仔犬がネックレスをなくす話





02




* * *



私達の新生活は、とても上手く回っていると思う。
家政婦としての私の仕事は、掃除、洗濯、朝晩の食事作りだ。
毎朝六時に起床。身支度と朝食の支度をしているとそのうち先生が起きてくる。
朝食のメニューは毎朝同じ。パンとコーヒー、そして季節のフルーツ。先生のご所望だ。
二人で一緒に朝食をとり、一緒にナイトレイブンカレッジへ出勤する。出勤といっても先生の魔法で鏡舎までひとっ飛びだ。
日中は先生の助手として、授業準備や魔法薬学室の棚の整理、資料作りなどを行う。
十六時、授業が終了すると同時に、私は先生より一足早く帰宅する。先生は部活動の顧問もしているし、他にも仕事があるため遅くまで学校にいるけれど、私はその間に夕食をつくりお風呂を沸かして、先生の帰りを待つのだ。
先生の帰宅は大体十九時頃、遅くなれば二十時、時々二十一時を過ぎることもある。
二人揃ったら一緒に夕食を食べ、その後先生から先にお風呂に入ることが多い。
食事が終わり、入浴も終わった夜深く、二人で一緒に過ごす時間は穏やかだった。
一緒にテレビを見たり、または片方がテレビを見ていて片方が読書していたり、両方とも読書をしていたり。
私達はゆったりした部屋の中で、口数もそれほど多くなく、だが一つのソファに並んで過ごすことが多かった。
時々先生が仕事を持ち帰ってきて書斎へ籠もる時にはコーヒーを淹れ、ほんの少しお手伝いをすることもあった。

クルーウェル先生と私の生活は、とてものどやかだった。
私が一生懸命働くのは、先生からの褒美が欲しかったからじゃない。
先生が私を雇ってくれた恩に報いたかったのは大前提としてあるが、何よりも私はこの生活が気に入っていた。
今日のメインディッシュは特にお口に合ったようだったとか、先生のお気に入りのドレスシャツに綺麗にアイロンが掛けられたとか、そんなことが私はとてもとても幸せだった。
私の生活は、小さな幸せで溢れている。



先生と私の関係は、あくまで雇用主と従業員、教師とその助手、主人と家政婦だった。
つまり、一つ屋根の下に住んでいながら全くプラトニックな関係である。

私が先生に恋心をぶちまけた日のことを、彼は忘れてはいないはずだ。
先生は一体、私のことをどう思っているのだろう。

もしかしたら、十六歳の頃の私の恋心などなかったことにされているのかもしれない。子供の恋心なんて風疹のようなものと思っているのかもしれない。
それとも、私が先生をまだ想っていると知っているのだろうか。

どちらかはわからない。だがきっと、少なくとも先生は私の事を嫌ってはいないと思う。
もし先生が私を嫌っていたとしたら、多分同居など提案せず外で住居を借りられるように計らうだろう。
何より、二人の時間がこんなに穏やかで居心地の良いものであるはずはない。
きっと、助手兼家政婦としては及第点をもらえているはずだ。
私はそんな風に前向きに考えていた。



* * *



その日、学園は大雨に見舞われていた。

こんな日に限ってなぜだかとても忙しい。
私は朝から、職員室と魔法薬学準備室を何往復もし、購買部へやっと入荷した薬品を取りに行き、植物園に行って薬草を採取し、一学年の追試験の監督を行い、エトセトラエトセトラ。
とにかく、学園内のあちこちを走り回っていた。
鏡舎を使って移動できるところは良いが、そうでない場所もある。大雨の中購買部や植物園に行ったり来たりしていた私は、傘を差していても少々濡れてしまった。



十六時、私が定時を迎えると同時にクルーウェル先生が言った。

「仔犬、もう上がって良いぞ。
服が少し濡れている、今日は先に風呂に入っていろ。風邪を引かれたらかなわんからな」

皮肉な言い方をするくせに、その実優しさのかたまりなのは昔からだ。私は従順にはいと返事をすると、鏡舎からまっすぐ帰宅した。

家に戻り濡れた服を簡単に着替えてから、風呂に湯を沸かす。
湯が溜まるまで夕食の支度を進めていたが、風呂が沸いたところで中断し、お言葉に甘えて一番風呂をいただくことにした。

洗面所兼脱衣所で、カットソーを脱ぐ途中に気がついた。

「え、うそ……」

首元のネックレスがない。

先生からもらったネックレスは、毎朝身支度をする際に着け、夜入浴時に外していた。
気に入っていたし何より先生からもらったことが嬉しかったから、ほぼ毎日着けていたのである。今朝も間違いなく着けた。記憶がある。
着脱はいつも家の中で、外で外すようなことはしたことがない。それなのに何故今、私はネックレスをしていない?

「ちょっと待って……どこに落とした……?」

脱衣所で慌てて服を着直し、床に這いつくばる。
隅々まで探したが脱衣所には無さそうなので、今度は先ほどまで夕食の支度をしていた台所に這いつくばった。

「うそでしょ、無い……」

心臓がドッドッドと高速で鳴る。嫌な動悸がますます私を焦らせる。
落ち着け、落ち着いて。私は自らの胸に手を当て、深呼吸した。

帰宅してから歩いた箇所を順番に確認する。
玄関、廊下、洗面所で手を洗い、私室に荷物を置き、濡れたブラウスを脱ぎカットソーに着替え、風呂場へ行ってお風呂のスイッチを入れた。それから台所へ行ってエプロンを着け、冷蔵庫を開け献立を決め、調理台とコンロの前を行ったり来たり……。
ここまで私が歩いたルートは全て隈無く確認した。このルートを四つん這いで三巡もしたが、見つけられない。
ということは、ネックレスは家の外だ。

玄関を開け、教職員寮の入り口までコンクリートの床を這いつくばる。それでもない。
朝は先生の魔法で教職員寮の入り口から鏡舎までひとっ飛びだ。
だが帰りは、私だけ先生より早く帰宅する。魔法が使えない私は、学園と教職員寮の間を徒歩で移動しているのだ。
教職員寮と学園との間の道か、それとも学園内のどこかに落としたのか。

とにかく、あのネックレスの在処がわからないまま呑気に風呂など入っていられない。
あのネックレスが無ければ、私は駄目なのだ。
顔から血の気が引いていくのがわかった。



悪いことに雨は日中よりも強くなっていて、最早暴風雨の域である。それでもネックレスを探さないという選択肢はない。
私は一度家に帰ると、クルーウェル先生と共用で買ったレインコートを羽織り、懐中電灯を持ち出した。
今日歩いたところ全てを順に追おう。それしかない。

既に日没目前。こんな天気の悪い日の夕方は、もう夜のように真っ暗である。
懐中電灯の明かりを頼りに、私は鏡舎までの道を、目を皿のようにして探した。
鏡舎に着く頃にはレインコートも意味をなさないほどずぶ濡れになったが、ネックレスはやはり見つからない。
教職員寮と鏡舎までの道に無かったということは、学園内のどこかにあるのだと思い、鏡舎、廊下、食堂、職員室、魔法薬学室、魔法薬学準備室、一年生の教室、購買部、植物園……地面の全てを這いつくばって探した。
室内はもちろん、移動の際通った室外もだ。私は豪雨に打たれながら懐中電灯を翳し、雨でぬかるんだ芝生やコンクリートの上に溜まった水たまりに手を突っ込みながら、ネックレスを探した。

もう、半べそだった。
見つからないのだ、どうしても。あのネックレスが無いと駄目なのに。
どうしたら良いかわからない。



一旦鏡舎から教職員寮へと戻る。外で見つけられないなら、もう一度家の中を探してみようと思ったのだ。
家へ着くと濡れたレインコートを脱ぎ捨て、だが服や靴は濡れたまま、もう一度床を這う。フローリングの床に汚い足跡が付いたが、構っていられない。
先生がこの床を見たら嫌な顔をするだろうが、それより何よりネックレスが無いことが私をパニックにさせていた。

何度も濡れた足で家の中を歩き回り、しかし結局見つからない。
ぐったりと疲れ果てた私は玄関にへたり込み、途方に暮れていた。



もらったプレゼントを紛失したことを、クルーウェル先生に咎められるのが怖いわけではない。
先生はきっとそんなことでは怒らない。もちろん後ろめたい、申し訳ない気持ちはあるが。

先生がどうこうではない、私自身の問題なのだ。
私にはあのネックレスが無いと駄目なのだ。

同じデザインのネックレスを新しく調達したのでは、違う。
あのネックレスは、先生が私の卒業祝いにくれたもので、私を仕事のパートナーとして迎え入れた時にくれたもので、私を大人だと認めた時にくれたものだ。

こんなことになって初めて、私は随分とあのネックレスに心を支えてもらっていたのだと思い知る。
あのネックレスが無いと胸がギリギリと締め付けられるように痛い。
いつの間にか背中にじっとりと嫌な汗を掻いていた。

幾度となく家の中を四つん這いで往復したが、それでも見つからない。ということは、やはり外なのだ。
先ほどは暗闇と豪雨の中で探しきれていなかったのかもしれない。今度は懐中電灯を二本に増やして探してみよう。
正直疲労困憊だったが、それでも探さずにはいられない。
腰を上げようとしたその時だった。



「仔犬……なんだその格好は?」

帰宅したクルーウェル先生は、眉間に皺を寄せた。
ずぶ濡れの私と脱ぎ捨てられたレインコート、そして汚い足跡がついた廊下を交互に見る。
はっと自分の腕時計を見れば、既に二十時近かった。

「せ、先生……ごめんなさい、もうそんな時間……ご飯まだ出来ていないんです」
「食事は良い、どういう事態だ?」

先生は畳んだ傘の雫をパンと払いながら尋ねる。
いつも通りの良く通る声を聞いたら涙腺がぶわりと緩んでしまい、元々半べそだった私は全べそをかいた。

「せ、先生からもらったネックレス……どこかに落としてしまったみたいで……
家の中にもないし、外は暗くて雨が降ってて見つけられないし……! ごめんなさい……!」

わああん、だなんて、大人にあるまじき泣き声を上げてしまう。
大泣きする私を尻目に、先生はなんだそんなことかとため息を吐いた。

「形ある物はいつか無くなるものだ。贈り物を紛失したことを気に病んでいるならその必要はない、俺は全然気にしないからな。
とにかくその格好では本当に風邪を引く。今すぐ着替えて……」
「だめ、駄目なんです! 先生のネックレスが……あれが無いと私……!」

ガバッと立ち上がり、噛みつくように叫んで縋った。

いつもそうだが、身長の高い先生と対峙すると先生は私を見下ろす形になり、逆に私は見上げる形になる。
いつもと違うのは、私が涙と鼻水全開の汚い顔をしているということと、私の首元にあのネックレスがないということだ。

「喚くな。汚い仔犬は、まず風呂だ」

先生は私を一瞥すると毛皮のコートを脱ぎ、代わりに私が脱ぎ捨てたレインコートを着る。
レインコートが既にびしょびしょだったことに、先生は思いっきり顔を顰め無声音で「ゲッ」と発した。それでも既に濡れたレインコートに最後まで袖を通す。

「いいか、この家から出るな。一歩もだ。
こんな暗い雨の中、一人で外に出ることは許さん。お利口で待っていろ」
「ま、え、待っていろって……先生」
「何度も言わせるな、待っていろ。わかったな? 仔犬」

先生は傘を再び掴むと、レインコートを翻し、バタンと玄関を出て行った。




   

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