先生が先生を卒業する話





04




深酒が祟って、いつもの起床時刻を十分もオーバーしてやっとベッドから這いずり出る。
学校についたらまずは二日酔いの薬を調合せねばならない。

「おはようデイヴ。朝食、できてるわよ。今朝は私が作ったの」
「……仔犬はどこだ? まだ帰っていないのか?」

キッチンに立つサリーに挨拶も返さず、開口一番が「仔犬」だったことが気に障ったらしい。サリーはむっと眉間に皺を寄せ、黙って配膳を進める。

「ここです、先生。おはようございます」
「あ、ああ。おはよう」

キッチンの隅から幽霊のように出てきた仔犬は無表情だった。



昨日の夜と比べて、食卓は非常に静かだった。
BGMは垂れ流しのニュース番組と、ナイフとフォークの微かな金属音のみ。
いつものパン、フルーツ、コーヒーの他に、サリーはベーコンエッグとサラダも用意していた。いつもより賑やかなメニューなのに、いつもより静かな朝食。

沈黙を破ったのは俺だった。

「サリー、今日は帰ってくれ。遙々薔薇の王国からやって来てくれたことは有り難いが……ここは俺の家だが、仔犬の家でもある。彼女が遠慮して家から出て行くようなことはしたくない。
親には俺から電話しておくから。明日は土曜日だし、俺のほうから実家に顔を出す。早朝家を出れば、夕方までには着けるだろう」
「そうね、わかったわ」

ごねるかと思っていたが、サリーはあっさりと引いた。拍子抜けしてしまう。

一先ず、これで今夜仔犬がこの家を出る必要は無くなった。後は明日、俺が直接両親と話をつけるだけだ。
サリーと結婚する気はない、今は結婚の必要性も感じていない。そうはっきり伝えなければいけない。
クルーウェル家の跡継ぎに関しては差し迫った問題ではない。家長の父だってまだまだ現役なのだ。

仔犬をちらりと見れば、無表情でロールパンを咀嚼していた。
挨拶の後、仔犬は一言も発していない。元々表情豊かでケラケラと良く笑う仔犬なのに、昨日からの騒ぎで随分動揺させてしまったのだろう。

早くきちんと眼を見て伝えたかった。

お前のような仔犬は、飼い主がいなければたちまち迷い犬だ。
ここはお前の家だ、お前はずっとここにいればいい。
安心して、俺の元で健やかに走り回れ。
良いだろう? ユウ。

天が俺とお前を引き離すその時まで、俺はずっとお前をそばに置いておきたいのだ。



その日仔犬は一日表情が乏しく無口だったが、それでもそつなく仕事をこなした。十六時の定時ぴったりで上がらせる。
俺もサイエンス部の部活動が終わると同時に十八時、定時丁度に学校を出た。
こんなにも早く家に帰りたいと思うことはそうそうない。鏡舎から教職員寮の入口まではひとっ飛びだが、そこから自宅玄関までのわずかな距離ももどかしい。俺は革靴の踵を鳴らして走った。

「おかえりなさい、先生」

急いてドアを開ければ、出迎えてくれたのは仔犬だった。
ほ、と吐息が漏れる。この家に仔犬がいることに安堵していた。

「ただいま、仔犬。――話をしよう」

仔犬は、息を切らしている俺を見てほんの少しだけ笑うと、コクリと頷いた。



* * *



先生は定時ぴったりに学校を出たのだろう、いつもよりだいぶ早く帰ってきた。
私のことを気にかけていてくれたのだと思う。
先生は、優しいから。私が先生に恋していることを知っているから。生徒は皆先生の大切な仔犬だから。

私達は、ダイニングではなくリビングのソファへ並んで座った。
マグカップいっぱいの温かいミルクを渡される。立ち昇る湯気が優しい。先生のほうはコーヒーのようだった。
先生はきっと、私が落ち着くようにとミルクを淹れてくれたのだと思うけれど、既に私は随分と落ち着いていた。今朝、サリーさんと話して結論は出たのだから。これから話すことを、静かな気持ちで受け入れている。

私の隣に座る先生がこちらを向き、ゆっくりと口を開く。
その眼には僅かに動揺が浮かんでいた。温かいミルクが必要なのは、私より先生のほうかもしれない。

「仔犬」
「先生、私から話します」

その声を遮ると先生は黙り、私に発言を譲った。
準備しておいた封筒をそっと内ポケットから出す。
大丈夫、私は落ち着いている。

「今までお世話になりました。後任の方への引き継ぎまで、よろしくお願いします」

退職届というものを生まれて初めて書いた。
仕事をしたことも初めてだったから、退職の流儀というものはもちろん知らなかった。
検索して調べたのだが、恐らく元いた世界のやり方とそう変わらないようである。退職届を出し、引き継ぎは円滑に、立つ鳥跡を濁さず。

濁さずに、綺麗に飛び立とう。
多分それが私にできる最大限だ。

「……どういうつもりだ」

ぴくり、と先生の眉が片側だけ上がる。低い声だった。

「俺は仔犬とこんな話をするために早く上がってきたわけじゃない」
「私はこの話をするために先生を待っていました」

怖い顔だ。先生は怒っているのである。

「サリーとは結婚しない」

険しい顔のまま、先生は言った。

「結婚しない」、その言葉が嬉しくないと言ったら嘘になる。この二人の生活がもう少し長く続くというのであれば、それはこの上ない甘い誘惑だ。
だがもう思い知ったのだ。私は間違いなく先生の邪魔になる。

いつか先生が真に結婚しようと思う時、私という存在が今回のように先生の足枷になるのだ。
ペットというのは、主人一人だけの意思で飼えるものではない。同居する家族全員の同意が無いと飼えない。奥様の望まないペットなど大きなトラブルの元だ。
仮に結婚しなかったとして、先生に恋人ができる時にやっぱり私は邪魔である。
それに、私は先生に恋人ができるところを近くで見ていることなんて、とてもとてもできない。

「先生がサリーさんと結婚してもしなくても、私はもう先生のそばにいないほうが良いと思ったんです」
「何故だ?」

先生はくわっと目を剥いた。こめかみに青筋が立っている。剣呑な空気が部屋を包み、怯みそうだった。
だが引き下がるわけにはいかない。
落ち着け、落ち着いて。私はまだ冷静でいられる。

「辞めるだと? 今お前に辞められたら困る。飼い犬の癖に勝手に飼い主のそばを離れるなど、許さん」

犬と飼い主を強調する言い方に、私の神経は逆撫でされた。
居丈高な先生が好きだったはずなのに私も大概都合が良い。私はつい昨日まで、寧ろ進んで忠実な犬であろうとしていた。

だが、状況は変わったのだ。私はもう犬じゃいられない。

「飼い犬? 飼い主? 私はもう先生の生徒じゃありません、面倒見て下さらなくても、大丈夫です」

売り言葉に買い言葉だった。先生に対してこんな物言いをしたことはない。
先生のこめかみの青筋は更に膨張する。
お互いもう冷静ではなかった。

「なんだ、犬扱いが急に不満か。あんなに尻尾を振って喜んでいた仔犬の台詞とは思えんな」

はん、と鼻で笑われ、かああっと頭に血が上る。

尻尾を振って喜んでいた、確かにそうだ。バカ犬のように先生の掌の上で尻尾を振って喜んでいたのだ、私は。
恋人になれる可能性なんて最初から無かったのに!

「お前はずっとここにいればいい。餌は欠かしたことないだろう」
「じゃあ餌はお返しします!!」

ガタン! とソファから立ち上がり、項からネックレスを引きちぎった。
そのままローテーブルに投げつける。

「……仔犬」

カシャリと乾いた音を立てて無造作にテーブルの上で広がるダイヤのネックレスに、先生の顔が強張った。
私の言っていることが本気だと理解したのだろう。

先生にもらった、大切な大切なプレゼント。
このネックレスがないと私は駄目だと、そう思っていた。
だがこれがなくても私は平気でいなければいけない。今日からは。

先生の顔色は、悪い。少し青ざめているようにも見える。
対して私はきっと真っ赤な顔をしているだろう。頭に血が上っているのが自分でもわかるほど興奮していた。鼓動が早鐘のようにガンガンと身体中に響いている。

「ずっと、最後まで飼ってもらえる保証もないのに……飼い犬でい続けろと?
サリーさんと結婚しなかったとして、いつか先生が誰かと結婚する時に、私はやっぱりこんな想いをしなければならないんでしょう?
だったら、早く先生から離れたほうが良い。そのほうがまだ傷が浅くて済む」
「こい……」
「それとも、先生が結婚しても、ううん恋人ができても、私を助手として家政婦として雇い続けるんですか?
恋人と過ごした後の先生のそばで、恋人の残り香を漂わせた先生に寄り添って仕事をしろと?
いつか……もしかしたら自分の順番が来るんじゃないかって……忠犬らしく待って過ごせと?」

心臓がうるさい。息が荒くなっているようだ。
はあ、はあ、という荒い呼吸音が耳につく。
それが自分の呼吸音だと思い至る余裕はなかった。

「そんなの、耐えられるわけ、ないじゃない、ですか、」
「待て、仔犬」

息が苦しい。
先生は私の様子がおかしいことに気がついたようだったが、私はもう自分で自分を止められない。

苦しい、息を吸っても吸っても足りない。
視界が虹色にチカチカして、先生がよく見えない。苦しい。

「私の気持ち、五年以上、はあっ、先生、を、想ってる、はっ、わた、しの」
「仔犬! 落ち着け、過換気だ、息を整えろ!」
「きもち、はあっ……知ってて!!」
「良いから黙れ!! 息を吸うな、吐け! ゆっくり呼吸しろ!!」

耳に水が張ったようだ。自分の声も先生の声もよく聞こえない。
聞こえないから怒鳴るしかない。目も見えない、耳も聞こえない状態で、私は必死に叫んだ。

「もう、生徒、じゃない!! だから、面倒を見る必要も、ないです!! ばかに、しないで!!」

苦しい、苦しい、苦しい。
吸っても吸っても苦しい。呼吸がうまくできない。

チカチカしていた視界はそのままぐにゃりと歪む。胸が締め付けたように痛く、手足に痺れを感じた。
立っていられない。膝から崩れ落ちるその瞬間だった。



「ユウ!!」

私の呼吸は、無理矢理に止められた。
先生が、唇で私の唇を塞いだのだ。




   

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