第十二章 冬の日の鬼





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* * *


一月三日。約一週間の冬季休暇も今日までだ。
明日から後期が始まるが、明日の早朝にバタバタと家を出るのも嫌だったので、今日のうちに馬堀海岸の下宿へと帰る。今日は下宿で一泊して、明日は下宿から登校するのだ。

母親に持たされた大量のお土産をキャリーケースに詰め込み、午前中のうちに最寄り駅へと向かう。お土産は同部屋のみんなや同期に配るつもりだ。
JR埼京線に乗り、池袋で湘南新宿ラインへ乗り換え、そこから更に南下し横浜へ。
横浜で下車して京急へ乗り換えるのだが、下車した時には既に一一三〇(ヒトヒトサンマル)を回っていた。少し早いが、京急へ乗る前に駅周辺で昼食を取ることにする。
駅直結のショッピングモール、最上階のレストランフロアで、さくっとパスタを食べる。一人きりのランチはものの二十分で終わった。それでも普段の食事からすれば、随分とゆっくり食べたのだが。

ランチ後はまっすぐに京急の乗り場へ向かうつもりで、ショッピングモールのエスカレーターを下っていた。

その時、パッと目に入ってきた物があった。
思わずエスカレーターを下りる。五階、メンズファッションフロアだ。



アパレルショップ入り口のディスプレイに、引き寄せられるように近づいた。木製什器に、セール価格となったマフラー、ニット帽、手袋などの冬小物が並べられている。
私が目を奪われたのは、一番目立つところに飾られていた、明るいサックスブルーのマフラーだった。
メンズアパレルショップということもあり、周りの商品は黒や紺、グレーなど、暗く濃い色が多い。その分綺麗なブルーがパッと目に飛び込んできたのだ。
明るい、それでいて少しだけくすみのかかった、上品な色。
思わず手に取ると、値札に書かれている額の割には肌触りが良い。洗濯表示を確認するとカシミヤ百パーセントだった。

これならば、着けていて心地良いだろう。
彼の手持ちの服にもきっと映える。

そのマフラーを手に取ったのは、ほとんど衝動だった。

「ありがとうございます。プレゼント用ですか? ご自宅用ですか?」

尋ねられて、ハッと我に返る。
このマフラーを、私は一体どうするつもりなのか。

「……プ……レゼント、用で……」
「かしこまりました」

レジ台で手際よくマフラーを包み始める店員さんを眺めながら、私は脳内で派手に頭を抱えた

――プレゼント用って、なんだ!?
一体全体、どうして私はこんなもの買ってるんだろう?

今日一月三日が、坂木さんの誕生日だということはもちろん知っている。
このマフラーなら、きっと喜んでくれると思ったのだ。思ってしまったのだ。無意識とはまったく恐ろしい、気がついたらもう会計が済んでいる。

一昨日坂木二佐に言ったばかりだ。私と坂木さんの間に、プライベートな関係はない。
バースデープレゼントを渡す機会なんて、ないというのに。



結局私は、左手でキャリーケースを引き、右手に紙袋を持って京急に乗った。
もちろん紙袋とは、カシミヤマフラーの入った紙袋である。「プレゼント用」と言ってしまったので、袋の中身はラッピングもバッチリだ。
左手のキャリーケースと右手の紙袋、比べれば左手が断然重いはずなのに、右手のほうがずんと重く感じる。紙袋の中のリボンを思えば、余計に重く感じる。
京急に乗車中も、馬堀海岸で下車して歩いている時も、私の右半身はずっと紙袋に引っ張られるように重かった。



まっすぐ下宿に帰るつもりだったのだが、気まぐれで通り道にある公園へと入った。
重い右手が、足取りまで重くしている。なんだか疲れてしまったのだ。

「はあ……」

大きなため息をついて、端にあるベンチに腰掛ける。
誰もいない公園は静かだった。

関東は年末年始の間ずっと晴れていた。木製のベンチは雪が積もることもなく、からっからに乾いている。
天を仰げば、キンと澄み渡った冬の青空。雲一つなく、空が高い。
明日からはまたこの寒空の下で乾布摩擦だ。

「……メルカリででも、売るか……?」

ぼやいて、ベンチの隅に置いた紙袋をちらりと見やる。

そういえば不要品売買は副業に当たるのだろうか? 学生必携にそんなこと書いてあっただろうか……? 咎められる可能性があるならば、メルカリは止しておいたほうが良いかもしれない。

「……はあああああああ……」

さっきよりもずっと大きなため息を盛大に吐き、ベンチの背もたれにどっかりと凭れた。顎を天へ向かってぐんと突き出し、青空を恨めしく眺める。

そこへ、突然視界の青が遮られた。

「…………っ!?」

ひゅっと息を呑む。
心臓が握りつぶされたように跳ね上がり、私のお尻はベンチから三ミリほど浮いた。

青空の代わりに突如視界へ入ってきたのは、坂木さんの顔だった。


* * *


「さっ……坂木さん!!」
「何を売るのか知らねえが、営利目的はNGだぞ。単なる不要品売買なら、古本屋で本を売るのと変わらねえから問題ないが」

「はいっ」と、なまえは喉の奥を引き攣らせて声をひっくり返す。顔色が一瞬にして赤くなり、そしてやはり一瞬で青くなってゆく様を見れば、突然声を掛けたことを申し訳なく思うくらいだった。
散歩の途中、公園のベンチで呆けているなまえが見えたから声を掛けたのだが……メルカリで一体何を売るつもりだったんだか。

ベンチはまだスペースが空いている。隣に腰掛けると、ダッフルコートを着た小さな身体が強張ったのがわかった。
その強張りには気づかないふりをして、手をポケットに突っ込む。
ふうと小さく息を吐けば、白が青空へと霧散していった。

「あの、坂木訓練長、あけましておめでとうございます」
「おう、おめでとう。埼玉の実家に帰っていたのか」
「はい、今帰ってきたところです」

会話しながらも、なまえはどこかオドオドしている。視線が定まらず落ち着きがない。
挙動不審なその態度を窘めるように見やると、なまえはおずおずと口を開いた。

「……私、ここにいても大丈夫でしょうか?」

意味はすぐにわかった。
誰かに見られたら誤解を招くんじゃないかと、そういう意味だ。

「……別に、たまたま会った防大生と訓練長が世間話をしているだけだ。そんなに悪いことだとは思わねえがな」

答えてから、歯切れが悪い言い方だなと内心で舌打ちをする。
自分自身の疚しい気持ちがこんな言い方をさせているのだ。

公園になまえが一人でいるのを見つけた時、瞬時に周囲を見回して、人影がないかを確認してしまった。「たまたま会った防大生と教官が世間話云々」なんて言っておきながら、やはり俺の中に個人的な想いがあることは否定できない。
正直に言えば、なまえの声を聞きたかった。少しでもなまえの近くにいたかった。



「……」
「……」

隣に座ってみたものの、何を喋れば良いのかわからなくなってしまった。沈黙が重い。俺はもう一度内心で舌打ちをした。
てめえも幹部自衛官になるのなら、何か気の利いた話の一つでもして部下を喜ばせてみろよ。
心の中で自分に発破をかけ、だがしかしなまえのほうが先に口を開いた。

「あの、もしかしてもうお聞きかもしれませんが……一昨日の元旦、入間市の神社で坂木二佐とお会いして、お茶をご馳走になりました」
「……はあっ!? 親父と!?」

どことなく気詰まりだった空気が吹っ飛んだ。ぎょっと目を見開いてなまえを見れば、なまえは上目遣いで気まずそうに視線を返す。

「は、はい……本当に偶然なのですが。神社でお会いして、『お茶でも』とお誘いいただいて。それで、喫茶店でご一緒したんです」

なんだそりゃ。どうしてそうなった。
頭を抱えて項垂れ、次に脳裏を過ぎったのは病室での親父の発言だった。

『お前の恋人は民間人が良いと思っていたんだがな』

――親父は、なまえを傷つけるようなことを言わなかっただろうか?

「……親父と何を話した?」
「ただの……世間話です。坂木訓練長は一大隊の訓練長として着任され、我々も日々お世話になっています、とか……そういう」

……それが全てだろうか。
なんとなく、全てではない気がする。

だが親父が、俺の知らないところで、なまえに民間人だのどうのと言うことは考えがたい。
それに俺達は、恋人でもない。交際をしていないのだから、親父が口を出す必要もない。
とにかく俺は、親父がなまえを傷つけていないことを願っていた。自分が散々なまえを傷つけたことをまるっと棚に上げて。



「あの、坂木訓練長」
「あ? なんだ」

眉間に思いっきり皺を寄せたまま、ぐりんとなまえを向く。あまりに人相が悪かったのか、一瞬なまえの顔が引き攣った。
だがなまえは改めて笑顔を整えると、ベンチの隅に置いてあった紙袋を持ち出した。

「本日は坂木訓練長のお誕生日ですよね。おめでとうございます。あの、これ」

差し出されたのは、ベージュの紙袋だ。俺でも知っているアパレルブランドのロゴが印字されている。
わずかに開いている紙袋の口から、黒い包装紙と青いリボンが覗いた。

「……」

声も出ず、呆然となまえを見つめてしまった。

俺の誕生日を覚えていたのか。



俺がいつまでも呆けて紙袋を手に取らないことに、焦ったのだろうか。なまえは笑顔を貼り付けて、取り繕うように言葉を紡ぐ。

「あの、普段お世話になっている訓練長へ、ほんのお礼の気持ちです。……本当に、あの、ささやかなもので」

その口元は弧を描いているが、目の中は笑っていない。
瞳はまるで怯えているかのように見える。

『普段お世話になっている訓練長へ』
その響きがいじらしくて、胸が詰まった。
なまえの唇は、わずかに震えている。

「……あの……あの、本当に、ただのお礼の気持ちなんです。……だから……」

もう恋人ではない俺に、個人的なプレゼントをすることを咎められるとでも思ったのだろうか。なまえの笑顔はギリギリのところで保たれている。
あと一歩バランスが崩れれば、きっと崩れてしまうだろう。

想いが、痛いほどに伝わる。



紙袋を受け取り、リボンを解く。
中からは淡いブルーのマフラーが現われた。

ほんの少しだけ灰色がかっていて落ち着いた、でも明るい青色。今着ている黒いピーコートにもきっと合う。
マフラーをぐるりと首の周りに巻くと、肌にカシミヤがすっと馴染んだ。
ここでようやくなまえの強張りが緩んだ。ホッとしたように目尻が下がっている。
緊張と不安と安堵を順に通ったなまえの頬は、仄かに紅潮していた。

「みょうじ」
「はい」
「ありがとうな」
「……はい」

なまえは自らもマフラーの中に口元を半分隠し、柔らかく微笑んだ。
こんな笑顔を見られたのは、いつぶりだろうか。恐らく、ゴールデンウィークの箱根旅行以来見ていなかった。



いつまででもなまえの笑顔を眺めていたいが、そういうわけにもいかない。防大生と訓練長が話していること自体に問題はないが、誤解を招くと面倒なことになるのは身を以て学んでいる。
俺がベンチからすっくと立ち上がると、細く弧を描いていたなまえの目が、途端にゆらりと揺れた。

きっとなまえもこの時間を名残惜しく思ってくれている。そう解釈した。

俺もだ。
俺だって、本当はお前とずっと一緒にいたい。



俺はきっと口を引き結び、できる限り硬い声を出してなまえを見下ろした。

「俺はもう行く。みょうじ、お前も明日から後期だ。さっさと下宿に戻って新学期の準備でもしろ」
「は、はいっ」

返事をしたなまえは、ザッとベンチから勢いよく立ち上がる。

踵をぴったりと付けて四十五度に開き、拳は軽く握られている。不動の姿勢だ。
だが、なまえの私服のダッフルコートと細身のジーンズが、どうにもその姿勢とミスマッチだった。防大生のなまえとプライベートのなまえが混じった妙な光景。
正直、微笑ましくて可愛いと思ったが、笑わないように唇を意識して引き結んだ。

「じゃあな」
「はいっ、お疲れ様ですっ」

踵を返して公園の出口に向かって歩き出す。
だが、背中の向こうでもなまえの気配は緩む様子がない。きっとまだ不動の姿勢のままだ。



「みょうじ、後期も励めよ」

なまえに背を向けたまま、声だけは届くように。
一呼吸置いて返ってきたのは、凜々しい声だった。

「――はいっ!! 坂木訓練長!!」

振り向かずともわかる。
なまえは俺の背中に向かって、美しい敬礼をしているに違いなかった。





   

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