第一章 春の日の鬼





03




* * *



「なあ、みょうじってどんな奴だ?」

3月の終わり。
誰に聞いたら良いかわからなかったから、とりあえず近くにいた大久保に聞いた。

「みょうじ……?新二学年のみょうじなまえのことですか?」
「ああ」

大久保は糸目を更に細くして笑う。

「何を言ってるんですか今更。
みょうじは一学年の時も一大隊でしたし、あなたも知っているでしょう。指導だって何回もしているじゃないですか」
「ああ、まあ……
だが中隊が違ったからな、 深いところまで知っているわけじゃねえんだ」
「なぜまた急にみょうじのことを?」

返事に窮した。賢い大久保は、すぐに事情を察してしまう。

「ああ……岡上乙女学生の対番でしたか?彼女」
「うるせえな!」

反射的に噛み付いた結果、肯定の返事になってしまっている。
くくく、と大久保は笑いを噛み殺し、それでも親切にみょうじの事を教えてくれた。

「みょうじなまえ、有名人じゃないですか。
いわゆる『出来っこ』ですよ。成績優秀、指導の回数も少ないですね。校友会はバドミントンでしたか……。
あと、可愛いですよね、彼女」

可愛いという言葉に、必死にみょうじの顔を思い出す。
……可愛かっただろうか?

肩上で揃えられた、地毛ながら栗色に近い色の髪の毛。あまり日焼けしない質なのか、遠泳訓練をしていた時でさえ白かった肌。
そんなもんが俺の頭に思い浮かんだ。
可愛い……といえば可愛いのだろうか。あまりよく分からない。

「人となりは……わたしもそんなに知っているわけじゃないですが」

大久保はそれでも俺よりは知っている。そのまま話を続けた。

「何というかね、彼女陽キャですよね。コミュ強というか」
「ようきゃ?こみゅきょう?」
「要するにですね……友人が多く、明るく元気、ユーモアもある。そんな感じです。
上級生の前で私語をするようなヘマはしませんが、同期同士だとおしゃべりも弾んでいるようですし、ムードメーカーといいますか。コミュニケーション能力が高いようですね」

ふーん、と顎に手を当て考え込んでいると、大久保は俺の肩にぽんと手をおいた。

「安心して下さい。上対番がみょうじなら当たりです。
一大隊新二学年の女学では、一番か二番かくらいには優秀かと思いますよ」

みょうじなまえ。
とりあえず、妹の上対番としては不足のない人間らしい、とその時知った。



だが、岡上学生の様子を知ろうと何度も呼び出したことに対し、反発してきたのには少し驚いた。
まさか一年間防大で過ごしていて「上級生は神」というルールを知らない者はいるまい。
みょうじは俺にしごかれるのを承知で、物申したのだ。

みょうじの指摘は真っ当だったし、筋が通っていた。
俺はその時、ああ、岡上学生の上対番がみょうじで良かった、と思ったのだ。



* * *



4月5日の入校式を終えると、新入生の『お客様期間』が終わる。自衛隊員に義務づけられた服務の宣誓を行えば、もう立派な公務員だ。
それまでは比較的優しかった上級生達の態度が入校式を境にガラリと変わり、厳しい指導、反省、いわゆるしごきが始まる。

妹の岡上学生にとっても、それは例外ではない。
俺達が兄妹だということを知っているのは四学年と岡上乙女の対番、みょうじだけだ。みょうじは口が固かったようで、事実が他学年に広まった様子もない。
俺は岡上も、他の一学年同様に指導した。怒鳴るし、罵るし、竹刀を突きつける。
平等でなければならなかった。風紀のためにも、岡上のためにも、俺自身のためにも。



上級生の急な変貌に戸惑うのが一学年の常だ。今まで優しかった先輩達の裏切りにも見える変わり身、そして厳しい訓練と指導。
一人、また一人と防大を去っていくのがこの時期だった。
殊に女学は男子に比べると去る者が多い。
防大では女子だからといって訓練内容が男子と異なることはほとんどないし、上級生からの指導も女子だからといって緩められることはない。
精神的にも厳しいが、女学はそもそも生物学的に体力面においてハンデがあった。

これは男女問わずだが、ここからが対番制度の本領発揮である。
上級生は全て敵のような環境下で、上対番だけは絶対的な味方で有り続ける。入校式までの準備期間が終わっても、それは続くのだ。
部屋の中で話せないことも、対番になら話せることもあるものだ。
対番の関係は、ずっと続く。
厳しく指導されるのは基本的に一学年のうちだが、二学年に進級しても三学年に進級しても、対番はずっと対番なのだ。

岡上学生がこの時期を乗り越えられたのは、本人の努力なのか、良い同期や同部屋に巡り会えたのか、対番のみょうじのフォローが良かったのか。
そのどれか一つかもしれないし、全部かもしれなかった。
だが最後の一つ、みょうじのフォローがあったことは恐らく確かだろう。

みょうじは、俺がメッセージで尋ねた日は勿論だが、尋ねない日であっても岡上の事で気になることがあれば事細かに報告してきた。
その上で「○○と伝えましたが、メンブレ(メンタルブレイク)があってはいけませんので、坂木さんからもフォローを是非お願いします」と一人前に進言してくるのだ。
みょうじの報告と進言は的確で、俺を安心させた。
その上「時間を取らせれば悪いから、報告は簡単で構わない」と言っているにも関わらず、「家族の様子を心配するのは当然です。他言しませんから安心して下さい」と配慮を見せた。



そうして岡上学生は、なんとか入校式から三週間を乗り越えた。



* * *



4月の終わり、毎年恒例のカッター競技会が行われた。
「カッター」とはかつて艦艇に装備されていた大型の手漕ぎボートのことだ。この手漕ぎボートでのタイムを各中隊で競う、大きな協議会である。

カッター競技会に参加するのは二学年。
このカッターは「上級生への登竜門」と言われており、二学年は一学年の面倒を見ながら、約一ヶ月に及ぶ厳しい訓練をこなす。
これを乗り越えた者が「上級生」として、認められるのである。

私の所属する第一大隊第一中隊は、準優勝だった。
優勝まであと一歩届かなかったことは悔しかったが、私は、全力を尽くした充足感と、この厳しい訓練を乗り越えられた達成感、上級生として認められたという喜びで満たされていた。



カッター競技会が終わったその日の夕方のこと。
漕いで漕いで漕ぎまくったためにぼろぼろになった身体を引きずりながら、PXへ来た。とりあえず、喉が渇いたのだ。
蛍光灯に照らされた店内で何のジュースを買うか物色する。

なんかとにかく、甘い物が飲みたい。身体がめちゃくちゃに疲労している感がある。
普段は買わないネクターを手に取ろうと冷蔵庫のドアを開けたところに、後ろから無骨な腕が伸びてきた。

「……坂木さん!こんにちは!」

慌てて敬礼すると、ああと短い返事が返ってくる。

「お前が買おうとしていたの、コレか?」

ネクターのペットボトルを取ると、坂木さんは自分が持っていた買い物カゴにぼんと投げ入れる。

「あ、は、はい……」

戸惑っていると、坂木さんはお茶やジュースを続けてカゴに入れていった。

「カッターご苦労だったな。準優勝、素晴らしい結果だった」
「あ、ありがとうございます!」
「何でも奢ってやるよ。好きなもん入れろ」

突然の申し出にきょとんとしてしまう。
坂木さんは私の顔を見ると、バツが悪そうにポリポリと人差し指で頬を掻いた。

「みょうじには、他のことでも散々世話になったからな」
「……ああ……
いえ、そんな……」

乙女ちゃんの対番であることを言っているだと分かったが、上対番の務めを果たすのは二学年として当然だ。家族の様子を知りたいのも当然だ。

……でもまあ、シスコンだなあとは思っている。
もちろん、そんなことは言わない。言ったら最後、腕立て50回じゃきかないだろうから。

私が遠慮していると、坂木さんは勝手にお菓子をカゴへポンポンと入れ始めた。
甘いもん欲しいだろ、と、チョコレートやクッキーを山ほど。ポテトチップスや歌舞伎揚、塩気のある物も。

「こんなにたくさん……」
「部屋の奴らと食べろ。良いから」

そう言ってパンパンになった白いビニール袋を3つも私に持たせる。

「あ、ありがとうございます!」

荷物を抱えたまま礼を言うと、坂木さんは右手を軽く上げてPXを去っていった。
……自分の分は何も買わなかったけど、あの人、私に奢ってくれるためだけにPXに来てくれたのかな。
何という義理堅い人。律儀だなあ。
私は感心のようなため息をついてしまった。



「どうした?それ」

山のようなお菓子とジュースを持って帰ると、部屋の先輩達が尋ねてきた。

「あ……あの、坂木さんに奢ってもらいました。部屋のみんなで食べろと」
「ええー!?どうしてなまえだけ奢られるの!」

食いついてきたのは、三学年の先輩達と舞子だ。

「ど、どうしてって……カッター頑張ったなって」
「そんなの私だって頑張ったよー!なんでなまえだけ!」

私はお菓子の山を白いビニール袋ごと一学年に渡し、机の上に広げさせた。一緒に紙皿を出して菓子を並べながら答えたが、舞子は納得がいかないのかブーたれている。

「何でって……偶然PXで鉢合わせたから……かな……?」

そう答えるしか、ない。
だが、この奢りの背景に乙女ちゃんの対番もあることを四学年達は察したらしい。くっくっと笑いを噛み殺している。

「いーなーなまえ。坂木さんに奢ってもらえるなんて」
「ねえー!」

三学年達と舞子は口々に言った。

坂木さんに?

「坂木さん『に』奢ってもらえるのが良いんですか?」
「だって!!カッコいいじゃん!!!」

問い返すと、三学年達は食いついてきた。

私はきっと、目が丸くなってしまっていたと思う。
お菓子を広げていた手も止まってしまった。

私は驚いていた。
坂木さんて、カッコいいのか。

「坂木は人気あるよね、なんだか知らないけど。
四学年の中でもモテてるし、下級生から見たらもっとだな」

広げたばかりのポテチを摘みながら、四学年の部屋長は言う。

「え、でも……鬼なんて呼ばれてるのに……」
「鬼だけど、彼は理由のある指導しかしない。そうだろ?それはなまえもよく知ってるじゃない」

そうだ。だから尊敬している。
だが、モテるというのは意外だった。
身長だって決して高くはないし。

「坂木はねー、うん、一学年の時から目立ってたよ。でも当たり前だけど今よりずっと子供で。
どんどん大人になって、今はなんか色気すら感じるよね。あの前髪のすだれとか」

「前髪のすだれ」を手で表現しながら四学年が冗談めかして言う。わかりますー!!と三学年達はキャッキャと黄色い声を出した。
騒いでいるのは三学年と舞子だけで、私は坂木さんの意外な人気にぽかんとし、現在進行形で坂木さんから毎日しごきを受け続けている一学年2人は、黙って静かに菓子を摘んでいた。一学年の2人はきっと、あの鬼のサカキがモテるだなんて、と恐れ慄いているに違いない。



律儀な坂木さん。
シスコンの坂木さん。
モテる坂木さん。

この1ヶ月で、鬼神の意外な一面を随分とたくさん知ってしまったな。
そんなことをぼんやりと思いながら、その日の夜は眠りについた。




   

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