先生が先生を卒業する話





01




私とクルーウェル先生の関係。呼び方はいくつかある。
元生徒と教師。助手と教師。家政婦とその雇用主。
関係としては、もう一つある。だが呼び方がわからない。
私は先生に恋をしている。先生はその想いを恐らく知っている。そして先生の気持ちはわからない。これは、「片想い」と呼ぶのだろうか。

本当に「片」なのだろうか。淡い期待がないといったら嘘になる。
想いが一方通行だと断言するには、先生の態度は些か思わせぶりが過ぎる気がしてならない。
それとも、私が子供だからそのように感じてしまうだけなのだろうか。思わせぶりに感じる数々の行動は、大人から見たら大したことないものなのだろうか。

この関係の呼び方は、考えてもわからない。
わかっているのは、私はもう五年も先生を好きだということだ。



* * *



先生の助手兼家政婦になって、丸一年と二か月。二人の同居生活も、随分と板についた。

「十六時だ仔犬、上がれ」
「はい先生」

十六時は助手としての仕事の上がり時刻だ。先生はもっと遅くまで学校で仕事をするが、私は先に家へ帰り夕食の準備や家事諸々をするのだ。それは家政婦としての仕事である。

「仔犬、今日の夕食は何だ」
「ビーフシチューにしようかと。寒いので」
「良いな、早く帰る。レーズンバターは」
「もうすぐ切れそうだったので作っておきますね」
「Good girl」

私が先生の助手を行い、更に住み込みで家政婦を行うということは、四六時中一緒だということだ。
周りに生徒や他の先生方などがいれば絶対にないことだが、二人きりだと学校でもこんな会話をすることもある。
まるで夫婦のようじゃないかと自分でも思う。
だが私達は夫婦じゃないし、それどころか恋人同士でもないのだ。

それでも、この関係に名前が無くたって私は幸せだった。
きっと先生だって私のことを憎からず思ってくれているとは思う。
だって私達の生活は穏やかで、いつも優しい空気が流れているから。



ビーフシチューは得意料理の一つだ。魔法は使えないが、この世界にも圧力鍋がある。牛肉をとろとろに煮込むならそれで事足りるのだ。
以前ビーフシチューを作った時、先生は黙々と食べおかわりまでしていた。きっと嫌いじゃないのだと思う。
今日も美味しく作ろう。フンフンと鼻歌なんて歌いながら、私はガチャリとドアの鍵を回した。

「おかえりなさい、デイヴィス!」

私達の家の廊下をバタバタと駆け寄ってきたのは、ブロンドのロングヘアーに真っ赤な口紅の美女だった。
私は玄関に立ち竦んだまま目を点にした。

え、誰? 鍵、掛かっていたよね? え、合い鍵を持っている?
先生の彼女? え、え、そりゃいてもおかしくないけど、でも、同居しているこの一年以上影も形も無かったじゃない?
あっ、先生のご家族かな? お姉さん? 妹?
それなら納得、鍵を持っていたってまあおかしくはない……?

とっ散らかった脳内は収拾がつかない。大混乱すると、人間は何も喋らなくなるものだ。
私はただ黙って突っ立っていた。

「ええと……どちら様かしら?」

美女は困ったような笑顔で私に問いかける。
「どちら様」は……私の台詞だと思うのだが、――違うのだろうか。
もしかして、私のほうこそが「どちら様」なのだろうか。

「とにかく、初めまして。私、デイヴィスの婚約者です」

真紅の口紅が、弧を描いた。



* * *



教職員寮に着くとすぐに、デミグラスソースの良い香りが漂ってきた。仔犬の作ったビーフシチューだろう。
彼女は存外料理が上手い。今まで出された物は、好みの差こそあれども、どれも美味かった。
我が家に近づくにつれてビーフシチューの香りは強くなる。
玄関のドアを開けると、温かな湿気と共に美味そうな匂いが一気に鼻孔を貫いた。

「あら、帰ってきたわ。皆で夕食にしましょ」

――その声に、室内用の靴に履き替えようとしていた手が止まる。
仔犬の声じゃ、ない。

「お帰りなさい、デイヴィス」

靴を脱ぐために俯いていた顔をゆっくりと上げると、そこにあったのはいつもの笑顔ではなかった。



奇妙な食卓だった。
仔犬手製のビーフシチューが湯気を立て、行きつけのパン屋のフランスパンがカゴに盛られ、野菜のソテーも彩りよく添えられ、そこまではいつもの食事と変わらない。
いつもと違うのは、ダイニングテーブルに三名で座っていることだ。

「サリー……どうしてここへ? そもそも、なぜ鍵を? 君に渡した覚えはないが」
「ご実家のお母様が私に貸してくださったのよ。デイヴあなた、何かあったらいつでもとお母様に鍵を渡していたでしょう」
「……」

眉間に思いっきり皺を寄せたのだが、サリーは意に介さず優雅にスプーンを動かしている。
俺の視線に気づくと、全く悪びれる様子もなくにこりと微笑んだ。

客観的に見て、サリーは美しい。会うのは一年……いや、二年以上ぶりだ。
幼なじみの彼女は五つ年下だが、昔から女性的な魅力に溢れている。
特に目を引くのはその唇だ。真っ赤な口紅はサリーによく似合っているし不快ではなかったが、いつも薄化粧の仔犬ばかり見ているせいか、派手な唇の色に違和感を覚えた。

「ああ、本当に美味しいわ、このビーフシチュー。ユウさんってお料理とてもお上手なのね」

サリーはありきたりな褒め言葉をテーブルの上から仔犬にかける。
仔犬は他人行儀に微笑んだ。

脳内だけでため息を吐いた。
仔犬はきっと傷ついている。突然サリーが現れて動揺させたに違いない。そして恐らくサリーとの関係を誤解している。
部屋に合鍵を持った妙齢の女性が現れれば、誤解するなという方が無理だ。

「ねえデイヴ、お母様もお父様もとても心配されていたわよ。もういい年なんだから早く身を固めて欲しいって。
私だってあなたより年下とはいえ、もう結婚適齢期をとっくに迎えているわ。そろそろ真剣に将来について考えたいのだけど」

は!? という声はぐっと飲み込んだ。
しかし思わずサリーに向かって目を剥くのは止められなかった。

「デイヴのお母様に相談したら、是非ともこの鍵でデイヴの家に突撃して欲しいって。
お母様もお父様も、私達の結婚を待ち望んでいらっしゃるみたい」
「待て、待て待て。結婚? 俺と、サリーが?」
「デイヴ、忘れたの? 私達ずっと昔から結婚の約束をしていたじゃない。元々は親同士が決めた縁談だけれど、私はずっと本気だったし良い話だと思ってる。家柄的にも問題が無い、いえ寧ろとても歓迎されるお話だと思うわ」
「約束って……エレメンタリースクールの時の話だ! 冗談だろう?」

思わずダイニングテーブルに左肘をつき、額を掌で覆い項垂れる。

両親が俺の結婚(と世継ぎ)に期待していることは知っていた。だが、当面結婚なんて考えられなかったから無視し続けていたのだ。
間違いだった。却って面倒なことになっている。
せっかくの食事が全く進まない。仔犬手製のビーフシチューは、もう冷めかけてしまっていた。

「でも、お母様もお父様も喜んでくれていたわ。もちろん、うちの両親だって」
「サリー……」

ちょっと待ってくれという台詞は、口を出る前にため息に変わり果てた。
この手の話題は面倒くさすぎて、言葉を紡ぐ気力が削がれるのだ。



吐息が途絶え、十数秒の沈黙の後。カタリと乾いた音が控えめに響いた。
仔犬がスプーンを置く音だった。
見れば彼女は既に、ビーフシチューもパンも野菜のソテーまで、全て平らげている。

「ごちそうさまでした」

そう言って両掌を合わせ、頭を下げる。
元住んでいた世界の作法と聞いているが、いつもより仰々しく見えるのはきっと気のせいではない。見慣れない儀式を目の当たりにしたサリーは目を丸くした。
さて、と仔犬は自身の食器を流しに下げながら口を開く。

「クルーウェル先生、私は今日外に泊まりますね。客間はベッドメイク済みですから。サリーさんのお荷物もそこへ入れていただいています」
「……は!? 外!?」

仔犬の声はひどく冷静で落ち着いていたが、対して俺の声のほうが動転している。
「はい外です。積もる話もあるでしょうし、せっかくのお二人のお時間を邪魔する気はないので、安心してください。
明日の朝六時には戻ります。朝食を作らねばですし、洗濯もしますので」

思わず立ち上がった。椅子がガタンと乱暴に揺れる。

「待て、朝食とか洗濯とかそんなことはどうでも良い! ここはお前の家だ、出ていくような真似はするな!
サリー、悪いが今日はホテルに泊まってくれ。今からどこか取るから……」
「あら、嫌よ。私もう荷物広げちゃったし、せっかく薔薇の王国から遠路はるばる来たのに。今日はデイヴと一緒にいたいわ」

とぼけた顔でしゃあしゃあと言うサリーにピリと苛立ちを覚えたが、今はそれどころではない。
ここで仔犬を出て行かせてはいけない、直感がそう言っている。
制止を聞かず、彼女は自室で荷造りを始めた。

「待てと言っている、仔犬……待て! ステイだ!!」

小さなリュックサックを背負って廊下へ出てきた仔犬は、コマンドを使ってやっと動きが止まった。
だが視線は合わない。仔犬のほうに、合わせる気が無いのだ。
彼女は廊下で立ったまま、じっと玄関を見つめている。

「……外とはなんだ。お前に行く当てなんてないだろう」

敢えて声を固くした。

お前に行く当てなどないだろう? 大人しくここにいれば良い。
俺は大事な飼い犬を寒空の下に放り出すような真似は絶対にしない。
飼い主なら当然だろう?

「当て、ありますよ」

クルリとこちらを振り返った仔犬は、微笑んでいる。

「……は?」

当てが、ある? ここ以外に……俺の元以外に、頼る者がいると?
なぜ微笑んでいる? 俺だけがこんなに焦っているのか?

俺の間抜けな返事に、仔犬はアハハと声を上げて笑った。

「何言ってるんですか、先生。私この世界に来て、もう丸五年以上ですよ? 友達ぐらいいます。数日泊めてもらうくらいは」
「いや待て。その友達というのはこのナイトレイブンカレッジでできた友達だろう、男じゃないか。誰だ? トラッポラか? スペードか? それとも」
「先生」

仔犬は俺の言葉を遮った。

「それ、報告する必要あります?」

その笑顔が、氷の矢となって俺の胸を射貫く。




   

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