先生が仔犬の危機を救う話









「けっ……!? 健康診断!?」

朝の教室、黒板にでかでかと書かれていたその四文字。
黒板を目にした私は、あまりの衝撃にひっくり返った声を出してしまった。

「はぁ? 何驚いてんだ、ユウ。この間クルーウェル先生が言ってただろ、聞いてなかったのか?」

怪訝な顔でこちらを見るエース。既に健康診断の準備は万端だ。運動着のパンツを履き、上半身は裸である。

「待てエース、確かあの時ユウは腹痛で……保健室にいたんじゃなかったか?」
「ん? ああ、そうだっけか……そっか、お前先生の話聞けてなかったんだな。
今日の午前は健康診断だから、一学年は授業無いぜ。午後からは通常授業だけどな」

記憶を辿ってフォローを入れるデュースに、エースが答える。デュースもさっさと制服を脱ぎ始めた。
クラスメイト達は皆、健康診断のために制服を脱いでいる。

「ユウも早く支度しろよ。えーと俺らは……身体計測、視力検査、心電図……の順かな」
「シンデンズ!?」

更なる衝撃に、私の声はひっくり返るを通り越して掠れた。
シンデンズって……心電図!? 
あの、手首や足首や胸に電極を付ける心電図!? 裸体に電極を付ける心電図!?

「何だよユウ……お前の故郷、心電図無かったのかよ」

エースとデュース、そしてグリムは、様子のおかしい私を心底不思議そうな顔で見ている。
もちろん私の故郷にだって、健康診断も心電図もある。学校でも健康診断は一年に一度全員が受ける。
ただ、私の知っている健康診断とこれから行われる健康診断、違う点が一つ。私の住む世界の健康診断は「男女が同時に同じ空間で上半身裸になる」ということはなかった。
いや、本当はこのツイステッドワンダーランドだって、男女が同時に同じ空間で上半身裸になることなんてないのだろうけれど。



 * * *



 魔法が使えないごく普通の人間である私が、魔法士養成学校であるナイトレイブンカレッジへ召喚されたのは、約一か月前のことだ。
どうやら私が元いた世界は、このツイステッドワンダーランドから見て「異世界」らしい。

元の世界に帰る方法がわからない私は、行く当てがない。そこで、ナイトレイブンカレッジの学園長に帰る方法を探してもらいつつ、方法が見つかるまではこの学園の生徒として生活することとなった。
私は魔法が使えないため、魔法士の才は持っているが人間ではないグリムと二人一組で生徒として認める、という特例である。

「それでは明日から生徒としてよろしくお願いしますよ」

私の処遇について学園長と私とグリムであれこれ話し合っていたわけだが、ようやく話がまとまり、学園長がこの場を閉めようとしたところで私は尋ねた。

「あの、女子用の制服はないのですか? これ、今私が着ているのって男子用ですよね?」
「……あなた女性なんですか!? ああもう……本っっ当〜に何から何まで有り得ないことだらけですね今日は!?」

 なんと、ナイトレイブンカレッジは男子校だったのだ。そして私は女性である。
入学式の時からなんだか男の子ばかりだなぁと思っていたら、自分のほうこそがイレギュラーだったというわけだ。まあ、性別の前に魔法が使えない時点で充分イレギュラーなのだが。
やせっぽちで女性らしい肉付きがほとんどない私を見て、学園長を含めた皆が男性だと思っていたらしい。全く心外である。

 結局、血気盛ん且つ思春期真っただ中の男子校に、女生徒が一人ぼっちで入学するのは色々と都合が悪いということで、私は性別を偽り、男子生徒として過ごすことになった。
私が本当は女性だということを知っているのは学園長と、ともにオンボロ寮で暮らすグリムのみである。
もっともグリムは人間ですらないから、彼にとっては性別など大した問題ではないようだった。

学園長は私が女だと知った瞬間、心底面倒くさそうな顔をしたが(仮面で見えなかったが多分、いや絶対していた)、それでも、私が女だとバレて不利益を被らないように色々と配慮はしてくれた。
運動着への着替えに使えるよう小部屋を用意してくれていたり、着用することで女性らしい体型を誤魔化せる魔法の下着も調達してくれた。
私はそんなものがなくても男の子に見えてしまうくらい胸もお尻も小ぶりだったのだが、念のためである。
とにかくそんなわけで、私は毎朝魔法の下着を着用し、その上から男子の制服を着て登校しているのだ。



 * * *



話は健康診断の朝に戻る。

さて、どうしたものか。この場で上半身裸にはなれない。魔法の下着で平らにしている胸を人に見られるわけにはいかないのだ。
仮病を使おうか。いやしかし、ついさっきまでエース、デュース、グリムと一緒に、食堂で朝食をもりもり食べていた。仮病というのはちょっと無理がある。

黙ったままの私を、いよいよエース達が不審そうに見たその時だった。
ガラッと勢いよく教室の引き戸が開かれる。

「ビークワイエット! うるさいぞ仔犬ども、静かにしろ!
健康診断で授業が無いからと言ってはしゃぐんじゃない」

担任のクルーウェル先生がよく通る声を出した。指示棒で私達を指しながら続ける。

「準備ができた者から廊下へ並べ。出席番号順だ。講堂へ移動しろ」

指示に従い、クラスからは続々と上半身裸の男子達が廊下へと出て行く。

「おい、早くしろよユウ」

エースとデュースに急かされるが、ああ、とか、うん、とか言いながら私は冷や汗を掻いていた。

制服のブレザーをのっそりと、なるべく時間をかけて脱いだ。しかし無情にもブレザーはものの十数秒で脱げてしまった、当たり前だが。
次はネクタイに手を掛ける。エースとデュースは行動が不自然に遅い私を変な目で見ている。

……ネクタイを解いたら、次はどうするのだ? シャツのボタンを外すのか? 魔法の下着で平らにした胸を人前に晒すのか?
下半身はどうする? ベルトを外し、ショーツを晒してここで運動着に着替えるのか?
ぐるぐると考えながら、手はゆっくりゆっくりと動かす。どんなにゆっくりと動いたって、時が止まるわけじゃないのに。

とうとうネクタイがしゅるりと首元から落ちた。

――次は、どうする。
私の顎から冷や汗がぽたりと落ちた。膝が細かく震えている。



「ステイ! 監督生!」

響いたのは、クルーウェル先生の声だった。

「お前はこっちだ、午後の授業で使う薬品の準備を手伝え。今日日直だっただろう」

先生はくい、と顎で廊下を指す。生徒達が向かう講堂とは反対方向だ。

「え? クルーウェル先生、今日の日直はユウじゃ……」
「どうでも良い。クルーウェル様の手伝いをしろと、そう言っているんだ。早くしろ」

口を挟んだデュースに、クルーウェル先生は更に言葉を被せた。
私は渡りに船とばかりに、急いでネクタイを締め直しブレザーを羽織る。エースとデュースに「じゃあ」とだけ言って、小走りでクルーウェル先生に付いて行った。



クルーウェル先生が入ったのは実験室の隣の薬品庫だった。私も後に続いて入る。

「この薬品を棚から出してその台に並べろ。粗相をするなよ、危険な薬品ばかりだ」

メモ用紙を手渡された私は返事をし、薬品棚へ向かい合った。メモの几帳面な文字と睨めっこしながら、瓶を取り出していく。

生徒の健康診断を中断させてまで手伝いをさせるのだからさぞかし忙しいのだろうと思ったのだが、クルーウェル先生はゆったりと窓辺に身体を預けている。
その上、あろうことか胸ポケットからタバコを出した。
当然なのだが、教室で先生は喫煙なんてしない。なんだか見てはいけないものを見ているようで慌てて薬品棚へ向き直った。

じじ、と火のつく音が小さく聞こえた。
私は薬品棚と向かい合いながらも、ちらちらと先生のほうを見てしまう。
美しい唇から紫煙が上っている。煙はほんの少し開いている窓の隙間から、外へと流れていった。



「なんだ仔犬、終わったのか」
「はっ……はい」

それまで窓の外を向いていた美しい顔が急に私のほうを向くものだから、私はまたひっくり返った声を出してしまった。
クルーウェル先生は私のみっともない声を気にする様子もなく、台に並べられた薬品をチェックする。

「よし、問題ないな。じゃあ次は給湯室でお茶でも淹れてもらおうか」
「……!?」

思わず目を剥いた。
今までだって先生の手伝いをしたことがないわけではないが、お茶を淹れろなどと言われたのは初めてだ。

「戸棚に俺専用の茶葉がある。名前が書いてあるからすぐにわかるはずだ。間違ってもバルガスの飲んでいる茶葉を使うなよ、あんな雑な味、俺には耐えられん。
来客用のカップがあるから、それも使って二杯淹れてこい」
「は……はい」

茶を淹れろなど、授業に全く関係の無い、生徒にやらせるのは理不尽な手伝いだ。
だがこの場合は願ったり叶ったりである。この手伝いが終わったら健康診断へ行って上半身裸にならなければならないのだから、手伝いはなるべく長引かせたほうが良い。
私は給湯室で、ゆっくりゆっくりお茶を淹れた。

カップをトレイの上に載せて薬品庫に戻ると、先生は奥の古ぼけたソファにふんぞり返って脚を組んでいた。

「戻ったか、仔犬。きちんと淹れられたんだろうな」
「は、はい、茶葉はすぐにわかりました。間違えていないので……大丈夫です」
「そうか」

先生は私が差し出したカップを持ち一口飲む。するとすぐに顔を顰めた。

「仔犬、渋すぎるぞ」
「えっ!? す、すいません」
「……仕方ない、恐らく抽出時間が長すぎたんだろう。……まあ、気持ちはわかるが」

そう言って、くっと口元を歪めて笑った。
……「気持ちはわかる」とは、どういう意味だろう。

「仔犬、お前も掛けろ。茶でも飲むと良い。俺の話し相手をしろ」
「は、はい……」

先生はまたも顎先で指示をする。
しかし健康診断をさぼってソファで茶を飲めなど、何の意図があっての指示かよくわからない。

クルーウェル先生は厳しいけれど授業はわかりやすいし、最終的には生徒の事を考えている先生だと思っている。
だからこそ、このサボりを促すような指示が理解できないのだ。授業の準備を手伝えなどと言うから大層忙しいのかと思っていたら、雑談に付き合えと?
ただまあ、健康診断に行かなくて良いならと、私は言われた通りにソファに腰掛けた。

それからしばらくの間、クルーウェル先生とおしゃべりを――もとい、クルーウェル先生のファッション談義に付き合った。やれこのコートはどこで買って云々とか、この靴はなんとかの革で出来ていて云々とか。
へえとか、はあとか、曖昧な相づちを打っているうちに時間はどんどん過ぎて行く。



キーンコーンカーンコーン……。

「おや、午前の授業が終わりだな」

チャイムの音を合図に、ファッション談義は終了した。
先生はとっくに空っぽになったカップを念押しするように煽る。
渋いと言っていたのに、結局、私の淹れたお茶を最後の一滴まで飲んでくれた。

「もう戻っていいぞ、仔犬。授業準備ご苦労だった」
「え、あ、はい……」

授業準備なんてほとんどしていない。一体この時間はなんだったのかと首を傾げながら薬品庫を出ようとすると、奥のソファから先生が声を掛ける。

「そろそろ健康診断に行くと良い。一学年はもう終わったはずだし、午後二学年が来るまでにはまだ時間があるだろう。
女性が一人混じっていることは、医師達にはこっそり伝えてある」



ドアの前で足が止まった。
今、何て言った?



目を見開いてゆっくりと振り返る。
先生はソファにゆったりと座り、脚を組んでいた。
窓を背にしているから、逆光で先生の表情がよく見えない。

「仔犬。ファッションの話は、お前には退屈だったかもしれんな。
せっかく女性に生まれたというのに、この環境じゃ女性らしい格好もできないだろう」
「……!?」

私の顔はきっと真っ青だ。声も出ず目を白黒させる私を見て、先生は楽しそうに言った。

「授業準備を手伝った褒美をやろう。今度の休み、俺がお前の服を見立ててやる。
仔犬の『生まれもった性』を生かす服が、この世界にも溢れている。例えば、スカートとか、ワンピースとか、な」

全身が、かあああっと熱を帯びた。
先ほどまで青かった私の顔は、恐らく今真っ赤に染まっている。

「準備ご苦労だった。Good“girl”」

逆光の中で、それでも先生の口の端が上がっていることだけはわかった。

「しっ……失礼しますっ!!」

ガラガラピシャンッと大きな音を立て、薬品庫のドアを勢いよく閉めた。そのままの勢いで、廊下をバタバタと走る。

バレていた。女性だと。いつから? どこから?
――でも、皆にわからないように助けてくれたんだ。



今心電図なんて計測されたら大変だ。
廊下を走る私の胸は、きっと今までの人生で一番速く、そして一番大きく鳴っているのだから。




   

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