う。
だって千葉君の周りの女の子は、私達二人だけじゃない。もっとたくさんいるはずだ。きっと順序をつけるとしたら、私が最後だ。
私はいつ千葉君に呼び出されても良いよう、準備していた。
千葉君の誘いを断ったことはない。一番の子も、二番の子も、三番の子も……全員がダメだった時に、私に声が掛かっていたのではないだろうか。私がダメなことは、ないのだから。
立ち尽くしたまま呆然と二人を見ていると、千葉君が私の視線に気がついた。
目が合い、そして千葉君はふいと私から視線を逸らす。
彼はヒラヒラスカートと一緒に、百貨店へと消えていった。
* * *
帰宅してすぐに冷蔵庫を開けた。
昨日買い込んだ食材を全部出す。肉も魚も野菜も。一心不乱に野菜を刻み、肉をこね、魚を捌いた。
自分のために料理をするのは久しぶりだった。平日はバイトと勉強で忙しいから、コンビニ弁当や学食ばかりである。もうずっと、私は千葉君のためにしか料理をしていない。
狭いアパートで、私は取り憑かれたように料理をした。二口コンロの他に電子レンジもフル稼働で、次から次へと料理が出来上がっていく。
二時間後、リビングのローテーブルの上に、ハンバーグ、餃子、煮魚焼き魚、野菜炒めとポテトサラダが並んだ。並べきれなかったナポリタンが、カーペットの上に大皿で置いてある。
冷蔵庫に冷やしてあった千葉君用のビールも全部出した。それとハイボール用のウイスキーも。トリスが安いのに、知多が良いなどと格好つけたことを言うから、いつも知多を準備していた。
グラスを出そうとして、思いとどまる。私はフンと鼻を鳴らし、大容量のスープマグを取り出した。
知多なんてこのマグで飲んでやる。グラスでゆっくりと味わってなんかやらない。消費してやる。
テレビをつけて撮り溜めていたバラエティーを流した。スープマグに並々とハイボールを作り、一人で乾杯する。
惨めな女の晩餐だ。乾杯はまるで献杯のようだった。
「……美味しいじゃん」
食べてみれば、ハンバーグも、餃子も、魚も、全部美味しい。
そういえば、千葉君はよく「お前の作る料理はマジでうまいよ」と褒めてくれていたな。考えてみれば当たり前だ、美味しいに決まっている。だって私は、千葉君のために作っていたのだから。
私は、テレビのボリュームを上げた。自分の泣き声を聞きたくなかった。
画面が滲んで見えなくなる。取り繕ったような観客の笑い声が、部屋を満たした。
泣きながら餃子を食べ、ポテトサラダを食べ、焼き魚にも手を付け、ビールが一缶とスープマグ一杯のハイボールが空いた頃。突然インターホンが鳴った。
そういえば実家の親が米を送るとか言っていた。届いたのだろう。私は涙を拭い、部屋着のまま鍵を開ける。
ドアの向こうに立っていたのは、配達員ではなかった。
千葉君だった。
「……」
「よお、元気か?」
千葉君は左手を軽快に挙げた。
私は呆気にとられて声も出ず、怒ることもできず、ただ千葉君を見上げていた。彼は我が物顔で玄関に上がり込むと、ずんずんと部屋の中へと進んでいく。
「お、うまそー。なんで俺が今日ハンバーグの気分だってわかったの?」
家主を無視して勝手に洗面所で手を洗った彼は、カーペットの上のナポリタンをどかし、ローテーブルの前にどっかりと座り込んだ。
「あ、箸ちょうだい」
至極当然のように言って、呆然と立っていた私に手を伸ばす。
奥歯がギリと鳴った。乾いていた頬を再び涙が濡らす。
私はローテーブルの前に座った千葉君を見下ろしたまま、泣いてしまったのだ。
情けなくて泣いているのだ。
簡単に彼を家に上げてしまう自分が。この後なし崩しに抱かれてしまう自分が。それでも、確かに嬉しいと思っている自分が。
情けなくて情けなくて、涙が出る。
せめてもの抵抗で、私は彼に割り箸を投げつけた。いつもは彼専用の箸を出すのだけれど、今日はこの家に彼の居場所がある証拠が屈辱だった。
千葉君は私が投げた割り箸を軽々とキャッチし、白い歯を見せて笑う。
「何だよ、その反抗的な態度。まあそういうのも可愛いけど」
そう言って「いただきます」と手を合わせると、立っている私を無視して、彼は勝手に食べ出した。出していた缶ビールも勝手に開けてしまった。
観念した私は、黙って千葉君の横に座った。
千葉君はちらりとこちらを見ると、満足そうに笑い、再び箸を動かした。
バラエティーだったはずのテレビは、いつの間にか千葉君の好きなドキュメンタリーに変えられている。ハンバーグは僅か一分ほどで千葉君の胃に全て収まってしまった。
「……一言だけ言わせて」
「どうぞ?」
唸るように呟いた私に、千葉君は切れ長の目をこちらに向けた。
「クソ野郎」
一瞬箸を止めた千葉君は、ハハハと口を開けて笑った。
そして、私が三十分煮込んだ魚を二口で食べてしまったのだった。
【クソ達の休日 Fin.】