先生が先生を卒業する話





05




数秒後、唇と唇の隙間をわずかに離した先生は、私の頭部と腰部を支えたまま子供に言い含めるような声を出す。

「ユウ、息を吐け。吸うんじゃない、吐くんだ。俺と一緒にできるな? ほら」

先生は、ハーと音を立ててゆっくりと長い息を吐く。
私はハッハッとそれこそ犬のように浅い呼吸しかできなかったが、先生は背中を優しく撫でてくれた。

「ゆっくり吐いて、吐いて、少し吸え。そうだ、ゆっくり。上手だな」

気づけば、私の頬は涙でびしょびしょだった。
一体いつから泣いていたのだろう。ぐちゃぐちゃに汚れた顔で、それでもなんとか先生の合図に合わせて呼吸しようと必死だった。



ソファにゆっくりと座らされ、やがて呼吸は徐々に落ち着いた。
私はどうやら泣いて喚いて、結果、過換気症候群、所謂過呼吸を起こしたらしい。
ぐったりと身体の力が抜けていた。ソファに沈み込む。

「落ち着いたか、ユウ」

先生は私の背中をゆっくりとさする。
優しい声色がじんと私の腹の中に響き、また涙がじわりと私の目尻に滲む。

キスされた。
先生にしてみれば、キスではないのかもしれない。元生徒の呼吸を整えるためのただの処置なのかもしれない。
だが私にとっては、初めてのキスだった。

「ずるい……なんで今、こんな時にユウって言うの」
「お前が飼い犬は嫌だと言うからだろう」
「……」

目尻の涙は頬を静かに伝う。

もう疲れた。
先生に振り回されているのではなく、その実自分の感情に振り回されていることに。

ソファに深く座り込み、放心状態でただ涙をはらはらと流している私の前に、先生が跪いた。

「ユウ。お前は、俺がお前を生徒だから放っておけなくて面倒を見ていると思っているのか? 本気で?」

なんと答えれば良いのか、わからない。
私の事を想ってくれているのではと感じた時も確かにあった。だが今はそんな自信は微塵もない。
私は考えることを放棄した。ソファに沈み俯いたまま、ぽつりと答える。

「……わからないです……」
「……そうか、わからないか」

そのまま、十数秒の沈黙。すると突然先生は私の手首を掴んですっくと立ち上がった。
引っ張られた私は、ソファの上で中腰のような姿勢になる。

「出かけるぞ。まだ最終の便に間に合う」
「も……もう夜ですよ? どこへ……」
「ユウ、疲れているところ悪いが、俺はまだお前の雇用主だ。雇用主の言うことは聞くものだ。ついて来い」



先生自慢のクラシックカーへ乗せられ、どこへ行くのかと思えば港の客船ターミナルだった。
一体どこへ行くんですかと聞いても、先生は答えてくれない。
私達は夕食も食べていない。先生は途中、港の売店でサンドイッチやデニッシュを買ってくれたけれど、食欲がなくてとてもとても食べられなかった。
乗り込んだフェリーは汽笛と共に進む。

私は一体どこへ連れて行かれるんだろう。ここまで来ると、もう日帰りで帰れる距離ではない。
今日は金曜日だから明日明後日は休みだけれど、それにしたって月曜の朝までには学校へ帰らなければならない。
それに先生が何も言わないものだから、着替えも歯ブラシも持ってきてないじゃないか。私の持ち物は財布とスマホだけだ。

先生はフェリーの中でもずっと私の手首を掴んだままだ。
まるで、犬が逃げ出さないようにリードを引いているかのよう。

フェリーを乗り換え、バスに乗り、空港についた。
まさかこの人は本気で飛行機に乗ろうとしているのかとギョッとしていると、先生は最終便の座席を二つ、正規価格で買ってしまった。



最終便の飛行機は混んでいた。飛行機の中でも先生はずっと私の手首を握っている。
先生は喋らない。私も喋らない。

私は窓から、はるか遠くに小さくなった賢者の島を眺めていた。
こんな風に上空から見れば、ちっぽけな島だ。もちろん私はこの島の外に出るのは初めてである。
私が知らないだけで、きっとこの世界は広い。二十歳を過ぎて尚、私はこの世界のことを何も知らない、知識も常識もない大人なのだろう。

そのうちに、飛行機のわずかな振動と疲労で眠気が襲ってきた。
うとうとしていると、ずっと黙っていた先生がやっと口を開く。

「寝てて良いぞ、ユウ」
「でも……」
「目的地はまだまだ先だ。今のうちに寝ておきなさい」

声を出さずに頷くと、急激に瞼が重くなる。
睡魔に抗えずに私は眠りについた。



* * *



飛行機を降り、タクシーに乗り込んだところまでは記憶がある。
タクシーの中でも私はぐっすりと眠ってしまっていたようで、先生に肩を叩かれ起こされるとそこは全く見覚えのない景色だった。

「着いたぞ、起きろ」
「ここは……?」

時刻を見れば、早朝五時。一体どこだろう。
タクシーから降りて辺りを見回せば大邸宅が並ぶ。高級住宅街のようだった。

「俺の実家だ」
「……はぁっ!?」

早朝の住宅街に私の素っ頓狂な声が響く。アオーンとどこかのお宅の犬が遠吠えした。

「さあ来い」

先生はグイッと私の手首を引っ張る。私は散歩に行くのを拒む犬のように足を踏ん張った。

「む、無理です、一体全体何のために私を連れてきたんですか!?
こ、こんな……昨日の服のまま、お風呂も入ってないし泣いたまんまでメイクもドロドロなのに」
「風呂なら貸してやる」
「そういう問題じゃないです!」
「つべこべうるさいぞ、ユウ」

ずるいのだ、昨晩からずっと私を名前で呼ぶ。
名前を呼ばれるたびに、私の胸はきゅうっと縮こまるというのに。

「あなた達、静かになさい。早朝よ」

大きなお屋敷からパタパタと駆け寄ってきた一人の女性。
見てすぐにわかった、クルーウェル先生のお母様に違いない。顔がそっくりだ。

「ああ、悪い母さん」
「タクシーの音が聞こえてからずっと待っていたのよ。お父様なんか、夜に電話もらってからソワソワしてあまり寝ていないわ。早く家の中に入りなさい」
「ほら、ユウ」

再度先生に手首を引っ張られ、私は観念して重い足取りで付いていく。
想い人のお母様との初対面だというのに挨拶をし損ねた。最悪だ。



長い廊下、広いリビング、天井にはシャンデリア。
クラシックな趣の大邸宅は、どこからどう見ても「お金持ち」だった。
官僚のお宅というのはこういうものなのか。家柄が釣り合うというのだから、サリーさんのお宅もきっとすごいのだろう。

「お掛けになって」

革張りのソファに勧められ座ろうとしたが、私はまだきちんと挨拶もしていなかったことを思い出し、座る前に慌てて頭を下げた。

「は、初めまして……ユウと申します」
「デイヴィスの父と母でございます」

お母様はお茶を運んできたトレーを脇に置くと、ゆったりとお辞儀した。
お父様のほうはソファに座ったまま、むっつりと黙り込んでいる。返事はない。

私は何故ここにいるんだろう。全くわけがわからないまま連れてこられ、とりあえず借りてきた猫のようにしているしかない。
お茶に手を付けることもできず、じっとソファに座っていた。

黙り込んでいたお父様が、ようやく口を開く。

「君は……デイヴィスの助手兼住み込みの家政婦、と聞いている。
異世界から来たんだって? 魔法も使えないとか」
「は、はい……」

値踏みするような視線を頭の天辺から足の先まで順に浴びる。
私は萎縮して、もともと小さな身体を更に縮こまらせた。

お父様はタバコに火をつけ大きく吸い込むと、ふうーと長い煙を吐き出す。白い煙が頭上を漂って、やがて消えた。

「……公務員として働くことに抵抗はないかね? 住み込みの職種はないが、公務員宿舎の準備はしてやれるだろう」

その言葉でやっと合点がいった。
ああ、先生は次の職場を用意してくれようとしたのだ。職と住処を失う元生徒が、路頭に迷わないように。

最後まで先生は優しい。でも、時に優しさは何よりも残酷だ。
こうなって尚、生徒扱いされていることが、ギリリと私の胸を締め付ける。




   

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