先生が先生を卒業する話





03




次の日の朝。
エースとデュースに置き手紙でお礼を告げ、私は早朝にクルーウェル先生の家へ戻った。
予定通り、六時前の到着。お給料をもらっている以上、仕事はきちんとしなければならない。
先生はまだ寝ている時刻だ。そっと玄関の鍵を開け、物音を立てずにそのままキッチンへと向かう。

「お帰りなさい、ユウさん」

キッチンへと続くダイニングで私を出迎えてくれたのは、サリーさんだった。

予想外……でもない。
リビングかダイニングで私を待っているんじゃないか。なんとなくそんな気がしていたのだ。

何時からここにいたのだろう。サリーさんは既に化粧もばっちりだ。
対して私はスッピンで、せめて眉毛だけでも描けば良かったかと妙な後悔をした。

「朝食作るの、お手伝いするわ」
「いえ……結構です、家事は私の仕事なので」
「デイヴの口に入る物を手ずから準備したいのよ。婚約者として、ね?」

わかってくださる? と微笑まれれば、キッチンを譲る他ない。はいともうんともつかない曖昧な返事をして、流しから退く。
じゃあまあ私はコーヒーでも準備するかと豆をガリガリ挽いていると、サリーさんは流しでフルーツを洗いながらこちらを見ずに声を出した。

「ユウさんと、二人きりでお話ししたくて。私のこともきちんとお話しできていないし、あなたのこともきちんと知れていないわ。
昨日の夕食ではデイヴがいたし、デイヴが帰ってくる前の時間は、ユウさん随分動揺してらしたようだから」
「……動揺なんて」

思わずコーヒーを挽く手が止まり、硬い声で反応してしまう。
動揺なんてしていませんと語尾まで言い切れなかったのは、さすがに説得力が無かったからだ。明らかに図星なのだから。

「私ね、デイヴより五つも年下なんだけれど……所謂幼なじみでね。
彼、あんな派手な格好だけれど、優しくて面倒見が良い人じゃない。年下の私を随分世話してくれたのよ。
私は一人っ子だったから、最初はお兄様が出来たみたいな気持ちだったのだと思うわ。すぐに恋心へ変わったのだけれどね。
縁談を決めたのは親同士だけど、私は本気でデイヴを愛しているのよ」

ざあああという蛇口から水の流れる音と、コーヒー豆の匂いで満ちているキッチンに流れるサリーさんの声。
その声を聞きたくない、耳を塞いでしまいたいと思っているのに、一方では一字一句聞き逃すまいと必死に耳をそばだてている。

「異世界から来た、って仰っていたわね。それならあなたにはわからないかもしれないけれど、クルーウェル家は名門魔法士の一族よ。デイヴのお父様もお母様ももちろん、ご親族皆様優秀な魔法士でいらっしゃるわ。
デイヴのお父様は魔法庁の官僚でいらっしゃってね。私の父もなの。昔、魔法庁宿舎に住んでいた時からの付き合いなのよ、クルーウェル家とは」

魔法庁。聞いたことのある名前だが、いくつかある省庁の一つだということぐらいしか知らない。
きっと、元いた世界での警察庁や気象庁くらいには認知されている行政機関なのだろう、「庁」なのだから。

だが魔法庁など、私にとって馴染みはない。
私はナイトレイブンカレッジを卒業して、さらに社会人として一年以上生活していて、それなのにまだ、この世界のことをやっぱり何も知らないのだ。私にとって馴染みがあるのは、この学園と周辺の街くらいのものである。

きゅっと蛇口の栓を閉める音が響き、サリーさんはこちらをくるりと振り返った。
流しの上の窓から朝日が入り、彼女の顔が逆光でよく見えない。
それで良かったと思う。昨日先生と寝たかもしれない女の顔なんて、まじまじと見ていられる自信はない。
彼女の表情はよく見えないが、口角が上がっていることだけはわかった。

「つまり良いとこのお坊ちゃまというわけなの、デイヴは。まあ私もそうなんだけど」

明るい声色に、文句のつけようのない容姿。
この家の主人が目覚める前から化粧も着替えも、身支度を完璧に整えている。
両手で抱えているストレーナーの中には、鮮やかな黄緑色のマスカット。
彼女は、どこからどうみても完璧な若奥様だった。

「ね? つまり、わかるでしょう?」

首を傾げて微笑む彼女に、私はこくりと頷いた。
コーヒーミルの持ち手に置いた手が、僅かに震えている。力が入らない。

「私とデイヴのことを話すのはこのくらいにして……次はユウさんのことを聞かせて欲しいわ」

何も話すことはない、何も。何も。
そう思っているのにサリーさんの口は止まらない。

「全く知らない世界に突然放り込まれて……その上、魔法も使えないなんて。さぞかし心細かったでしょう? 同情するわ。
きっとデイヴも、大切な生徒さんが路頭に迷うのを放っておけなかったのね」

ここから逃げたい、今すぐ帰りたい。元の世界へ帰りたい。

「ほら、デイヴったら優しい上に……職務には誠実でしょう? 生徒さんの面倒を見るのも、大切なお仕事ですものね。
ユウさんのことが生徒さんとして大切なのね。だから卒業しても『仔犬』なのだわ」

早く、早く。どこかへ逃げなければ。
ここにいたらきっと私はボロボロに壊れてしまう。

傷つきたくない、先生と離れたくない、何も話したくない先生と離れたくない苦しい苦しい息ができない、

「それで、お引っ越しはいつ頃できそうかしら?」



『私だって、本気で先生を愛しています』

その台詞は、喉から一ミリたりとも出ようとはしなかった。

いつか、「お前のがむしゃらな前向きさと図太い神経を買っている」と先生が褒めてくれたことがある。
前向きで図太い神経の私は、もういない。
ここにいるのは、傷つくことが怖くて逃げ出すことしか考えていない臆病者だ。



「……助手と家政婦をやめるとなると、仕事を探さねばなりませんので。新しい仕事が決まるまで、お時間いただきたいです。
それに……私のしている仕事など大したことはないでしょうが、それでも後任の方に引き継ぎも必要でしょうし」

そうね、とサリーさんはストレーナーからマスカットを一粒プチリとちぎると、口に放り込んだ。
ごくりとマスカットを飲み込んだサリーさんは、再び赤い唇で弧を描く。

「新しいお仕事なら私の父に口を利いても良くてよ。魔法庁はいつでも人手不足だから」



 * * *



二日酔いでガンガンと頭が痛む。昨夜は流石に飲み過ぎた。
深夜、泣き疲れたサリーを客間へ運び、その後赤ワインを二瓶空けた。酒の力を借りないと、眠りにつけそうになかった。



飼い慣らしたとばかり思っていた仔犬は俺の知らない誰かの元で一晩過ごし、幼なじみのサリーには抱いてくれと泣いて縋られ、とんでもない夜だった。

サリーは、抱けなかった。

物理で言えば、もちろん抱けた。客観的にみてサリーは良い女だと思うし、セックスアピールも充分にある。
だがここでサリーを抱けば、俺はサリーの気持ちを受け入れ結婚するということだ。
それはできない。サリーは後腐れ無い女ではない。

結婚する気はなかった。結婚という文字が頭に浮かぶこともほとんどなかった。
俺は今の生活が気に入っている。激務だが、教師は天職だと思っている。
このナイトレイブンカレッジにいれば充実した設備で好きなだけ実験ができる。
そして、それを支えてくれる仔犬がそばにいる。



助手兼家政婦。体(てい)の良い肩書きだ。
あの仔犬を手元へ置いておける理由ができた時、しめたと思った自分が確かにいた。
憐れな生徒を案ずる教師のふりをして、彼女を自分の元で囲うことに確かに喜びを抱いていたのだ、俺は。

彼女がいることで、俺の心は時に和ぎ、時に弾んだ。
いつか異世界へと帰ってしまうかもしれない少女。帰る術が見つからなくとも、若い彼女はいずれ巣立つだろう。
それでも、あの子を一時でも自分の手元へ置きたい。そう思っていた。
自分の気持ちからは無意識に目を逸らし、ただただ思わせぶりな態度だけをとり彼女を翻弄する。
俺の態度や行動で一喜一憂する彼女を見れば、それが一番満たされた。彼女の気持ちが未だ自分にあることが確かめられたからである。

サリーとの結婚、それはこの生活の終わりを意味する。
もちろんサリーと結婚したとしてもナイトレイブンカレッジの教師は続けるだろうが、あの子を手元へ置いておくことはできないだろう。
それは、どうしても嫌だった。

認めたくはないが――あの仔犬がいないと、俺は駄目なのだ。




   

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