ある朝の先生と仔犬の話










瞼の裏に陽の光を感じる。朝だ。

睡眠時間が全く足りていない感があるが、起きなくてはならない。だって今日も学校だ。
魔法史の授業は多分そろそろ当たるし、飛行術の授業もあるのに運動着を畳んでいないし……
まだまだ寝ていたいが、観念してゆっくりと瞼を開ける。

が、目に入り込む布団の柄が全く見慣れないものであった。
なんだろう、この白と黒のバイカラーの布団は。私がいつも使っているオンボロ寮の布団はブラウンのチェックだ。

混乱している寝起きの頭で懸命に記憶を辿る。
昨日の記憶が鮮明になるに連れて、自身の顔が青ざめていくのがわかった。



 * * *



昨日の放課後、エース、デュースと一緒にクルーウェル先生の魔法薬学の補習を受けていた。
確か、ふざけて走り回ったグリムが薬品棚にぶつかり、瓶が何本か棚から飛び出したのだ。
私はそれを咄嗟にキャッチしようとしたが、残念なことに私にそんな運動神経も、もちろん魔力もない。結果、頭から複数の薬品を被ってしまったわけである。

その数分後からだ。
頭が朦朧とし、本人が目の前にいるというにもかかわらず「クルーウェル先生が好き」しか言えなくなった。
どうやら偶然にも「自分の感情に正直にならざるを得ない薬」の材料を被ってしまったらしいというのは、割れた薬品瓶を見たクルーウェル先生の判断だった。



クルーウェル先生へ恋心を抱いていることに気がついたのは、いつの頃だったか。
覚えていないくらいには、随分と前のことである。

異端な存在である自身のことを気にかけてくれて、大切にしてくれて、他の生徒となるべく同じように扱ってくれて、それでもきっと、他の生徒にはわからないようにほんの少し特別扱いもしてくれて。
最初は教師に対する尊敬だったのだと思う。でもそれが恋心に変わったと気がついても、私自身は至極当然のことのように気持ちを受け入れていたのだ。

だがこの想いを成就させようなどとは微塵も思っていなかった。
教師である先生に相手にしてもらえるなど全く考えられなかったから、心の中だけに留めていたのに。

「先生が好きなんです」
「わかった仔犬、補習はもう良い。その薬の効果は一晩もすれば消えるはずだ、今日はハウスだ」
「嫌です、帰りたくありません」
「ほら、鏡舎まで送ってやろう」
「先生と離れたくないんです」

砂を吐きそうな押し問答を目の前で繰り広げられたエースとデュース、ついでにグリムは、ドン引いた顔で私を見つめていた。
これ以上学園内で教師に対する恋愛感情を垂れ流されてもまずいと判断したのだろう。
困り果てたクルーウェル先生は根負けするような形で、私を教職員寮に入れてくれたのだった。



 * * *



結局、帰りたくないと深夜まで駄々をこね、あまつさえベッドまで譲っていただいたという話である。なんということをしでかしているのか私は。
蘇った忌々しい記憶に頭を抱える。昨日の自分と、そして何より薬品棚に突撃したグリムを殴り倒したい。
終わりだ。絶望だ。ずっと内緒にしていた恋心をまさか本人の前で披露することになるなんて、それもこんな情緒の欠片も無い形で。
そりゃあこの想いが成就するとは思っていなかったが、せめて先生に嫌われたり面倒くさいと思われたりすることは避けたかった。

寝室に先生の姿はない。
とりあえず私は、ここの部屋から出てオンボロ寮に帰るべきだ。昨日の非礼だけ詫びてさっさと退散しよう。

寝室のドアから廊下へ出て、先生の姿を探す。
開け放たれた広い空間の洗面台の前に、先生はいた。
もう既にきっちりとシャツもベストも身につけ、だがネクタイはまだ結んでいない。大きな鏡に向かって髪をセットしている。
初めて見る、プライベートとパブリックの狭間の姿だった。

おはようございます、先生。昨日は大変失礼しました。自分の寮へ帰ります。
そう言おうとしたのだ。だが昨日の失態があまりに恥ずかしすぎて、いざとなると声が出ない。
あんな風に恋心をぶちまけておいて、今更どんな顔をすれば良いのか。
先生からかなり離れた位置で、私の足は震えていた。

「……起きたか」

私が声を出すより先に、先生が私に気づいた。鏡越しに目が合い、思わず私は俯いて目を逸らす。
コツコツと革靴の音が近づき、先生がこちらへ向かってきているのが下を向いていてもわかった。

「仔犬、朝の挨拶は?」
「……おはようございます……」

どうしても顔を上げられず、そのまま蚊の鳴くような声で挨拶だけなんとか絞り出した。
昨日は大変失礼しました自分の寮へ帰りますなど、そんな長文はとてもとても出てこない。

「Good girl. 目を見て挨拶できれば尚良し、だがな」

ぐい、と私の意思に反して勝手に顎が持ち上がる。クルーウェル先生の魔法だ。
今私はきっとひどい顔をしているだろうが、それでも私と再び目があった先生は満足そうに頷いた。

「来い仔犬。朝食の時間だ」
「えっ、朝食って……いや、私は」

帰ります、という前に今度は身体全体が引っ張られる。魔法で勝手にダイニングテーブルへ引き寄せられたのだ。
テーブルの上には美味しそうなロールパンと山盛りのフルーツ、ミルクが置いてある。

「先生、私帰りま……」
「座れ」

先生の指先が曲がると、私の身体はふわりと宙に浮き、ダイニングチェアに腰掛けさせられた。
目の前でミルクが勝手にグラスに注がれ、先生はゆっくりと私の前に座る。

「俺の家を訪れた者を、空腹のまま帰すなどあり得ない」
「……いただきます……」

のっそりと、それでもフルーツに手を伸ばした私を見て、先生は小さく微笑んだ。
先生自身はコーヒーカップに指を掛ける。カップが持ち上がると、コーヒーの香りがふわりと私の鼻をくすぐった。

「それを食べたらオンボロ寮へ帰れ。できるな?」

優しさに溢れた、だがしかし教師としての台詞に、私は無言で頷いた。

頷くしかないではないか。頷くしか選択肢は無いのだから。
正気に戻った私はオンボロ寮へ帰って、今日からまた生徒として授業に励まねばならない。

「Good girl」

頷いた私を満足そうに見た先生はコーヒーを一口飲み、カップをソーサーへ戻す。
私は黙ったままのそのそとフルーツを口に運び続けた。

まさか、クルーウェル先生のベッドで眠り、クルーウェル先生と朝食を共にする日が来ようとは。
そしてこんな無礼を働いても尚、先生は優しい。
もう十分だ。昨日の事故は棚ぼただったと思うようにしよう。こんな良い思い出が出来たのだから。
私は、この夢のような時間の終わりがもうすぐやって来ることを受け入れた。
朝食が終わった時が夢の終わりだ。

「……今日も真面目に励め。明日もだ。明後日もだ。
卒業までずっと、この由緒正しい学園に恥じぬよう励め。そうすれば――」

そこで先生の言葉が途切れた。教師らしい台詞が不自然に途切れたことに疑問を感じ、私はフルーツを口に運ぶのを止め、上目遣いで先生を見る。

まだグローブを嵌めていない白い手が、すっとテーブルの上に伸びた。

「頑張った仔犬には褒美をやらんでもない」

白い手は、マスカットの粒を摘まんでいた私の右手を取った。
黄緑色の粒は私の指からこぼれ落ち、テーブルの上を転がる。

突然手に触れられた事で、私の全身にかぁっと血が巡った。
耳の先まで赤くなっていることが自分でわかる。思わず先生を見ると、不敵な笑みを浮かべていた。

「できるな? 仔犬」

私は再び、無言で頷いた。

頷くしかないではないか。
忠犬には、頷くしか選択肢は無いのだから。




   

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