第十三章 鬼の決意と結末
01
年が明けて始まった後期は、言わずもがな体感三十秒だ。例年通り、朝晩が猛烈な勢いで流れて行く。
二月の後期定期試験が終わると、三月は進級前訓練、そして三学年の断郊競技会が行われた。
断郊競技会とは、作業服に半長靴、背嚢、水筒など約十キロの装備を身につけ、高低差約五十メートル、距離約七キロメートルのコースを集団で走るタイムレースである。三学年の集大成となる行事だ。この断郊競技会を乗り越え、ようやく私達は四学年へと進級できるのである。
断郊競技会を終えると、すぐに卒業式だ。
今年も花道で帽振れを行う先輩達を見送った。芹沢さんは号泣だし、あの永井さんも目尻に涙を浮かべている。
お世話になった先輩達が防大を去るのはやっぱり寂しいが、一年後には自分たちが見送られる立場だ。見送られる立場にならなければ。
そうして、夕暮れと共に先輩達の姿が防大から消えると、部屋にはどこか空虚な寂寥感が漂う。
だが、終わりは即ち始まりだ。
ふっと息を吐けば、新鮮な緊張感が胸に灯る。
明日から、一週間の春期休暇だ。
* * *
『この電車は、上野東京ライン宇都宮線直通、宇都宮行きです。グリーン車は四号車と五号車です……』
さいたま市の実家に帰るには、横浜から乗車した上野東京ラインで、赤羽まで出なくてはならない。横浜から赤羽までの乗車時間は約四十分だ。
体感三十秒の後期を無事に終えてほっとしていた私は、四十分をゆっくりとくつろぐために、奮発してグリーン席を購入していた。
普段は後輩にごちそうするくらいしかお金を使うこともない。正確に言えば、お金を使う暇がない。こういう時に贅沢してみたくなるのだ。
普通車両よりもゆったりとした座席に沈み、ぼんやりと車窓を眺める。
流れるのは、ビル、ビル、ビル。横浜を出たばかりの今、窓の外は高層ビルばかりだ。窓はそのうち、下町や住宅地も映すだろう。そして品川に入ればまた高層ビルばかりになる。
ペットボトルのお茶を飲みながら、深く椅子に凭れた。座席のテーブルに置かれたスマホは、沈黙を保っている。
昨日の夜から、もしかしたら鳴るかもしれない、いつ鳴るかわからないと、ずっとスマホを気にしていた。だが夜が明けても鳴ることはなかった。
坂木さんからの連絡が、ない。
卒業式を迎え、春期休暇を迎えたが、彼からの連絡は未だになかった。
昨日が卒業式、本日は解散日である。
坂木さんは、昨日の卒業式では訓練科の教官として出席していたが、一体「いつ」まで「訓練科の教官」なのだろう?
彼は空曹長として、四月から一年遅れで幹部候補生学校に入校する。今年卒業の四学年の同期となるのだ。
幹候の入校式は四月頭だが、その前に導入教育があるはずだ。着校は三月中と聞いている。「訓練課教官」を離任してから着校までの間、一日も休みがないとは考えにくい。引っ越しの準備もあるはずだから。
だが、きっと休みがあったとしてもほんの数日なのだろう。卒業生も皆そうだ。帽子を投げた後、息吐く間もなく幹候へと発っていく。坂木さんもきっと、慌ただしく奈良へと向かうのだろう。
もし私に連絡が来るとすれば、訓練課を離任し幹候へと旅立つ前の、このタイミングだと思っていた。
言い換えれば、このタイミングしかないと思っていた。ここを逃せば彼からの連絡はもうない。そう悟っていた。
そうして結果、坂木さんからの連絡は来ていない。
もちろん、坂木さんが私を好きだろうがそうでなかろうが、関係ない。私と、或いは他の誰かと、交際しようがしまいが関係ない。私は私で、勝手に坂木さんが好きなんだから。
そう思っている。そう思えるようになったのだ。
きちんと呑み込んでいる。割り切っている。
だがもしも、連絡が来たならば。彼と二人で話す機会が持てたなら――
一縷の望みを捨てられないのは、多分本能のようなものなのだろう。
窓の外は、いつの間にか高層ビルから背の低い住宅へと変わっていた。建物が低くなった分、青空が良く見える。
どこか白く霞む春の空。関東のソメイヨシノはもう開花を始めている。
……マフラーをあげたときは、喜んでくれたように見えたんだけどな。
突然、お茶が苦く感じて喉を通らなくなった。
ペットボトルに蓋をして、静かに座席のテーブルへと置く。スマホはまだ鳴らない。
坂木さんは、私とは交際できないと思ったのかもしれない。それも仕方ない、理解できる。
でも、このまま黙って奈良に行ってしまうのだろうか。
――「黙って行ってしまう」だなんて。もう考え方が烏滸がましい。自分自身の思考に嫌気が差して、ぐっと固く目を閉じる。
私は坂木さんの何者でもないんだから。付き合ってもいない、ただの一防大生なのだから。黙って行くのが当たり前なのだから。
そう自分に言い聞かせると、なんだか急にぐったりと身体中から力が抜けた。
とっくに終わっていた恋だ。
だが終わりを改めて認識するのは、どうしたって大きなストレスだ。
『まもなく、川崎、川崎。お出口は右側です。京浜東北線と南武線はお乗り換えです……』
女性の声の車内自動放送が流れる。赤羽で下りるまではあと三十五分。
卒業式は終わった。
後期は終わった。
春休みも始まった。
私は窓のロールカーテンを閉めると、俯いて瞼を閉じた。
* * *
春休みはたったの一週間しかない。なのにTODOリストはいっぱいある。落ち込んでいる暇なんてないのだ。
四学年になるのだから、卒論とはどういうものか情報収集しておきたい。新入生も入学するし、引率外出のプランも少しは考えておきたい。もちろん、この一週間で十分にリフレッシュして英気を養うのは大前提だ。やることは山積みなのだ。
実家に着くと、母親が出迎えてくれた。
母とお茶を飲んで一息ついてから、荷物を解く。その後向かうのは、いつものカフェだ。
冬休みも、その前の夏休みも麻耶とは会っていなかった。待ち合わせるのは約一年ぶりになる。
「……っはぁ〜〜〜〜!?!?!?」
麻耶は、それまでずっと黙って辛抱強く聞いていた。
が、私が口を閉じると、目をカッと見開きがなり声を立てた。
「っんだあ!? サカキっつー男は!?
さんざんなまえを待たせておいて、やっと付き合ったと思ったら、箱根に旅行とか思わせぶりなことしておいて、たったの一か月で振るとか、っはあ〜〜〜〜!?!?!?
その後も、何のフォローもないんでしょ? 知らんぷりとか、っはあ〜〜〜〜!?!?!? ほんっとうに信じらんない!!」
元来感情表現が豊かな麻耶だが、それでもこんな風に怒ることは珍しい。こめかみに青筋が浮いている。これは、激怒だ。
麻耶は、ばっちりきめたトレンドメイクも崩れるほどに眉を吊り上げ、赤文字系ファッションも台無しになるほどに肩を怒らせた。
「呼べ!! ここに!! そのサカキという男を呼べ!! あんたの代わりに私が文句言ってやるから!!」
麻耶の怒りがとてつもない勢いなので、却って冷静になる。私は大声を出す彼女に代わって周囲の客に小さく頭を下げつつ、両手を前へ出して彼女を宥めた。
「麻耶、ありがとう怒ってくれて。でも私は怒ってないし、納得していることだし……」
「なまえが納得してても、私は納得できない!! もうやめときな! そんな男と付き合わなくて正解だよ!! なまえを傷つけてばかりじゃん、その人」
「……んー……」
美女のすごい形相に何も言えなくなり、曖昧に笑う。
付き合わなくて正解、とは思えない。
坂木さんはずっと防大生として、そして自衛官として、矜持を守ってきた。だからこそ、こういうことになったのだと思っている。それが私の好きな坂木さんなのだから。
――仮の話だが。
簡単に内恋して、訓練長でありながら私と交際し続ける坂木さんだったら、多分私は坂木さんのことを好きになっていないのだ。
……叶うならば付き合いたいと思っているのに、坂木さんの特別でいたいと思っているのに、矛盾しているけれど。
「とにかく、次行こう次! 忙しいのわかるけど、週末どっか一日くらい良いでしょ? 合コンセッティングするから! どこが良い? 早慶上理? GMARCH? 国公立?」
「待って、気持ちはありがたいけど私合コンはしばらく……」
「男でできた傷は男で癒すしかないでしょうが!!」
顔を真っ赤にして怒鳴る麻耶に圧倒されていると、木製のテーブルの上で私のスマホがブブブと震えた。
明るくなったディスプレイに、発信者が表示される。
『坂木 龍也』
その文字に私も麻耶も、ハッと息を呑んだ。
電話をもらったことは、ほとんどない。付き合っていた時も、付き合う前にK山に行っていた時も、メッセージのやり取りだけだった。
バッとテーブルの上のスマホを奪おうとした麻耶を押しのけ、スマホを奪取する。こちとら現役の防大生だ。反射神経、瞬発力、一般大の女子大生に負けるはずもない。
私からスマホを奪えなかった麻耶はチッとお行儀悪く舌打ちをしていたが、それは無視する。
ごくりと一つ唾を飲み込んで、スワイプした。スクリーンに触れる指は小さく震えている。
左手でスマホを耳に当て、右手を胸に当てる。どっくん、どっくん、と、心臓の大きな動きが右手に伝わってくる。
掠れないように、ひっくり返らないように。私は慎重に声を出した。
「はい、みょうじです」
『みょうじ、俺だ、坂木だが……。悪いな、急に連絡して』
「いえ、大丈夫で……あっ! ちょっと!! やめて」
会話が始まったことで油断していた。麻耶に耳元のスマホを取り上げられたのだ。
麻耶は、美しい顔をひくひくと引き攣らせ、憤然と私のスマホを勝手に耳に当てる。そして頬を引き攣らせたまま刺々しい声を出した。
「もしもし? 突然すみません、私みょうじなまえの親友の添田麻耶と言いますけど」
ひぃっ! と、私も頬を引き攣らせた。この子は坂木さんに一体何を言い出すつもりだ!
立ち上がってスマホを取り返そうとする私を躱しながら、麻耶の刺々しい声は次第に怒鳴り声へと変わる。
「坂木さん、あなたねえ!? なまえのことどれだけ振り回して傷つけて……あっちょっと! まだ言いたいことが」
今度は私が麻耶の手からスマホを奪った。「奪った」って、元々私のスマホなのだけれど。
私はちらちらと視線を向けてくる周りの客に会釈で謝りながら、スマホを片手に店外へ出た。
「さ、坂木さんすみません! あの、今のは」
『お前の親友か。ハッ……いや、言われても仕方ないだろうな、俺は』
受話器の向こう側に不快な様子は窺えない。
寧ろ、あの凜々しい顔に笑みを浮かべている様子が思い浮かんだ。
『急だが、お前明日は空いているか?』
「は、明日……ですか?」
『K山に来て欲しいんだ』
心臓が止まりそうだった。
ぐ、と一瞬呼吸が詰まる。
春の強い風が吹いて、三分咲きの桜が揺れる。
風のざわめきが止むと、私は音を立てないように慎重に吐いた。ハアという無性音は、震えていた。
「……はい、わかりました。明日、行きます」
明日火曜日は平日だが、もちろん春休み中だし、幸い他の予定もない。
今日埼玉に帰ってきたばかりだが、明日馬堀海岸にトンボ返りすることにしよう。馬堀海岸からK山へ行くのにも時間がかかるから、明日はかなり早い時間に家を出たほうが良い。
『待ってる』
そう言って、電話は切れた。
「……明日?」
「う、わあっ」
いつの間にか後ろにいた麻耶は、私の耳元でじっとりとした声を出した。びくっと肩を震わせて振り向くと、恨めしげな視線が私に突き刺さる。
「なまえ、明日行くの? その『坂木さん』のところに?」
「……行く」
「行かなくていいよ! また傷つけられるかもしれないじゃん!」
華やかに彩られたブラウンの眉とコーラルピンクの唇が歪んでいる。
麻耶の眉間の皺は、怒っているというよりも、どこか苦しそうだった。
「それでもいいの。傷ついてもいいの。
私が坂木さんを好きで、私が行きたいんだから」
そう硬い声で言うと、麻耶は不本意そうな顔をして、黙ったまま目を伏せた。
「……麻耶ありがとう。私のこと本気で心配してくれてるって、ちゃんとわかってるよ」
そっと麻耶の細い腕に、自身の荒れた手を添える。麻耶は私の手を振りほどくことはせず、俯いたまま頷いた。
そうして、親友はもう何も言わなかった。