先生と仔犬の契約の話





02




 * * *



気がつけば教職員寮の中、クルーウェル先生の私室だった。

先生はTシャツとハーフパンツを私に投げつけると、羽織らせていたコートを乱暴に剥ぎ取った。
またあの淫靡なベビードールを晒すことになり、私は縮こまる。

「……先生、ごめんなさ」
「謝罪と弁解は後だ。まずは着替えてそこにお座りだ」

煮えたぎらんばかりの怒りが滲み出た声に、私はもう逆らえなかった。言われたとおりに着替え、ぺたりと床に正座する。

「俺の質問にだけ答えろ」

先生は、授業でもないのにぴしゃりと指示棒を鳴らす。
完全に怒らせた。こめかみに青筋が浮いている。

「お前は今日、職業安定所に行ったんじゃなかったのか」
「……行きました」
「じゃあなんでこうなった?」
「……職業安定所を出たところで声を掛けられて、五千マドルっていう時給につられて、接客業だというのでついて行ってしまいました」
「Bad girl!!!!!!」

正直に答えた瞬間、先生の怒号が雷のように響いた。
あまりの大声にきーんと耳が痛む。

こんな怒鳴り声聞いたことない。
いつもいつも、学校で誰かを叱る時だってもう少し冷静で、もう少し皮肉屋で。こんな直球の怒鳴り声は初めてだ。

「お前の!! その頭は!! 飾りか!! 普通の接客業で時給五千マドルなんてあるわけないだろう!! そんなこともわから、」

指示棒でピシピシと私の頭を指していた先生は、言葉の途中でぴたりと止まる。
私はあまりの怒号に目をぎゅっと瞑っていたが、恐る恐る瞼を開けた。

「いや……わからないか。お前はこの世界の常識を知らないのか……」

はたと正気に戻った様子のクルーウェル先生は、しゅると指示棒を縮め、床に正座していた私を立たせる。
そのままソファに座らせると自身も隣に腰掛け、今度は同じ目線の高さからいくらか冷静な声を出した。

「監督生、怒鳴って悪かった」

先生のその言葉を合図に、私の涙腺は崩壊した。ぼろぼろと涙が勝手に溢れ出る。

あの店の中では怖さのあまりに泣けなかったのだ。今こんなに泣いているのは、私が安堵しているからだ。
よりにもよってクルーウェル先生にあんな格好を見られ、恥ずかしいし惨めだったが、それでも自身が助かったことに心底ほっとしていた。

「もう良い、泣くな。怖かっただろう。
学園長から連絡が来た時は肝が冷えたが……とにかく間に合って良かった」
「す、すいません……先生……」

しゃくり上げる私の頭を先生はあやすように撫でる。掌の温度がじんわりと伝わった。

「仕事が見つからなくて焦っていたのか」

労しげな声色。私は情けない嗚咽と共に頷く。

「わ、私……ちゃんと、自立して……自分で稼いで食べられるようにならないと……
この世界で学園を離れたら私には何もない……後ろ盾が何もないんです」
「……後ろ盾、ね」

ふぅーとため息の音が聞こえ、その後はしばらく無言が続いた。
先生のおしゃれな部屋に不似合いな、私の子供じみた嗚咽だけが響く。



十分な沈黙が過ぎ、やがて先生はソファから立ち上がった。
キッチンカウンターの方へ向かうと、ジジッと音を立て煙草に火をつける。深く深く煙草を吸い込み、再びふぅーと長い吐息の音。
白い煙が漂い、だがそれはすぐに換気扇に吸い込まれた。

「これは、雑談だが」

先生はキッチンカウンターに凭れ、右手に煙草を挟んだままこちらを向く。

「九月……新学期から業務が増えるんだ。
主顧問のサイエンス部の他にも、いくつか副顧問を請け負うことになりそうでな。お前達が卒業すれば、すぐにまた新一年生の担任も任される。
そこで学園長に掛け合って許可をもらったのだが、九月からは助手を一名雇うことにした」

先生は顔色一つ変えずにつらつらと語っているが、話の内容がよく理解できない。
私は一体何の話をされている?

「それにだ、仕事が忙しくなれば私生活にも手が回らなくなることは目に見えている。
家事は全て魔法で行うことも考えたが、いくら俺とはいえ魔力は無尽蔵ではない。魔力の使いすぎは却って疲弊する。
よって、家政婦も雇うことにした」

要領を得ない話に、私ははぁと相づちを打つしかなかった。
突然始まった先生の話は本当に「雑談」で、呆気にとられているうちに、私の汚い嗚咽はいつの間にか止まっていた。

「そこでだ、仔犬。
ここからは提案だが、お前、俺の助手兼家政婦になるつもりはないか」

驚きのあまりに、声が詰まった。

助手? 兼、家政婦? クルーウェル先生の?



声を出せずに口を開けたままの私を意に介さず、先生はやはりつらつらと続ける。

「助手としての仕事内容は、授業準備補佐及び実験室、魔法薬学室、薬品庫の棚の整理整頓、備品の管理。家政婦としては、この家の掃除、洗濯、朝食と夕食の準備。昼食はいらん、学内で食べるからな。
家政婦としての役割も担う限り、家賃免除の上住み込みで働くことを許可しよう。空き部屋もあるからお前に私室も与える。給料はこれでどうだ?」

言うと、魔法で宙にメモ帳を浮かばせ、すらすらと数字を書き込む。
右指をくいっと曲げると給料の記載されたメモ帳が私の眼前に飛んできた。
――好条件すぎる。あまりにも、だ。

先生は、就職先が見つからずこの世界に身一つで放り出されようとしていた私を憐れんでくれているのだ。
担任教師として、生徒の面倒を最後まで見るという矜持もあるのかもしれない。
先生は、その派手すぎる外見や過激すぎる物言いとは裏腹に、とても生徒思いで情に厚い人だから。

「あ、ありがたすぎるお申し出ですが……その、あまりに申し訳なさすぎます。
助手はともかく、家政婦は先生の私費で雇うんでしょ?
生徒の就職先を心配するばかりに、先生が身銭を切るようなことは……」
「仔犬、何か勘違いしているかもしれんが、俺はお前を憐れだと思うから雇おうとしているんじゃない」

先生はぴしゃりと私の言葉を遮ると、また煙草を深く吸い込んだ。再び白い煙が形の良い唇から吐き出され、換気扇に吸い込まれる。
私は黙って先生の次の言葉を待った。

「お前のことは……そりゃ可哀想に思うさ。
突然全く知らない世界に飛ばされてきて、右も左もわからず、その上性別を偽って男子校で生活しているのだからな。まだほんの仔犬だというのに親とも引き離され、一人で立つことを余儀なくされている。
だがな、それでも常に前を向いて諦めない。それどころか、この学園に馴染んで学園生活を謳歌している。
俺はそのがむしゃらな前向きさと図太い神経を買っているんだ」
「え、あの、ディスってるんですか?」
「褒めている」

先生はふはっと破顔し、部屋の空気が柔らかくなった。



甘えても良いのだろうか。
先生はそうじゃないと言うが、きっと生徒である私を心配する気持ちだって大いにあるはずだ。だからこその提案なのだと理解している。
でも私は甘えたい。この大きな大人に、愛しい先生に。
それがこの世界で生きていく術ならば。先生と一緒にいられるならば。
甘えても、良いのだろうか。



「お前は真面目だし、きっと俺の役に立つ」

先生は、短くなった煙草を灰皿にぎゅっと押しつけた。
真っ赤なグローブを外しキッチンカウンターへ置くと、こちらへゆっくりと歩いてくる。
コツ、コツ、という革靴の音が、私の鼓動を急き立てる。

「どうだ、監督生? 俺と雇用契約を結ぶか?」

差し出された大きな手。いつもの赤いグローブではなく、素手だ。

答えなんて決まっている。選択肢はたった一つだけだ。
うるさい心臓を必死に宥める。

私は、クルーウェル先生の手を取った。

「よろしい。これで九月から、俺はお前の雇用主だ」

ぐっと手を引かれ、ソファから立ち上がらせられる。
くいと顎をグローブ無しの指で掬われると、先生は端麗な唇の端を左右均等に上げた。

「なってやろうじゃないか、お前の後ろ盾に」



派手すぎる外見、過激すぎる物言い、自信家の皮肉屋、でも本当は誰よりも優しくて誠実な人。
ずっとついていきたい、なんて。
今はとてもとても言えない。




   

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