仔犬がいじめられる話
「わーあ……」
その日の授業終わり、私は校舎の玄関で立ち尽くしていた。
外は久々の土砂降り。仕方がない、こういうこともある。
そして私の傘は、ボロボロのベキベキに壊されていた。――仕方がない、こういうこともある。
学園内の温度調整は妖精達が行ってくれるが、天候の全てまでを調整することはできない。
二十四時間三六五日天候を調整するとなると、魔法石がいくらあっても足りないのだ。
エースやデュースが一緒にいる時はそうでもないのだけれど、一人で行動していると時々こういう嫌がらせを受ける。
魔法が使えないのにこの由緒正しい学園にいることを疎ましいと思う輩がいるのだ。
それに、この学園に来て以来様々な面倒事に巻き込まれまくっているが、その結果寮長や副寮長達と仲良くなった。立場のある先輩方に可愛がってもらっているのも、彼らからしたら面白くないのかもしれない。
因縁を付けられて取り囲まれることもあるし、頭からバケツの水を被ったこともあるし、えーとあとは……何だかとにかく色々ある。
それでも、私は異世界に放り込まれて尚、図太く生きている人間だ。しょうもないイジメに屈するほどヤワじゃない。
それに私にはエースとデュースっていう頼りになる(?)友人もいるし、グリムもいる。寮長や副寮長達だって良くしてくれる。
しかし今たまたま、私はひとりぼっちだった。エースとデュースは部活に行ったし、グリムもいない。
グリムは、昼食後「俺様腹が痛いんだゾ……」と真っ青な顔をしていたから、午後の授業を早退させたのだ。猫でも飲める腹痛の薬を買いに購買部へ行こうとしたところだったのだ。
はあ、と一つ溜め息を吐き、諦めて土砂降りの中を歩き出す。
グリムには薬が必要だし、私も傘を新調しなければならない。購買部へ行くしかない。
雨は容赦なく私を打ち付けた。
制服は一瞬で水を吸い、重く私の身体に纏わり付く。
コットンのスリッポンはあっという間にぐしゃぐしゃに濡れた。すぐに靴の中が水浸しになり、ぐっちゃぐっちゃと不快極まりない音を立てる。
「……」
いつもだったら全くもって平気なのだ。こんなイジメ大したことないし気にしない。それは、いつも一緒に怒ってくれたり、気遣ってくれる友人達がいるから。
だが、こんな風に一人の時に他人の悪意を頭から被ってしまうのは、なかなかしんどいものだった。
悪意は、私が普段閉めている心の蓋をこじ開けてくることもある。
一旦蓋が開いてしまえば、いつもは封じ込めている感情がぼろぼろとこぼれ落ちてくる。
なんで私、魔法が使えないのにここにいるんだっけ。
いつもいつも人に守られてばかりで、私はこの世界じゃ一人で何もできない。
これから私どうなっちゃうのかな。
「いじめられた」という事実は、急に重くなって私に圧し掛かった。
びしょびしょに濡れている自分がなんだか惨めで、自然と肩が落ちる。
さっさと走って購買部に行けば良いのに、足が重い。ノロノロと歩みを進めるが歩幅はどんどん狭くなっていく。
――私の足は、とうとう止まった。
乱暴な雨の音だけが周りを取り囲む。
息をするのにも圧迫感を覚えるような土砂降りの中、私の心は小さな音を立てて折れてしまったのだ。
突然、ふっと身体が軽くなる。
私の全身を打ち付けていた雨が遮られたことに気がついた。
「どうした、仔犬。犬なら犬らしく庭を駆け回ったらどうだ?」
右上から聞き慣れたよく通る声。
振り返って見上げれば、クルーウェル先生だった。自身のコートを左手で広げ、私を雨から守るように覆ってくれている。
「せっ……先生」
「なんだ、ずぶ濡れで突っ立って。我が校自慢の制服が台無しだな」
「先生! 良いですから……先生のコートが! 濡れちゃいます、毛皮なのに!」
先生はこのコートを大層気に入っていたはずだ。以前先生と薬品庫で二人きりになった時、このコートについて長時間うんちくを聞かされたことがある。
「問題ない。濡れたコートを元通りに乾かすくらい、俺の魔力なら造作もないことだ」
そう言うと、先生は右手からぼんっという音と共に傘を取り出した。魔法だ。
ほら、と傘を差し出される。
「……ありがとうございます……」
傘をありがたく受け取って差すと、先生はもう一つ魔法で傘を取り出し、今度は自分で差した。
「どこへ行くんだ?」
「購買部へ……」
「そうか」
言うやいなや、長い足で購買部のほうへ向かってずんずんと歩き始めた。私は慌てて先生の後を追いかける。コンパスが違いすぎて、先生は歩いているのに私は小走りだ。
私が先生に追いつくと、先生は歩を少し緩め私に合わせてくれた。購買部まで一緒に来てくれるつもりなのだ。
「先生……良いですよ、あの、私もう大丈夫です。この傘お貸しいただければ……雨が止んだらお返しします」
「なぜだ、俺がお前に付き添うことに何か問題でもあるのか」
「そういうわけじゃ……ただ、お忙しいかと思って」
「ハン、そりゃあ世話のかかる仔犬が多くて忙しいには違いないがな」
その「世話のかかる仔犬」の中に自分も含まれていることを知っている。スミマセンと小さな声で言うと先生はふっと笑った。
「仔犬を躾けるのも守るのも、俺の仕事だ。
お前にしょうもない嫌がらせをした駄犬にはきっちりと灸を据えておこう」
先生が足を止めた。私達はいつの間にか購買部の前に着いていた。
あんなに足取りが重かったのに、先生が先導してくれれば購買部なんて目と鼻の先だったのだ。
雨はだんだんと弱まり、そして上がった。通り雨だったのかもしれない。
黒い雲は急速に移動し、雲の隙間から細く日光が差す。
先生は傘を畳みながら私を見ずに言った。
「辛い時には声を出せ。キャンキャン吠えていれば良い、仔犬らしくな。
俺の仔犬が吠えていれば……まあそれが無駄吠えなら話は別だが、必ず駆けつける。
飼い主だからな」
いつもいつも守られてばかりで、一人じゃ何にもできないこの世界。
この世界にいる自分が惨めだったけれど、先生は助けてくれると――助けを求めろと、言ってくれた。
「じゃあ、俺はここで帰る」
「先生……あの、助かりました」
私は慌てて傘を畳み、先生に差し出した。先生は傘を一瞥すると押しとどめる。
「お前にやろう」
そう言って傘を再び私に握らせ、踵を返し歩き出した。
「せ、先生! ありがとうございました!」
コートの背中に向かって声を張るが、先生は振り返ることなく歩みを止めないまま言った。
「髪を良く乾かせよ。明日風邪を引いて俺の授業を休んだりしたら承知しない」
わあ教師、と、私が小さく笑ったのが聞こえたのか。先生は、今度はぴたりと足を止め、ぐるんとこちらを振り向いた。
シルバーグレーの瞳がしっかりと私を見据える。意地悪そうに口角が上がり、その形の良い唇が、美しく動いた。
「お前がいなければ張り合いも半減するというものだ、仔犬!」