第十三章 鬼の決意と結末
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* * *
母には「帰ってきたばかりでもう帰るの」と目を丸くされたが、朝早くに出ると伝えておいたら、朝ご飯を作っておいてくれた。翌日朝七時、母に見送られながら実家を後にする。
本当にトンボ返りだが、母と麻耶の顔を見られたのは良かった。あとはまた、ゴールデンウィークにでも会えれば良いのだが。
実家でののんびりした時間は貴重だ。だがそれをふいにすることも、ちっとも惜しくない。
今坂木さんに会わなければ、一生後悔する。そうわかっていたから。
まずは馬堀海岸の下宿へ戻り、キャリーケースを置く。そして、台所のシンク下収納からずっと使っていなかった飯盒を引っ張り出した。
無洗米は、一号半をファスナー付きビニール袋へ。以前は味噌汁の準備もしていたが、今から材料を調達して下ごしらえするのは時間がかかるので、今回は割愛することにした。きっと坂木さんは、味噌汁がないことに文句なんて言わない。
大急ぎで荷物をリュックに詰め込み、登山できる格好へと着替える。
履き慣れたスニーカーに足を突っ込み、私は下宿のドアから飛び出した。
馬堀海岸から更に二時間。
K山の渓流に着いたのは、正午を回っていた。
息を切らしながら渓流を上る。登山もしていないのに息が切れているのは、最寄り駅からここまでリュックを背負ったまま走ってきたからだ。
川沿いのごつごつした岩の道を、上流に向かって進み続ける。
いつもの場所まで、あと少し。
人影が見えた。
ぐっと胸が詰まって、目が勝手に見開かれる。
坂木さんが、いた。
ここで姿を見るのは、もう一年半ぶりだ。一年半前と変わらないウェーダーを着て、川の真ん中で仁王立ちになっている。
一年半前の秋、痴漢に会った日が、坂木さんとこのK山へ来た最後の日だったのだ。
冬に想いが通じ、春を迎えればまたここで渓流釣りができるかと思った時期もあった。だが、あの事故で釣りどころではなくなったのだ。
やっと彼の怪我が治ったころには、もう彼は教官だった。彼と私の関係は、恋人同士から、教官と防大生へと変わっていた。
いつだって、会えない時でも、気軽に話もできない時でも、頭の隅にずっとあった坂木さんの釣り姿。今、目の前に本物がある。
再びこの姿を見られたことがなんだか奇跡みたいに思えて、目尻がほんの少し熱くなった。
瞼を閉じ、大きく一つ深呼吸する。
とびきりの笑顔でいよう。とびきり明るい声を出そう。
「坂木さん!」
岩の上から、精一杯の笑顔と声を彼に飛ばす。リュックのショルダーストラップを握る手が細かく震えていた。
一呼吸おいて、川の中に立っていた坂木さんが振り返る。
「おう!」
彼の鋭い目はわずかに緩み、薄い唇の口端は上がっていた。
嬉しかった。
胸が熱くなって、苦しくて、切なくて、やっぱり嬉しかった。
坂木さんの笑顔が見られた。これだけで今日来た甲斐がある。少々の無理を押しても来て良かった。
もう私に後悔はない。
例え、これから何を話されようとも。どんな話になろうとも。
* * *
「三月はまだ水温が低いからな。釣れなかったらどうするかと思っていたが……とにかく釣れて良かった。もう三月も下旬だから、水温も上がってきたか」
起こした火の前に、小ぶりのヤマメが二匹並ぶ。今日の釣果はこれだけだ。
焼き串に刺されたヤマメからは、焼き魚特有の香ばしい匂いが立ち上がっている。目玉は白く色づき、塩を振った身もナイフを入れた切れ目がふっくらと盛り上がってきた。食べ頃だ。
「私、三月が釣りにくいだなんて知らなくて……下宿を出てくる時、時間がなかったのでお味噌汁の準備をして来なかったから。もし一匹も釣れなければご飯だけでしたね」
アハハと声を上げて、なまえが火の前で屈託なく笑う。
邪気のない顔。防大でいつしか鬼と呼ばれるようになったなまえの、久しぶりに見る笑顔だった。
関東の平野はもうソメイヨシノが三分咲きだが、山では山桜がやっとつぼみになったばかりだ。
白米と、小さな魚を一人一匹ずつ。山桜のつぼみが揺れる下、二人並んで食べた。
「春期休暇だから、実家に帰っていたんだろう? 無理言ってこんなところまで来てもらって、悪かったな」
「いいえ、大丈夫です」
「昨日の電話に出たのは、親友だっつったな。お前随分愛されてるな」
「あっ……れは!! 本当にすみません! あの子が勝手に言ったことで」
「わかってるよ。お前のことを本当に心配してくれている、良い友人なんだろ。……大切にしたほうが良い、そういう奴は」
慌てるなまえを遮るように言えば、なまえは困ったように笑って、ちびりちびりと魚を齧り始めた。
小さな魚一匹と、白米一膳。防大生なら一分で食い終わる量だが、今日は時間をかけてゆっくりと食べる。
それでも、食事はすぐに終わってしまった。
食い終わり、ふと空を見上げれば、飛行機が一機ちょうど頭上を通過するところだった。民間機だ。
俺につられて、なまえも空を見上げる。
青い空に飛行機雲が一筋引かれ、だが雲はすぐに消えた。春は空気中の水蒸気の量が増えるから飛行機雲がたなびきやすいのだが、すぐに消えたということは上空の湿度がそれほど高くないのだろう。きっとこの後も天気は崩れないはずだ。
見上げていた首をゆっくりと元に戻すと、穏やかな笑顔のなまえと目が合う。
「……会えてよかった。もうお前とこんな風に釣りすることもないかもしれねえからな」
そう言うと、なまえの顔からふっと笑顔が消えた。
まっすぐに俺を向いていた一瞬瞳が揺らぎ、だがもう一度、笑顔を取り戻す。にっこりと、柔らかく。
「お前とこんな風に釣りすることもないかもしれねえ」という言い方が悪かった。
笑顔が消えたこと、そして再び笑顔を取り繕わせたことに、誤解を招いたのだと理解した。
つまり、俺はなまえと離れるつもりだという誤解だ。
来月、俺は幹候に入校し、なまえは防大四学年になる。もちろん互いに忙しいし、その上、奈良と神奈川の遠距離だ。
幹候卒業後は部隊に配属されるわけだが、全国どこの基地に配属されるかわからない。なまえもそうだろう。
航空自衛隊の基地は全国各地に数多ある。同じ基地に配属になる可能性は低いし、休みだって簡単に合わせることはできないかもしれない。
そう、こんな風に釣りができるのは、次はいつになるかわからないのだ。
今年中か、来年か、再来年か。もしかしたら次なんてないかもしれない。
それでも、俺は。
「入校式は四月二日なんだが、導入訓練があってな。明々後日の金曜日が着校日だ。
着校したら、次に自由になるのはいつかわからねえ。だから」
お前をここに呼んだんだ。
この始まりの場所で、一から。
お前ともう一度、一から始めたかったんだ。
深呼吸を一つしてから、ゆっくりと口を開く。
だが、
「坂木さん」
先に声を出したのは、なまえのほうだった。
「私、坂木さんのこと好きです。ずっと……別れてからもずっと変わらずに、今でも好きです」
石の上で横座りをするなまえの穏やかな顔に、木漏れ日が差した。
『可愛いですよね、彼女』
もう二年も前になる。
俺がなまえのことを大久保に尋ねた時、大久保がそう言ったのだ。
当時は、なまえが可愛いかどうかなんてよくわからなかった。
脳内にあるみょうじなまえという人間の造形はおぼろげだったし、彼女を特別に可愛いと認識したことなんてなかった。「美形」という意味であれば、他に先に思いつく女学もいたくらいだ。
だが今なら大久保の言うことがよくわかる。なまえは可愛い。
なまえが笑えば、頬は桃色の花が咲いたように染まり、ふさふさと長い睫毛が柔らかく弧を描く。
いつだってこの笑顔を見たくてたまらなかった。この笑顔がどうしても頭から離れなかった。
それなのに、俺はお前を傷つけてばかりだったな。
「でも、明々後日坂木さんが奈良の幹候に着校したら、私は神奈川、坂木さんは奈良で、離れ離れですね。その後も、幹部自衛官なんて全国どこの基地に着任するかわからないし……きっと全国を転々とすることになりますね。私も、坂木さんも。
交際するのも難しいってわかるってるんです」
――ああ、俺はなまえに振られるのだろうか。
その凜とした笑顔を見て、ざっと頭から血の気が引く。
いや、それだってどこかで覚悟していたはずだ。
俺達にいくら気持ちがあったって、幹部自衛官を目指すなまえと俺じゃ、上手くいかないかもしれないと……その恐れを、あの病室から忘れたことはない。
なまえは清らかな笑みのまま、俺から目を逸らさない。
迷いのない口調で言い切ったのは、厳しい事実と、彼女の勇ましい願望だった。
「だから、別に付き合えなくても良いと思っているんです。もちろん付き合いたいとは思いますけど……。
私と交際しても、坂木さんにメリットがないんです。私、いつでも坂木さんの近くにいて、坂木さんを支えられるような良い彼女にはなれません。
坂木二佐の仰っていたことも考えれば、私がいくら坂木さんを好きだったとしても、難しいのかなって。だけど……」
「だけど」の声が、わずかに震えた。
まなじりが、仄かに湿っているように見える。
声を詰まらせたなまえは俯き、だが数秒後に顔を上げた時には、やはり笑顔だった。
「私、勝手に好きなので。坂木さんが二尉になっても一尉になっても、どんな階級になっても、どこの基地に赴任しても。きっと、勝手に好きです。
そして私は幹部自衛官になります。幹部自衛官になって国民を守ることは私の夢ですから。この夢は必ず叶えます。
……いつか……坂木さんがいつか、新しい家庭を作っても。私はその家族ごと、丸ごと国民を守ります」
頬は紅潮して、目は涙と希望できらきらと輝き、歪みそうになる唇は必死に弧を保っている。
なんて逞しくて、清らかな笑顔なんだろう。
なまえは可愛い。
だが、可愛いだけの女じゃない。
「そうだな。俺も……同じようなことを考えた」
春の温い風がびゅうと吹いて、なまえの髪が乱れた。俺も被っていたキャップが飛ばされないように片手で軽く押さえる。
目を眇めて髪を押さえていたなまえが、再びこちらに視線を戻す。
彼女の瞳は凛々しいままだった。
「俺たちはきっと近くにはいられないだろうな。付き合ったとしたって、恋人として不足に思うことも多いだろう。お前にだって、俺と付き合っていることでメリットなんてねえんだ。
それでも俺は、時間を作ってこうやってお前と山に来たいし、箱根の温泉だってもう一度行きてえし……どこかへ出かけることが難しいなら、一日でも一時間でも、傍で話すだけでもいい。それも難しいなら、電話で話すだけだって、メッセージ一つ送るだけだって……。
どんな形でもお前とつながっていたいんだ。お前はどうしたって俺の特別なんだよ」
そうだ。俺達が交際したって、互いにメリットなんてないんだ。
メリットとかデメリットとかそんなものを遙か超えて、それでも俺はお前が好きだ。
「だから、いつでも堂々とお前を想う権利を俺にくれ。
時間を作って、お前に飛んで会いに来られる権利を、俺にくれ」
なまえの目尻に溜まっていた涙がぶわりと膨らんで、そしてこぼれた。
硬い石の上で膝立ちになり、なまえの肩を引き寄せる。小さな肩は、震えていた。
そのままぎゅっと両手で抱きしめれば、歯を食いしばった隙間から漏れる嗚咽が聞こえた。
「近くにいられねえし、お前を寂しがらせることもきっとある。それでも、俺の恋人になってくれねえか」
なまえの耳元で言った一世一代の告白は、少し震えていた。正直な想いを口に出したことで、胸が燃えたように熱くなる。
なまえは嗚咽を殺しながら、俺の腕の中でコクコクと首を縦に振った。
「……私も、近くにいられないし、坂木さんの傍で支えられるような彼女にはなれないです。それでも、恋人にしてください」
むせび泣きながらの彼女の言葉は、燃えた胸の真ん中をすとんと射貫き、そしてそこへ収まった。
きつく、固く、でも潰してしまわないように抱きしめる。大事なものはなくさないように、壊さないように。
気持ちはきちんと伝わったのだろう。なまえも俺の背中に両手を回すと、ぎゅっと強く抱きしめ返してきた。
そっと小さな顎を救い、ちらりと周りを見て誰もいないことを再度確認する。
わずかに化粧をした唇にそっと親指で振れ、そして口づけた。
なまえの頬は涙で濡れていた。頬を伝って下りてくる温い水の感触が俺の指に伝わる。
夢中で口づけた。角度を変え、深度を変え、何度も何度も。
今までの分を取り返すように。そして、これからも分を先に埋めるかのように。
再び、びゅうっと突風が吹いた。なまえの髪が再度乱れ、俺の被っていたキャップが飛ばされる。
「あ……」
岩の上で抱きしめ合ったまま、自然と唇が離れる。
なまえは風に乗って舞うキャップを目で追い、だが俺はもう一度彼女の頬を押さえ、口づけた。
キャップは、どこかへ飛んで行ってしまった。