第十二章 冬の日の鬼





02




* * *


「お待たせいたしましたー」

店員の間延びした声と共に、コーヒーと紅茶がテーブルに置かれた。
元日の喫茶店はそこそこ混んでいる。

坂木二佐はコーヒーにミルクだけを入れ、静かにスプーンでかき混ぜた。
無糖派なのかな、なんてしょうもないことを思いながら、私はホットティーに角砂糖を二つも入れた。いつもだったら無糖か、砂糖を入れたとしても一つだけなのだが。
坂木さんのお父様、且つ現役幹部自衛官と、二人きりで喫茶店で向かい合っている。この状況は、がっつりと糖分を取らないと乗り越えられないような気がしたのだ。



「お茶でも」と誘ってくださったのは、坂木二佐だった。
入間駅近くのレトロな喫茶店は、初詣帰りの客が流れてくることを見越したのか、元日から開いていた。

ベロアの貼られたソファに、アンティーク調のテーブル。クリーム色の壁紙にはうっすらと薔薇の花が描かれている。昔ながらの喫茶店だ。
なるべくきょろきょろしないようにと思うのだが、視線をどこに向ければ良いかわからず、つい店内を見回してしまう。
都心の喫茶店と比べるとここは広々していて、座席と座席の間隔も開いている。それだけが緊張と圧迫感を和らげる唯一の要素だった。



「官舎から一番近い神社が阿田子神社でね。まさか入間市の神社で君に会うとは思ってもいなかったが、もしかしてご実家がこの辺りなのだろうか」
「いえ、実家はさいたま市なんです。入間市駅から電車で一時間くらいのところです」
「ではなぜわざわざ入間で初詣を?」

坂木二佐は寸分の緩みもない姿勢のまま、心底不思議そうにこちらを見据える。
私がことの仔細を説明すると、厳つい顔をほんの少し柔らかくして口角を上げた。

「そうか。私の頃も、上級生の言うことは絶対だった。よく無茶をさせられたものだよ」

空気がわずかに和んだ。仄かな笑みに、がちがちに固まっていた私の背中と肩がほんの少し緩む。
太陽が高くなり店内に午前の日が差すと、空気中に舞っているホコリがキラキラと光った。

コーヒーを一口飲んだ坂木二佐は、カップを静かに置くと、徐に口を開いた。

「……龍也は元気にしているだろうか? 連絡一つ寄越さないものだから」

私は中途半端に口を開いたまま止まってしまった。
何と答えれば良いのかわからない。

……帰省、していないということだろうか。
お父様が入間基地の官舎にいるなら、年末年始はそちらへ帰っているのだろうかと勝手に考えていたのだ。でも坂木さんにとっての故郷は高知なのだろうから、「帰省」というなら高知を指すのか? それとも、お母様のところへいるのだろうか? そもそもお母様はどこに住んでいるのか?
わからないことは盛りだくさんだが、とにかく今明確なことは二つ。
一つは、坂木さんはこの年末年始に入間のお父様の元へ帰っていないということ。
もう一つは、私は坂木二佐の質問に対する回答を持ち合わせていないということ。

私は姿勢を正し、坂木二佐を見据えた。

「……坂木訓練長には、日々熱心なご指導を賜っております。怪我の回復も順調そうにお見受けしますが」

敢えて他人行儀な言い方をした。
私は訓練長としての坂木さんしか知らない。彼が個人的に元気かどうかはわからない。そう言外に滲ませた。
すると坂木二佐の鋭い目が、意外そうに丸く見開かれる。

――そうか。坂木二佐は、私と坂木さんが別れたことを知らないのだ。

「……ええと私……坂木訓練長とは、今はお付き合いしていないんです」

なるべく声にも表情にも、感情を出さないように。事実だけを伝える。
坂木二佐の見開いていた目が一つ瞬きをし、そして瞼がゆっくりと伏せられていった。

「……それは、知らなかった。てっきり今でも交際しているものと……申し訳ないことを聞いてしまっただろうか」
「いいえ! そんなこと……」

それきり、言葉が続かなかった。
別れるに至ったアレコレを私が説明するのもおかしいし、何をどう言えば良いのかわからない。
恐らく坂木二佐も戸惑っているのだろう。私達の間の空気は再び重くなった。店内のBGMが却って沈黙を浮き立たせている。

周りのテーブルは、初詣帰りの学生グループやカップルばかりだ。新年が明けたばかりの今、どのテーブルも新年特有の高揚感みたいなものが滲み出ている。日の差す明るい店内で気まずそうに俯いているのは、きっと私達だけだろう。
坂木二佐にしてみれば、初詣で偶然息子の恋人に出くわしたものだから、お茶に誘ってくださったのだ。ところが既に別れていると言われたら、それは気まずいに違いない。

「……龍也が……いや、こんなことを私が言うのは野暮かもしれないのだが……」

重苦しい沈黙の後、先に口を開いたのは坂木二佐だった。

「龍也が君に何か失礼なことや、君を傷つけるようなことをしたのだろうか。だとしたら申し訳ない」
「や、止めて下さい! 決してそんなことはありませんから……」

私は、両手をテーブルに付き頭を下げようとする坂木二佐を慌てて止めた。

テーブルに置かれた坂木二佐の手は、節くれ立っていて無骨だった。
自衛官の手だ。そう思った。
ふと俯くと、腿の上で重なっている自分の手が目に入る。
私の手もすべやかとは言い難いが、坂木二佐の手と比べれば全然違った。ただ荒れているだけの私の手と違い、坂木二佐の手には、もっと言葉にし難いものが滲み出ている。
敢えて言葉にするならば、「責任」とか「使命」とかだろうか。坂木二佐の手は、背負っているものがある手だ。
手一つをとって見てもわかる。私はまだ半人前だ。



「坂木訓練長はいつでも周囲の人間に誠実です。……私を含めて。私は坂木訓練長を尊敬しています」

そう言うと、坂木二佐の周りの空気がほんの少し緩む。

「そうか……君が傷ついていないのなら良いのだが」

ああ、こうして見ると似ている。すごく似ている。
纏う空気も圧力も、そして人に対して真摯なところも。

傷ついていない、と言ったら嘘だ。
でもきっと、傷つかない恋愛なんて恋愛じゃない。
あの箱根で坂木さんは私を傷つけた。そして坂木さん自身も傷ついた。
そういう坂木さんが、私は好きなのだ。



「――あの、こんなことを坂木二佐に申し上げるのは変かもしれませんが」

意を決して口を開くと、威圧感のある瞳がこちらを向く。
白髪混じりのオールバックを見て、きっと坂木さんも年をとったらこんな男性になるのだろうなとじんわり胸が温かくなった。

十年後か、二十年後か、きっと坂木さんも坂木二佐のような自衛官になる。

その時坂木さんの隣にいるのが、私じゃなくても。
それでも。



「私は坂木訓練長をお慕いしています。坂木二佐と病室でお会いした春の日から変わらずに、ずっと坂木さんをお慕いしています」

坂木二佐の目が大きく瞠られる。

口調に惑いが出ないよう、視線にも惑いが出ないよう。
私は自分の太腿の上でグッと拳を握った。

「でも私は防大生です。自衛官になることを目指しています。今後も民間人になる予定はありません。ですから、坂木訓練長が私との交際をどう考えているかはわかりません。お別れしてからは、周囲の誤解を招かないよう個人的にお話もしていないので」

瞠られていた鋭い瞳が、ほんのわずかに眇められる。
コーヒーカップの持ち手に掛かっていた指を外した坂木二佐は、姿勢を正して私を見据えた。

「あの日病室で、『恋人は民間人を』と言っていたのが聞こえていたのだな。不愉快にさせただろうか」
「いえ、坂木二佐の仰ったことは正しいです。あの日のお話は、私ももっともだと思いました」

教官と防大生なんて交際できるはずもない。
坂木さんが幹候へ入校してから交際したとして、奈良と神奈川の遠距離恋愛だ。
もちろん候補生と防大生なんて、連絡も頻繁に取れるわけがない。
幹候を卒業すれば、全国どこの部隊に配属されるかわからない。
何年後のことかわからないが、遠い将来を考えた時に、結婚できるかどうかもわからない。
互いが互いの結婚相手としては、相応しくないのかもしれない。

私達が恋愛しようとすれば、障害ばかりだ。
それでもなぜか、心は和いでいる。

「坂木訓練長と私の間に、今はプライベートな関係はありません。それでも私は、……勝手ですが、坂木さんが好きです。
そして私は国民と国土を守りたいと思っています。二つの気持ちは相反するものではありません。ただそれだけのことだって、そう気づいたんです。
……私、一人で勝手に幸せなんです」

嘘偽りのない本音だった。
自然と顔が綻ぶ。

大好きな人がいて、目指している夢がある。それだけで私は十分だ。



「……そうか」

坂木二佐の吐息のような声は、ポジティブなのかネガティブなのか。声色がわからない。俯いてしまえば表情もよく見えない。
小さくこぼれたため息に、コーヒーの表面がわずかに波打つ。
波紋はやがて凪いでいった。




   

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