第二章 鬼の魚釣り





02




* * *



私と坂木さんは、地面に座って魚を眺めていた。坂木さんは時々串を回転させて、魚の焼きを調整している。

何でこんなことになっているのかよく分からない。
坂木さんと、山で魚を焼いている。奇妙すぎる光景に、なんだか不思議な気分だ。
橙の炎と香ばしい匂いの魚の前で、私達二人はしばらく無言だった。

魚に、徐々に火が通り始める。目玉が白く染まり、焦げ目がつき始めた。

「ヤマメとアマゴだ。食ってけよ」

焼けた魚の串を地面から抜くと、坂木さんはずいとヤマメのほうを私に押しつける。

「えっ、良いんですか?坂木さん、自分で食べるつもりだったんですよね?」
「今日はたくさん釣れたからな。いいから食え」

坂木さんは焼き串を更に私の眼前に押し出す。私は遠慮しつつも串を手に取った。
いただきますと断ってから、魚の腹に齧りつく。

「……!
美味しい!!です!!すごく!!」

お世辞ではなく、本当に美味しくてびっくりした。思わず大声を出す。
ヤマメはほくほくしていて、川魚なのに全然臭くない。新鮮だからだろうか。

「そうか」

坂木さんはハッと笑い、自分も炎の前から串を一本取り齧り付いた。



そのまま、二人で黙々と魚をむさぼる。
川が流れる音、鳥の囀り、焚き火の音。私達の周りの音はそれだけだ。

私が魚を半分食べたところで、坂木さんはもう既に一本食べ上げてしまった。
防大生の早飯食いはもう芸の域だが、やっぱり女学に比べると男子のほうが早い。私だってもう防大二学年、遅いわけでは決してないが、坂木さんは私よりだいぶ早かった。
坂木さんは魚の串を置くと、ふうと一息つき、言った。

「お前、一人で登山してたのか」
「はい」
「……意外だな。つるむのは好きじゃねえか?」
「意外、でしたか?」

魚の串を持ちながら坂木さんを見れば、あの無愛想な顔のままこちらを見ていた。
でも、なんだろう。今日の坂木さんは全然怖くない。

休養日に学外で坂木さんにあったのは、これが初めてだった。
休養日の坂木さんて、怖くないんだ。

「ああ、意外だった。お前『陽キャ』の『コミュ強』だろ?」

明らかに坂木さんの使い慣れていない単語が並び、私はふはっと声を出して笑ってしまった。

「なんですか、陽キャのコミュ強って」
「大久保がそう言っていた。てっきり、休養日は友達とかとつるんでいるんだと思っていた」

坂木さんの言葉に答える前に、もう一口魚をかじる。
焼きたてのヤマメはすごく美味しくて、私ももうそろそろ一本無くなってしまいそうだ。

「友達と一緒に遊びに行くことももちろんありますよ」

ヤマメをごくりと飲み込んで、私は答えた。

「でもなんか時々、自分と自然だけになりたい時があるんです。
私、昔からそうで……一人登山は、高校生の時からの趣味なんです」

坂木さんは黙って私の話を聞いていたが、私の魚が骨だけになると、もう一本食えと今度はアマゴを寄越した。

「お前の一人の時間を邪魔しちまったな」
「!いいえ、そんなこと!
元はと言えば、私が坂木さんの釣りしているところに来たんですし!」

アマゴをもぐもぐと咀嚼していた時にそんなことを言うもんだから、慌てて飲み込んで否定する。
坂木さんは私の様子を見ると、口角だけ上げて静かに笑った。ふいと視線を魚に戻すと、その笑顔のまま魚の焼きを調整する。



本当に、そんなことはないのだ。
一人で自然の中にいるのが好きだし今日はそれを目的に山へ来たけど、まさかこんなところで坂木さんにばったり会うとは思わなかったけど。
私は、ここで坂木さんに会えたことを嬉しく思っていた。

胴長を着て川に入り、釣りをして、魚を焼く坂木さん。こんな坂木さん、防大では絶対に見ることはできないし、きっと知っている人もそんなに多くない。特に女学では。
人の新たな一面を知ることは純粋に楽しい。坂木さんについても例外ではなかった。

――そして、自分の心に本当に正直になれば。
みんなが尊敬していて大好きな坂木さんの、みんなが知らない一面を知れたということは、私の優越感をくすぐっていた。



「魚、本当に美味しいです。こんなにたくさん……坂木さんて、釣りがお上手なんですね?」
「それこそ、ガキの頃からの趣味だ」

魚をもう二本もぺろりと平らげた坂木さんは、フィッシングベストを脱ぎ、ウェーダーを脱ぎ、釣り道具を片付け始めた。今日はもう釣らないらしい。

「そうなんですね。渓流釣りだけですか?海釣りとかは?」
「海釣りもする。だが春から初夏にかけての渓流釣りは最高だ。この時期は山に限るな」

坂木さんは釣り道具を一式綺麗に片付けると、再び火の前に座った。
釣り道具を片付け始めた時、もうこれで帰るのかと思った。正確に表現するならば、もうこれで帰るのかと、ほんの少し残念に思った。
まだもうしばらく、ここで過ごしてくれるらしい。

「坂木さんが釣りされるなんて、それこそ意外でした。意外っていうか……知らなかったから」
「俺だってお前が一人で登山するような根暗な奴だとは知らなかった。陽キャだと思い込んでたからな」
「根暗って!別に根暗ってわけじゃ」
「ああ、わかってるって」

私の抗議を受け、坂木さんは胡座に右肘をつき頬杖をつくと、くくくと笑った。

鬼の笑い顔は、存外なことに素敵だった。
からかうような、でも優しい笑顔。

坂木さんの笑顔なんて見たのは初めてじゃないのに、今日は何故だろう。
この笑顔にハッと息を呑んでしまった。

「俺も好きだ、自然の中にいることは。
だからまあ……お前が言っていることはわかる」

坂木さんは三本目の魚に手を出す。
私は、彼が手に取る魚が比較的小ぶりな物ばかりであることに気がついていた。先ほど私に渡してくれたヤマメとアマゴはもっと大きくて立派だった。

「本当は部屋っ子連れてキャンプとかしたいんだがな。一学年は制服だろ。制服でキャンプは無理だ」
「ははは、そうですね」

坂木さんて、やっぱりすごく優しい人だ。
無愛想な顔と厳しい怒鳴り声が目立つから、一年の前期くらいまでは分からなかった。でも今ならすごく分かる。
後輩――いや後輩だけじゃなく、自分以外の他人のことをすごく想う人だ。多分それは、誰に対しても等しく。



「……飯が食いたくなるんだよな、いつも」

三本目の魚を半分ほど食べたところで、坂木さんがぽろりと零した。

「……あっ!あります!ご飯!」

私はアマゴを一旦火の前に挿し直すと、自分のリュックからおにぎりを出す。
四つも作ってきたから半分残っている。だが取り出したおにぎりはリュックの中で潰れて不格好になっていた。
私は不細工なおにぎりについて何か言い訳できないかと頭の中を探したが、良い言い訳は思いつかなかった。

「あの、おにぎりですが……よろしければ。具無しの銀シャリですけど」
「おお」

坂木さんは嬉しそうに潰れたおにぎりを取る。
一口食べて「美味い、ありがとうな」とこちらを向くから、なんだか少し照れてしまった。

こんな事になるんだったら、柄付きのアルミホイルとか、せめてラップの上からバンダナで包むとか……もう少し可愛くしてくれば良かった。
自分だけが食べるものと思っていたから色気のないラップで包んだだけだし、その上潰れて不格好になったおにぎりを私は後悔した。

「でもおにぎりだと冷たいですよね。
せっかくお魚がこんなに美味しいんだから、炊きたてのご飯だともっと良かったんですけど」

なんだか自分のおにぎりを自虐したくなって、そんなことを言う。
坂木さんは口を大きく開けて、二個目のおにぎりに齧りつく。

「いや、十分美味い。炊きたての飯には賛成だがな」

彼は私のおにぎり二個をたったの四口で平らげてしまった。
あっという間に坂木さんの胃袋に消えたおにぎりに、ほっと安堵する。きっと不味くはなかった。

「……あっ!ご飯、炊けば良いんですよ!ここで!」

ぽんと手を打った私を、坂木さんは珍しい物を見るような目で見た。

「飯盒買って!ここに火があるんだから、お米持ってきて炊けば炊きたてご飯と美味しいお魚が一緒に食べられます!
私、坂木さんより当然野営訓練の回数は少ないですけど、飯盒でご飯炊いたことなら何回もあって。結構上手に炊けるんですよ!私の出身校、林間学校が毎年あってその度に……」

そこまで言って、私はハッと口を噤んだ。

なんだかこれじゃ、自分がご飯を炊くと言っているようじゃないか。
またここで坂木さんの釣った魚を焼いて、自分がご飯を炊くから一緒に食べようと、そう言っているみたいに聞こえただろうか。

急に気まずくなって、私は中途半端な笑顔のまま下を向いてしまった。

ペラペラ喋っていた私が口を閉じれば、私達の周りは再び自然の音だけになった。川の音と、鳥のさえずりと、火の音。
――それから、これは私にしか聞こえていないし、更に言えば自然の音でもないのだけど。
心臓の音が、うるさかった。
どくどく、どくどく、と、全力でポンプしているのが自分で分かるくらいだ。

私が口を噤んでから、沈黙が破られるまでにどのくらいの時間が経ったのだろうか。
多分ほんの数秒なのだろうけど私には10分くらいに感じた。
次に坂木さんが口を開くまでの間、私はぐるぐると埒の明かないことを考えていた。

誘ったと思われただろうか。
図々しいと思われただろうか。
馴れ馴れしいと思われただろうか。

思われていたら、やだな。



「ああ、そうだな。
みょうじ、お前飯盒買っておけよ」

坂木さんの声に、私は俯いていた顔をぱっと上げた。

彼は鞄をごそごそと漁り財布を出すと、「これで足りるだろ」と五千円札を私に手渡す。

「こ、こんなにかかりません」
「わかってる。余った分で無洗米買っておけ」

坂木さんは無理矢理私に五千円札を握らせ、次にポケットからスマホを出した。すいすいと画面をフリックしている。

「来週……は俺の校友会があるから……
再来週の日曜日は予定あるか?天気予報は快晴だ」



自分の顔が、ぱあっと晴れてしまったのが分かった。

そしてきっとそれは坂木さんにも伝わってしまった。
だって、私の顔を見た坂木さんの口角がくっと上がったから。



「……はい!」

自然と、学生舎にいる時のような大声で返事をした。
坂木さんは静かな笑顔のまま、黙ってスマホをポケットに閉まった。




   

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