どうせまだ好き








 大きな観覧車がシンボルの広大な公園。海がほど近いそこは、風に潮の香りが混じる。
 遊歩道に落ちる千葉君と私の影は、正午が近づくに連れて徐々に背が縮んでいた。縮んだといっても、千葉君の影は縦にも横にも随分大きいのだけれど。

「今日は忙しくなかったの? 都内まで来るの大変だったんじゃない?」
「春季休暇に入ったからな。俺たちは学生じゃないから一週間も休めないが、まあいつもよりは」

 随分と久しぶりのデートだった。
 前回会ったのはいつだったかと思い返し、四か月も前だったことに気づく。会える日を尋ねても忙しい忙しいと躱されてばかりだった。
 それでも、今日のデートは千葉君のほうから誘ってくれたのだ。
 放っておいてばかりで申し訳ないと多少は思ってくれたのかもしれない。一応私は恋人なのだから。



 千葉君とのお付き合いは数年に渡る。
 彼は職業的にも性格的にもまめに連絡が取れるタイプじゃないから、こんなに続くとは思っていなかった。付き合い始めの頃は寂しくて「もうやだ!別れる!」と喚いたこともあるけれど、交際はのらりくらりと続いて今に至る。
 今は寂しさで騒いだりしない。
 千葉君からの連絡なんて、ないことが当たり前だと腹落ちしてしてからは、かなり楽になった。



 いつもは家族連れやカップルで混んでいる公園だが、今日に限ってなぜだか空いている。
 聞こえるのは控えめな風の音と、時々遠くに電車の音。
 静かだった。子供のはしゃぐ声でもあれば、この空気を少しは中和してくれたのだが。

 遊歩道に落ちる二人の影はずっと微妙な距離を保っていた。黒い二つのかたまりが触れる箇所は、ない。
 私たちは、手も繋がないのだ。
「手、繋ごう」と私が言えばいいだけの話。別に千葉君だって拒否はしないと思う。
 ただ、言い出すのに照れるくらいには、間隔が空きすぎてしまった。物理的にも時間的にも。

 何か気の利いたことでも言おうと少し考える。
「風が気持ちいいね」? 「花が綺麗だね」? 取って付けたセリフみたいだ。
「会えて嬉しい」? 「何時まで一緒にいられるの」? こんな甘ったるい言葉は照れが勝って言えない。
 結局私の口から出たのは、わずかに皮肉を交えたたわいない言葉だった。

「千葉君いつも忙しがってるし、私が神奈川まで出ても良かったのに。横浜とかさ」
「横浜なんてダメだ、防大生が多すぎる。誰がどこで見てるかわかんねー」
「あ、そう」

 可愛くない言い方をしている自覚はあるから、彼の返しがそっけないものであっても文句は言えない。
 人に見られたらまずいわけ? と口にするのは、すんでのところで(とど)まった。

「それに今日はお前んち泊まるんだから、どっちみち都内に出るだろ」
「えっ、泊まってくの!?」

 私の声がワントーン高くなる。嬉しさでじゃない。驚きと抗議でだ。
 声色に不満をにじませると、千葉君はムッと顔を顰める。

「ダメなのか?」
「ダメじゃないけど事前に言ってよ、こっちにも準備があるんだから。四か月前に会った時は『忙しいから』って夕方には帰っちゃったし、今日もそうなのかなって……泊まるってわかってたらちゃんと片付けてきたのに」

 私のつっけんどんな言い方が癇に障ったのだろう、千葉君の眉間の皺が一層深くなった。

「何、俺が来る前に片付けておかなきゃいけないような他の男の痕跡でもあるの?」

 カチン、と自分の顔が凍りついたのがわかった。
 千葉君に見られてまずいものなんて何もない。
 ないけれど。

「……他の男の痕跡を心配するぐらいには、私を()っといてる自覚あったんだ?」

 今度は千葉君の顔がカチンと凍りつく。切れ長の瞳は涼しいを通り越して氷点下だ。
 売り言葉に買い言葉だった。



 こんな快晴の公園で、芝生が青々と茂る中で、気持ちの良い潮風の中で。私たちの間だけ真冬みたいな空気が漂う。
 折れればすぐに終わるのに、意地が邪魔して折れられずにいる。
 先に折れてくれたのは千葉君のほうだった。

「……ちょっと、座ってて」

 長い骨ばった指が、芝生の上の洒落たベンチを指す。千葉君はポケットに両手を突っ込むと、数メートル先の自販機へとスタスタと歩いていった。
 言われた通りにベンチに腰掛ける。時折潮風がびゅうと強く吹くと、髪の毛が唇に張りついた。
 乱れた髪を手櫛で整え、俯く。
 ケンカがしたいわけじゃないのに。会えて嬉しいのに。どうして可愛く甘えられないのだろう。



 自販機から戻ってきた千葉君は両手に一本ずつ缶を持っていた。
 ベンチに座る私の真ん前で、前に突き出される。右手はブラックコーヒー、左手はミルクティー。
 俯いていた顔を上げ、二つの缶を交互に見た。少しだけ悩み、ミルクティーへ手を伸ばそうと――したところで、千葉君は左手のミルクティーを引っ込め、右手のコーヒーをずいと私に押し付けた。

「え?」

 呆けた声が出た。大きな身体がすとんと私の隣に腰かける。
 千葉君は何も言わないまま、カシュッと音を立ててミルクティーの缶を開けた。ホットだというのに喉を鳴らしてごくごくと飲んでしまう。二七〇ミリリットル缶の半分は飲んだのではないかというところで、ようやく彼はぷはあと息を吐いた。

「……ちょっと」

 また可愛くなるタイミングを失った。気づけば私は、唸るみたいな低い声を出していた。

「何?」
「こういうのってさあ、普通選ばせてくれるんじゃないの」

 千葉君は涼し気な目をわずかに縦に開く。キョトンという擬態語がぴったりな様子で私を見つめた。

「お前、ミルクティーが良かったの?」
「そういうわけじゃ……いやそういうわけだけど、それ以前の問題だよ! コーヒーとミルクティーと両方こうやってたじゃん! 選ばせてくれるのかなって思うじゃん!」

 千葉君がやったのと同じように両手をずいと前に出す。千葉君は、私の顔とミルクティーの缶を交互に見た。

「そっか、悪い。俺、ミルクティーが飲みたくなったから」

「悪い」の声色が軽すぎる。あまりにも悪びれない彼に、なんだか怒る気も失せた。
 さっきからケンカばかりだ。それも原因が泊まるの泊まらないの、コーヒーだのミルクティーだの。バカバカしすぎる。

 千葉君に、そして素直じゃない自分自身に、ため息を吐いた。真冬みたいだった空気は、千葉君のトンチンカンな振る舞いのせいで温度がよくわからなくなっている。
 コーヒー缶のタブに手を掛けた、その時。
 後頭部に、ごつごつした大きな手の感触。
 千葉君の右手が私の後頭部に回されたのだと認識すると同時に、唇に熱が触れた。

「――っ!?」

 唇を塞がれているので声が出ない。彼の大きな唇と舌は、こちらの唇をこじ開けた。ほとんど反射で舌を受け入れてしまう。
 途端に、甘ったるい、ほのかな乳臭さが流れ込んだ。

 ミルクティーを口移しされているのだと気づき、顔と心臓に熱が一気に集中する。咄嗟に視線だけで周りを見回すと、幸い人はいなかった。いや、千葉君は最初から人がいないことも織り込み済みなのだろうか?
 厚い胸板を拳で叩き抵抗したがびくともしない。唾液が混じり粘度が高くなったミルクティーを、ほぼ強制的に飲みこまされる。
 飲み切れなかった分は口角から垂れた。温い感触が顎下に向かって伝う。
 口内の液体がほぼなくなったところで、ようやく千葉君は私を解放した。

「……」

 文句の一つも出てこない。拳で口元の水分を拭いつつ、上目遣いで睨みつけるしかできない。
 彼のほうもまったくしれっと、何も言わないままだ。私と違うのは、彼が口元を拭いたのは拳ではなくきちんとアイロンのかかったハンカチだということ。
 ミルクティー缶の中身は空になったようだった。

 千葉君はベンチから腰を上げると、再び私の真正面へと回った。服の上からでもわかる太い腕が伸び、目の前に大きな手のひらが差し出される。

「な、観覧車乗ろうか」

 美形と称して差し支えない顔が、私を見下ろして微笑んだ。
 彼は私が睨みつけたのなんて毛ほども気にしていない。

 何か言ってやろうとし、何を言ってやるか悩んで、何も言わなかった。
 何を言ったって飄々と流されてしまうに決まっている。暖簾に腕押し、糠に釘。

 それに、気づいてしまった。私は結局。

「……いいけど。観覧車代、おごってよ」
「はは、もちろん」

 ブラックコーヒーの缶をバッグに突っ込むと、私も手を伸ばした。千葉君の手のひらに自分の手のひらを重ねると、ぐっと強く握られ引っ張り上げられる。
 そのまま手は離れなかった。遊歩道に落ちる影が、今度は繋がっている。

 気づいてしまったこと。
 私は結局、こうやって千葉君に翻弄されるのが多分、嫌いではないのだ。



【どうせまだ好き Fin.】



   

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