第二章 鬼の魚釣り





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日本一忙しい大学校、防衛大学校。
そんな防大にも休日はある。土曜日、日曜日、祝日。基本的にカレンダー通りの日程だ。
休日は「休養日」と呼ばれ、課業がない。上級生からの指導や反省もこの日は基本的に行われない。外出も可能だ。

普通の大学生の休日と違う点は色々あるが、大きいものは二つ。
外出時に制服を着用しなければいけないことと、日夕点呼にはいなければいけないこと。

夜の点呼までに学生舎に戻らなければいけないというのは一般的な大学生にしてみれば大きな制限だが、私たちが自衛官であれば当然のことだ。自衛官にとって、点呼は最もと言っても過言ではないほど重要な義務である。
有事の際に人員が欠けていたら、それが意味するところは「死」か「脱走」だ。だから私たちは、常に自分たちの人員に不足がないか確認する必要があるのだ。

それに、ほとんどの人間は高校卒業した後に、或いは一年か二年浪人したとしても、基本的には真っ直ぐに防大に入学する。
一般的な大学生活を経験した後に防大で寮生活を送るとなるとしんどいかもしれないが、一般的な大学生活を知らないままに防大に染まるのだ。慣れてしまえば、それが普通になる。

まあ、多少の制限はあっても比較的自由に過ごせる休養日は、防大生にとって数少ないリフレッシュの機会だった。



* * *



五月のある休養日、私は一人、神奈川県内のK山へ向かっていた。



一学年時には外出中常時制服の着用が義務づけられているが、二学年以降になると制服着用は正門への出入りの際のみで良しとされる。だから、「下宿」と呼ばれるアパートを学生数人で共同で借り、クローゼット代わりとして使う者が大多数だ。
制服で正門を出て、下宿に寄り私服に着替え、各々休日を満喫した後また下宿に戻り、制服に着替え、日夕点呼の時間までに防大へ戻る。下宿は倉庫であり、クローゼットであり、時に本来の意味の「下宿」であり、貴重なプライバシーの保たれるスペースだった。
私も気の合う同期や先輩達と一緒に、四人で下宿を借りている。他の三人に比べると私物は多くないが、それでも衣装ケース三つが、私服や学生舎に置いておけない雑貨で埋まっている。

外出前の容儀点検(服装チェック)をクリアすると、防大を出ることができる。
私は真っ直ぐ下宿に向かい、制服を脱ぐと、チェックシャツとラップスカート付のレギンスに着替えた。登山用の定番スタイルである。上には撥水加工の薄手ジャケットを羽織り、頭には日除けつばの広いアウトドアハット。足元は履き慣れたニューバランスのスニーカー。
リュックの中には塩おにぎりだ。下宿にはレンジなどの家電も置いてあるので、サトウのご飯で作った。ご飯パック一つだと足りないかな、なんて思って二つもチンしてしまい、結果おにぎりを四つも作ってしまった。



うら若い女子が、貴重な休日に一人で山登り。
「山ガール」なんて言葉が流行したのはもう 10 年も前の話だが、私の登山はそれとは少し違うのかもしれない。
他の「山ガール」達のように、友達同士でキャッキャうふふとハイキングするわけではなく、いつも一人だ。登山ファッションを楽しむというような、ミーハー的な要素もあまりない。
私はただただ動きやすい服装で、一人黙々と山を登っていた。

もしかしたら、珍しい趣味なのかもしれない。
私が休養日に一人で登山していることを知った友人や先輩達のほとんどは、「意外だね?」とびっくりする。
一学年だった時は外出中も常時制服の着用が義務づけられていたし、まさかあの制服と制帽で登山するわけにもいかないから、登山ができなかった。
だが二学年になってやっと、私のこの趣味が実に一年ぶりに復活したわけである。



* * *



K山は、馬堀海岸駅から電車で二時間弱。京急線から相鉄、小田急と乗り換える。
電車の中は日光が強く差し、少し眩しすぎるくらいだ。
座席に座っていたおじいさんが車窓のカーテンを下ろそうとしたが、上手くできない。私は手を差し伸べてカーテンを下ろすのを手伝う。

カーテンを下ろす前に車窓から覗いた空は、真っ青だった。
雲一つない快晴。絶好の登山日和である。



登山口についたのは、昼前だ。
うーんと伸びを一つと深呼吸を一回。山特有の、緑色をした空気が肺を満たす。
二年になってから数回は山に来ていたが、このK山はお初である。私は初めての山の匂いと最高の天候に嬉しくなり、すぐにハイキングコースへ足を踏み入れた。



K山は標高二〇〇メートルほどで、登山道はいわゆる初心者向けのハイキングコースだ。
通常であれば山頂まで二時間ほどかかるらしい。だが、一年間防大でみっちり身体を鍛え上げられた私はさくさくと登山道を進み、一時間と十五分で山頂へ到着してしまった。

「はは」

ちょっと楽すぎたコースだったな、と、ここで初めての休憩を取る。
ベンチに座ってリュックの中のおにぎりを出した。一三〇〇(ヒトサンマルマル)、いつもよりちょっと遅い昼食。
誰に見せるものでもないし、私は満足だから、お弁当はいつもおにぎりだけだ。それも具無し。
良いのだ、私はおにぎりだったら塩むすびが一番美味しいと思っている。

ここに来るまでの登山道では、あまり人とすれ違わなかった。
山頂にはもう少し人がいるのかと思ったがほとんどいない。歩きやすいコースだったが、登山客は少ない山なのだろう。
私にとっては少し易しすぎるコースだったが、人に会わないのは好都合だった。



無性に、一人になりたい時がある。
一人登山というこの趣味は、実は高校生の時からずっと続いているものだ。

自然の中で一人きりになれば、自分の小ささを再認識できる。私が抱えている悩みや問題なんて大した事なくてちっぽけなものなのだと、そう再確認できる。
一人登山は、私が自分なりに見つけたメンタルヘルスを保つためのセルフケアの一つであった。



四つ作ったおにぎりのうち二つを食べ、サーモスのステンレスボトルに入れてきたお茶を飲む。
食後、ほんの三分だけ一息つくと、私はすっくとベンチから立ち上がった。
こんなハイキングコースじゃまだまだ余裕だ。体力に余裕があるのに、ずっとここで時間を潰しているのも勿体ない。限られた時間を最大限有効に使うのは、防大生の常である。
天気も良いし、せっかくだから下山して辺りを散策してみることにした。

下りの所要時間は、上りよりももっと短かった。たった五十分。随分と私の体力もついたものである。
登山道の出口で辺りを見回すと、少し横に逸れたところに立派な川が流れている。
私は気まぐれに、川に沿って歩いてみた。

川沿いの足場は整備されていないため、あまり良くない。だが、ごつごつした岩の上を歩くのは、まるで子供のころによくやったアスレチックみたいだ。
地味に楽しくて、私は上機嫌で川沿いを上流に向かって歩き続けた。

登山道と同じく、川沿いにもあまり人がいない。
川の両脇には木々が鬱蒼と生い茂っている。川沿いのこの岩場は木陰が多く少しひんやりしているが、今日は寒くはなかった。周囲の木の隙間から差し込む日光が美しく水面を照らし、キラキラと反射している。

ザアアという雄大な水の流れの音と、時折聞こえる鳥の囀り。
私の耳に入るのはそれだけだった。ここに余計な人口音は一つもない。
最高の穴場だと思った。



そのまま上流に向かって歩き続けると、やっと人影が見えた。
男性が一人、川の真ん中に足を突っ込んで仁王立ちになり、渓流釣りをしている。

登山道ですれ違う場合、赤の他人であっても「こんにちは」と挨拶するのがマナーだが、こういう場合はどうなのだろう。ここは登山道じゃないし、釣りというのは魚が逃げてしまうからうるさくしてはいけなかったような気がする。
でもまあ迷うくらいなら挨拶したほうがいいやと、私は渓流釣りの彼に声を掛けた。

「こんにち」

私の声に振り返る釣り人。
その顔は、

「はっ!?!?」

鬼のサカキだった。



「さっ……坂木さん!!」

思わず岩場の上で気を付けの姿勢をとり、ビッと敬礼をする。
坂木さんも驚きのためか目を剥いたが、すぐにいつもの無愛想に戻った。

「おい、休養日で外だ。敬礼は止めろ」
「は、はい……」

チッ、と舌打ちのような音をさせて坂木さんはリールを巻き始めた。釣りはもう終わりにするのだろうか。邪魔をしてしまったかもしれない。
ルアーの先には何も食いついていないようだが、彼がベルトから引っ掛けているナイロン製の魚籠にはもう魚が何匹も入っているのが見えた。

確か、ウェーダーと言っただろうか。彼は胸まである胴長を着ていた。上半身にはフィッシングベスト、ベルトには魚籠の他にタモも引っ掛けている。
ウェーダーもベストもそこそこ使い込まれた様子で、釣りの初心者には見えない。格好もサマになっている。
坂木さんはリールを巻き取り終わると、私の方に向かってザバザバと川から上がってきた。

「お前こんなところで何してる。一人か?」
「は、はい……一人です。山、登ってました。今降りてきたところです」

坂木さんはそうかよと言いながらあちこち歩き回り、岩ではなく土の平らな地面を見つけると、そこに火を起こし始めた。鮮やかな手際で小枝を組み、手持ちのライターで火をつける。あっという間に立派な焚き火が出来上がりだ。
坂木さんはナイロンの魚籠から釣った魚を取り出すと、焼き串にグサグサと刺して火に翳し焼き始めた。

あまりの手際の良さと思いもよらない展開に、私はぼけっと突っ立ったまま、ただ坂木さんの手元と魚を見ていた。

「おい、暇なら手伝え」

言われて慌ててしゃがみ込み、私も魚を串に刺す。正しいやり方なんかわからないから見様見真似だ。
そうか、坂木さんは私なんかより何度も野営訓練しているから、こういうことも簡単に出来ちゃうのかな。なんて一瞬思ったが、野営訓練に魚の焼き方なんてきっと無かった。




   

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