仔犬がネックレスをなくす話





03




* * *



私は玄関に座り込んだまま、先生を待っていた。
外の暴風雨の音もこの家には届かない。
静かな空間に、ぽた、ぽた、と自らの髪の毛の先から水滴が滴り落ちる音が響いている。
待っていろときつく言われたので大人しく待っているが、本当は今すぐ外に飛び出して私もネックレスを探したかった。



そのまま、一時間ほど座っていたのだろうか。
前触れ無く、バタン! という音と共に玄関のドアが勢いよく開いた。

「せんせ……!」

先生が玄関へ入ると同時に立ち上がり駆け寄る。
レインコートを着ていたとはいえ、やはりびしょびしょだ。先生がレインコートをばさばさと脱ぐと、玄関には大粒の雫がバラバラと落ちた。

「仔犬、魔法が使えないお前では到底無理だ。暗視魔法が長時間使えるだけの魔力を持った、このクルーウェル様に感謝しろよ」

そう言って、右手の人差し指で自身の目をちょんと指す。
暗視魔法……そうか、だから懐中電灯も持たずに出て行ったのだ。
先生は脱いだレインコートのポケットから、きらりと光るシルバーのチェーンを取り出した。

「ほら」
「……! 先生! あ、ありがとうございます!!」

私の両手に無造作に載せられたそれは、泥だらけだったが、間違いなく先生が私にプレゼントしてくれたネックレスだ。
嬉しさで身体中を熱が走る。

「購買部の前の水たまりの中に落ちていた。良く洗うといい」

先生はシッシッと手を払った。早く洗面所へ行けということだ。
私はぶんぶんと首を縦に振り洗面所へ駆けた。

良かった、本当に見つかって良かった。
他の何も代わりにならない、私の宝物。先生からもらった大切なプレゼント。
引っ込んでいた涙を再びじわりと滲ませながら、私は洗面所でネックレスの泥を落としていた。



その時、ふと気がついた。
ネックレスの留め具、チェーンタブの部分に何か刻印がある。
ネックレスを留めたり外したりするのはいつも首の後ろで何も見ずに行うものだから、今まで全然気がつかなかった。

小さなチェーンタブの中に何が刻印されているのかと、私は泥を洗い流したネックレスをまじまじと見つめた。

『D.C.』

そう刻まれている。
何を意図する物かわからず、しばし考え込んだ。

メーカー名ではない、ブランド名でもない。
製品番号だろうか? それにしては不自然だ。こんな洒落た書体で製品番号を刻まないと思うし、アルファベット二文字が製品番号というのも考えにくい。
まるでイニシャルのようじゃないか。

――イニシャル?

思い至り、はっと息を呑む。

『D.C.』、
……Divus Crewel?



「仔犬、洗えたか。貸せ、俺が付けてやろう」

いつの間にか背後に立っていたクルーウェル先生の声に、私はぎょっと振り返る。
感情の読めない淡泊な表情は、いつもと変わらず美しい。
私がこのチェーンタグの刻印に気づいたことを、彼は知っているのだろうか?

私は黙って先生に洗ったネックレスを差し出した。
カチャカチャと金属の音が項から聞こえる。先生が私の首元でネックレスの留め具を留めている間、私は正面を向けず俯いていた。
正面を向けば、そこには鏡がある。真っ赤に染まった自分の顔を鏡で直視することはできなかったのだ。

「このネックレスが無いと、駄目か」

クルーウェル先生は、はん、と鼻で笑う。
先ほどそう言って泣いて縋ったのは私だが、改めて本人の口から繰り返されると、顔から火を噴きそうだ。
未だ消えていない恋心を暴露したようなものじゃないか。
私は黙ったまま更に俯くしかなかった。

ネックレスを付け終わると、先生はそのまま後ろから両手を私の頬に添え、顔をぐっと乱暴に持ち上げた。
無理矢理正面を向かされ、私の顔が鏡に映った。
やはり真っ赤に染まっている。鏡の中で先生の白い顔がすぐ近くにあるものだから、私の赤がより一層目立ってしまっていた。
首元には、戻ってきたシルバーとダイヤが輝いている。

ネックレスは、いつの間にこんなに私を支配していたのだろう?

「飼い主から着けられた首輪がなくて取り乱すとは。従順に躾けられたものだな? 仔犬」

私の赤い頬に白い両手を添えたまま、鏡越しに先生は意地悪く微笑んだ。
かあああっと私の顔に熱が集中する。顔の赤は更に濃くなり、頬を通り越して耳の先まで赤く染まってしまう。
風呂に入れよ、と一言だけ残して先生は洗面所を去っていった。



あのチェーンタグの刻印は、やっぱりイニシャルだったのだ。
私がそれに気がついたことも、先生はお見通しなのだ。



飼い主は首輪に魔法でも掛けていたのだろうか? 首輪を着けた犬を従順に飼い慣らす魔法、とか。
だとしたら私がこのネックレスに執着してしまうのも、魔法の所為なのだろうか。
湯船の中でぼんやりとそんなことを考えて、止めた。考えても無駄だ。

魔法が掛かっていようが掛かっていまいが、きっと結果は変わらない。
例え魔法が無くたって、私はクルーウェル先生にとっくに飼い慣らされている。
きっと三年以上前から、ずっと。



風呂から上がったら、一体どんな顔をすれば良いのだろう。
鼻先まで湯船に沈みながらため息を吐くと、ぶくりと一際大きな気泡が弾けたのだった。




   

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