「月が綺麗ですね」と言ってみた
03 岡田喜振
並び合って座る公園のベンチ。忙しい彼とたわいないことを語りあえる時間はすごく貴重だ。
夕暮れ時を過ぎ、遊んでいた子供達は家へと帰っていった。静かで穏やかな空間。
もうほとんど夜の空を見上げ、私はふと思いついた。
「……ねえ、岡田くん」
「ん?」
「月が綺麗だね」
半分はどんな反応をしてくれるのかという好奇心、半分はイタズラ心で、瑠璃色の空に浮かぶ三日月を指差す。
こんな言い回しをするのは付き合ってからも初めてだった。
「ああ、綺麗だな」
端正な顔がついと空を見上げる。事も無げに言った彼は、しばらくして何事もなかったかのように首と視線を元の高さまで戻した。
あれ。これ、は?
「……?」
推し量るような私の視線に気がついたのか、岡田くんは私に向かって不思議そうな顔をした。何だ? と、表情だけで尋ねてくる。
ああ、わかった。
これは伝わっていない。
少し意外だった。彼は読書家だし、防大でも学年主席だと聞いている。
だから私が知っている「月が綺麗ですね」の裏の意味なんて、当然知っているものと思い込んでいたのだ。
そうか、知らないこともあるよな……と、伝わらなかった愛の告白に、半分ホッとして半分残念な気持ちになる。
「……ああ、そうか」
しばしの沈黙の後、彼は得心がいったように骨張った指を立てて月を指した。
「今のは愛の告白だったんだな?」
思わず顔を引き攣らせてしまった。顔中に熱が走る。
それはそうなのだけれど。愛の告白の意味で「月が綺麗」と言ったのだけれど。
でもこんな風にストレートに尋ねられたら、羞恥で死にたくなる。まるで伝わらなかったギャグの説明を求められているみたいな。
「……いやまあ……そうだったんだけど、もういい……」
私がもごもごとマフラーの中に口を埋めると、岡田くんは真っ直ぐな瞳で説いてきた。
「だがな、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したというのは、文献や証拠が何も残っていないんだ。つまり都市伝説というわけだ。ちなみに返答としてよく用いられる二葉亭四迷の『死んでもいいわ』も、ロシア語の……」
「あ――っ!! もういいから!! ねっ!! もうわかったから!!」
大まじめに解説を始める岡田くんの胸を、握った拳でバンバン叩く。これ以上解説されては本当に羞恥で焼かれ死んでしまう。
せっかくの解説を遮られた岡田くんは、そうか? と不思議そうに黙る。
乙女心の機微を理解してもらおうと思ったのが間違いだった。土台から大間違いだ。
それから、数十秒の沈黙が漂い、
「俺はお前のことが好きだ」
突然に愛を告げられた。
ぽかんと彼を見上げると、やっぱり大まじめな瞳がこちらを向いている。
「愛を伝えるなら、はっきりと言ったほうがより伝わると思った」
顔色一つ変えずにそう説いてくる彼に、私はやっぱり恥ずかしくなって、マフラーの中に再び口を隠した。
俯いたままちらりと岡田くんを見やる。
一拍おいて今頃やっと恥ずかしくなったのか、彼の頬もほんのりと染まった。
さっきまでよりも黒の濃くなった空で、三日月はより煌々と輝いていた。
Fin.