先生が先生を卒業する話
02
じゃあまた明日、なんて明るい声を出して、仔犬は靴を履いた。
サリーはひょっこり廊下に出てきて「ありがとうユウさん、また」と鷹揚に手を振っていたが、俺はただ突っ立っているだけだった。
玄関の重い扉が開き、バタンと閉まる音。
次いで、ウィーン、ガチャ、と無機質なオートロックの施錠音が聞こえた。
いつの間にかダイニングに戻っていたサリーは、平然と食事を続けている。
「本当美味しいわね、このシチュー。あなたが彼女をそばに置いておくのは、料理の腕を買って?」
唇と同じ真っ赤な爪がスプーンを運ぶ。
銀のスプーンの上の牛肉は、端麗な口の中へ消えた。
俺は黙って再び椅子に着いた。冷めたビーフシチューを口へ運ぶ。
食欲なんて全くないが、今仔犬の作った食事を残すことは絶対にしない。意地でもしない。
「聞いたわ、元生徒なんでしょう? 男子校だっていうのに、女の子が紛れ込むなんてびっくりだけど」
サリーは中身が残り僅かになったワイングラスを煽る。
深紅はするりとガラスを滑って、一滴残らず音も無く吸い込まれる。
カタンとワイングラスをテーブルに置く音が、ゴングだった。
「……どうかしてるわ。一族全員名門魔法士のクルーウェル家、そのご長男がよ?
十六歳も年下の元性別詐称生徒、その上魔法すら使えないお嬢ちゃんに入れ込んでるなんて知れたら……お父様とお母様は何て言うかしらね」
「やめろ。俺の事はどうでも良いがあの子を侮辱するな」
ぴしゃりとサリーを遮ると、僅かにサリーの頬に赤味が差す。怒ったのだ。
「あの子が性別を偽っていたのは、我々学園側の都合だ。我々がそうさせていたんだ。彼女に非はない」
「非はないから、だから何!? 異世界から来た年端のいかない少女が哀れで健気で、それで絆されたっていうの!?」
ガタン! と剣呑な音を立て、サリーが勢いよく立ち上がった。
「私だって健気だわ! もうずっとデイヴを想ってる! そうよ、親同士が縁談を決めたエレメンタリースクールの時からずっと!!」
サリーのその怒鳴り声で、体(てい)だけはぎりぎりのところで保たれていたこの家の均衡が崩れた。
今までずっと妙な空気で、気まずい空間で、だが誰も直接的に己の恋愛感情を口にしなかったのだ。
サリーも、仔犬も、俺も。
「デイヴ、あなたが好きなの! もうずっと、ずっと……」
サリーは俺の脚に縋り付く。涙をボロボロと流し、頬を俺の膝頭に寄せた。
「待てよ……お前……ハイスクールの時もカレッジの時も、彼氏を取っ替え引っ替えしてたじゃないか」
こんなサリーを初めて見ている。
俺は声を震わせないようにするので精一杯だった。
「デイヴが私を見てくれないからじゃない! あなたの気を引きたかったからそうしてただけよ……デイヴが、好きなの……」
美女は涙も美しいものだ。真珠のような涙が、黒いスラックスへと吸い込まれていく。
サリーはもっと尊大で、誇り高くて、ちょっと高飛車で。
揺るがない美貌、いつも自信満々。俺の知っているサリーはそんな女性だった。
初めて見る幼なじみの切実な涙に、胸が痛む。
「ねえお願い……デイヴ、私のこと嫌いじゃないでしょう……? 受け入れてよ……」
サリーのアイメイクは涙でぐちゃぐちゃに乱れ、瞼は真っ赤に腫れていた。
戸惑いと動揺で、額から汗が一筋流れる。
その一筋は頬を伝い顎を伝い、ぽたりとダイニングの床に落ちたのだった。
* * *
「おいユウ、人んちに押しかけたからには、一から十まで洗いざらい話せよな!」
「そうだぞ! 警察学校の寮、外泊届出して来たんだぞ」
私が頼れるのは、やっぱりエースとデュースしかいない。
幸いにも二人とも、卒業後も賢者の島で生活していた。
デュースは警察学校で寮生活を送っているが、大学に進学したエースは大学近くのアパートで一人暮らしだ。そこへ押しかけたというわけである。
購買部のストックルームに侵入して一晩明かすことも考えたが、多分すぐサムさんにバレる。バレたらクルーウェル先生に一発で連絡が行くに決まっている。
その点、エースとデュースは百パーセント私の味方だというところが信頼できた。
カクカクシカジカ、コレコレウマウマ。
事の顛末を一通り話し終わると、エースとデュースは顔を見合わせ、「うわぁ……」と二人揃って嫌な声を出す。
「でもユウって……一年生の時からクルーウェル先生のこと好きだよな? すごく一途……だよな」
デュースがぼりぼりとポテトチップスをかじりながら言った。
二十代前半の私達はまだまだ若くて、ビーフシチューを詰め込んできた私はともかく、二人はスナックやら炭酸ジュースやらを広げて、いつの間にかパジャマパーティー風だ。
「てかさ、俺はクル先だって満更じゃないと思ってたんだけど」
コーラを飲んでいたエースはプハッと一息吐くと、私を指差した。
「だってそうだろ? ユウ、住み込みで働いてるんだろ? 自分に好意を持っている女の子をさぁ、住み込みで置くって……どーよ?
その気が無ければしないと思うんだけど……ハッ、もしかして」
エースはぴゃっと口元を両手で覆い、急に小声になる。
「もうヤッた?」
「ヤッてない!!」
エースの小声に爆音で怒鳴り返す。わかったわかったとうるさそうに耳を塞ぐジェスチャーであしらわれた。
「まあそれもすげー話だけどな。一年以上一緒に住んでて一切手を出さないって……なんだあの人? インポか?」
「ちょっとエース! 女子の前で直接的な単語を出さない!」
「うーん、ユウは……女子枠……ではないからな……」
「……デュースぅ……?」
ジト目で見れば、デュースはふいと目を逸らす。
「んー、もしかしてユウのことはやっぱり生徒で、女としては見てねーのかもなー」
エースの何気ない一言に、私は固まってしまった。
私の様子に気づいたエースはマズいと思ったのか、慌てて取り繕う。
「あ、いや、やっぱユウは元とはいえ大切な生徒じゃん?
クルーウェル先生って教師っつー仕事にめちゃくちゃ誇りもってる感じだしさぁ?
元生徒となると……あーと、手を出すタイミングも難しいんじゃね?」
「いや……ユウはやっぱり男子校の中で過ごしていたせいもあるのか、女性という感じがしないから……こう、少年というか」
「いやデュースちょっと黙ってろこのポリスメン」
「なんだよ! 警察官なのは今関係ないだろ!」
懐かしいエースとデュースのやり取りに、私は思わず声を上げて笑ってしまう。
エースなんかはそれでホッとしたようで、わかりやすい安堵の息を吐いていた。
でも、エースとデュースの言うとおりかもしれない。
私が思わせぶりだと思っていた先生の態度や行動は、全て元生徒への愛情からくるもので、恋愛感情とは違うのかもしれない。
そう考えれば、今までの全てが腑に落ちた。悲しいとか辛いとかよりも、なんだか納得してしまった。
「まあさ、ユウ。明日は帰れよ。俺らはお前のことをマジで友達だと思ってるし、こうやって三人一緒なら泊めてやれる。でもさすがに俺だって、お前一人じゃ泊めねーよ。
お前は大事な友達だから……お前が本気で惚れてるクルーウェル先生に誤解されるような行動は、止めておいたほうがいい」
「そうだな。僕もそう思う」
エースの至極真っ当な意見に、デュースも同調した。
「……うん……ありがと」
「もう寝よーぜ、こんなことやってるけど明日も平日だろ。デュース、お前も朝帰るんだしさ」
「そうだな」
私達は、三人川の字に寝転んだ。雑魚寝である。
エースの部屋はお世辞にも広いとは言えなかったけれど、今はその狭さが心地よい。マブダチとは有り難いものだ。
「……ねえ、エース、デュース、まだ起きてる?」
「どうした、ユウ」
「眠れないのか」
「……先生さぁ……サリーさんと……その……や……ってると思う?」
次の瞬間、二人が息を呑んだのがわかった。
「わかったありがとうおやすみ」
「「……」」
結局その日は、ほとんど眠れなかった。