第十二章 冬の日の鬼





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十一月の開校祭、十二月の冬季定期訓練が終わると、中期ももう終了目前だ。
中期が始まった八月はあんなに暑かったのに、今や小原台の空気はキンと冷たい。

一日は怒濤の如く流れゆく。
それは一学年時や二学年時だけでなく、三学年になった今でも変わらない。寧ろ学年が上になるほうが、やるべきことは多い。上級生になるにつれ時間の有意義な使い方が身につくから、なんとかこなせている。それだけだ。

私にとっては、三学年中期終了目前である今が、防大生活で一番忙しい。
そして一番充実してもいる。

やるべきことが明確になり、それを懸命にこなす。すると、芋づる式にやるべきことややりたいことが出てくるのだ。
下級生の訓練プランをブラッシュアップしたい、部屋会でも開催して部屋っ子をきちんとケアしてあげたい、四学年になったら始まる卒論に向けて情報を収集したい、あれも学びたい、これも学びたい。
一日が二十四時間じゃ足りないくらいに毎日が充ち満ちている。貪欲な学生生活は目が回るほど忙しいが、楽しい。

初夏から初秋にかけて、私は毎日ぐずぐずと落ち込んでいたわけだが、今から思えば本当にもったいないことをした。あの時間を今のように使えていたなら、どんなに有意義だっただろうか。
でも、それは今だからこそ思えることなのだろう。あの暗く湿った時期を乗り越えることも、私にとっては必要なことだったのかもしれない。

初夏よりももう一歩手前の季節、春。
四月の私は幸せだった。坂木さんと晴れて恋人同士になれて、確かに幸せだった。
だがあの頃の私は、きっとどこかで浮ついていた。
これも今だからこそ思えることだが、四月の坂木さんとの交際に夢中だった生活よりも、今の生活のほうが充実している。
きっと春の私を今の私が見たら、だらしがないと窘めるだろう。そのくらい過去の私は浮ついていたのだと、今ならわかる。

坂木さんへの想いが変わったわけではない。坂木さんのことは、ずっと好きだ。変わらずに好きだ。
だがその好きの気持ちの扱い方が、私の中で明確に変化していた。


* * *


十二月のある日。
校友会終了後に洗濯機を回し、プレスを掛け、後輩に頼まれていた過去ノートを届け。目まぐるしく走り回っているうちに、夕食が遅くなってしまった。
食堂を訪れるとピークはとっくに過ぎており、人も疎らだ。早いところ夕食を終わらせてしまおうと、私は一人黙々と丼をかき込む。
そこへ野太い声が掛かった。

「おお、みょうじじゃねえか! ここ、いいか?」

声を掛けてきたのは芹沢さんだった。私が二学年の時から中隊が一緒で、要員も同じ空であり、しばしばお世話になっている先輩だ。

「はい! もちろんです」

既に食事を終えた様子の芹沢さんは、向かいの席にドカッと尻を収めた。
久々にまじまじと見ると、この人もなかなかの巨体である。椅子が少々窮屈そうだ。

「みょうじ、俺ずっとお前を褒めてやろうと思ってたんだよ」
「え?」

何を褒められるのかわからず目の前の巨体を見つめると、腕組みをした芹沢さんは感慨深そうに瞼を閉じた。

「みょうじ、お前の中期からの成長は目覚ましかった。ほらあの、曽山。お前、部屋の留守を任された時に部屋っ子が脱柵したことがあっただろう?」

曽山学生の脱柵。忘れていたわけではないが、久しぶりに聞く名前とワードだった。
脱柵という緊張感のある単語に、多分私は顔が強張ってしまったのだろう。芹沢さんは慌てたように続ける。

「いや、お前を非難しているわけじゃないんだ。あれはお前だけのせいじゃない、俺達皆の責任なんだからな。
だが、みょうじはあの出来事を境に変わったよ」
「え……変わった……ですか?」
「ああ。それまでもお前は成績優秀だったし、人当たりの良いやつだったが……あれ以来みょうじには、なんというかな、覚悟みたいなもんが備わったというかな。
お前も最高学年に向けて肝が据わってきたのかと思うと、嬉しくてな」

まったく予想だにしなかったことを褒められている。褒められればもちろん嬉しいが、びっくりというか、驚きの感情が勝った。

「覚悟」。思ってもみない言葉だった。
……正直言って、自分自身にそんなつもりは全然なかったのだが。

「それまでだって、お前は潤滑油として組織の中でうまく振る舞っていたとは思うがな。だが、ただ人当たりが良いだけじゃなくなっただろ? 一学年はもちろん、二学年や、必要があれば同期にだってきつく当たるようになったじゃねえか。他の四学年も中期からのお前の成長には一目置いているよ。
そうだな、鬼か仏かっていったら以前のお前は間違いなく仏だったが、今は場合によっちゃ鬼だな」
「……ありがとうございます」

……鬼、か。
鬼になったつもりなんて、全然なかったのだけれど。

鬼と呼ばれていた諸先輩方が脳内に思い浮かぶ。坂木さんを筆頭に、眉間に皺を寄せ青筋を浮かび上がらせた顔、顔、顔。
自分もあんな顔になっているのだろうかと思うと、なんとも微妙な気分だ。だがまあ、芹沢さんは本心から褒めてくれているようなので、そのまま素直に褒め言葉を受け取ることにした。

「疎まれたって憎まれたってよ。鬼でいることも、組織を正常に機能させるためだからな」

芹沢さんは、腕を組んだまましみじみと言った。

今年の春、芹沢さんもカッター競技会のクルー長として随分苦労したのだ。土方学生と、その他の二学年で随分と揉めたことは、中隊の三、四学年全員の知るところである。
どうやって揉め事を解決したのか詳細までは知らないが、とにかく頑なだった土方学生は変わり、一一中隊の二学年全体も変わった。
結果として一一中隊は金クルーを獲得したのだ。その裏で、芹沢さんがどれだけ気を揉んでいたかは想像に難くない。
芹沢さんがただのアニメ好きじゃないことは、皆知っている。この人も幹部自衛官を目指しているのだ。

「それでな、そんな成長目覚ましいみょうじを見込んでだ。折り入って頼みがある」
「……はい?」

急に変わった雲行きに、怪訝な声が出た。ずいと巨体が食堂のテーブルに乗り出す。

「お前、実家埼玉だったよな? 冬季休暇は実家に帰るんだろ?」
「え、あ、はい……」

パン! と私の目の前で大きな手が合わさった。坊主頭が深々と下げられる。

「みょうじ、頼む!! 元日、俺の代わりに阿田子神社に行ってくれねえか!?」
「……え!?」


* * *


阿田子神社。
西武池袋線入間駅から徒歩圏内にある神社である。住宅街の中にあり、然程大きい神社ではない。が、一応は神職が常駐しており、祈祷やお祓いもやっているらしい。
ネットで調べたら、平素は静かな場所のようだった。だが元日の今日は初詣客でごった返している。
そして恐らくこの混雑は、初詣客のせいだけではない。きっと私のように、参拝以外の目的で来ている者も少なくないはずだ。



なぜ芹沢さんが、私をこの小さな神社へと向かわせたのか。

『元日にな、聖地阿田子神社で授与されるんだ……。『魔法少女リリィ2nd SEASON〜転生したら神社の巫女だった!?〜』の公式お守りリリィ巫女バージョンが、数量限定でな!! みょうじ、どうか俺の代わりに手に入れてくれないか!?』
『は……? り、りりぃ? 巫女?』
『えっ、お前知らないのか? 『魔法少女リリィ2nd SEASON〜転生したら神社の巫女だった!?〜』を!? 1st SEASONは深夜アニメながら視聴率4.5パーセント超えの超人気番組だったんだぞ!!
2nd SEASONになってからは若干視聴率が落ちてしまったようだが……致し方あるまい、作画が1st SEASONに比べると幾分』
『ま、待ってください、何を手に入れれば良いんですって?』

話の内容が一つも飲み込めない私に、芹沢さんは「お前本当に知らないんだな」と、まるで憐れむような視線を向けた。多分知らないほうがマジョリティだと思うのだが。
それでも芹沢さんは、腕組みをして『魔法少女リリィ』とそのお守りについて、順を追って説明してくれた。

『入間市にある阿田子神社が、『魔法少女リリィ』の舞台となった神社のモデルでな。ファンの間では聖地として崇められているんだ。その阿田子神社で、元日の朝十時から、数量限定で公式グッズのお守りが授与されるんだよ!!
お守りは数種類あるんだが、なんとかリリィ巫女バージョンだけは手に入れたいんだ!!だが今年の年末年始は、どうしても実家に帰らなければならなくてな……。
兄が婚約して、お嫁さんがうちに挨拶に来ることになっているんだ。さすがに弟の俺も挨拶しなくちゃならないだろう? 年末年始を逃すと、あとは卒業後の春期休暇まで帰省できないからな。はあ、今年はコミケも不参加だ……』

そう言って、芹沢さんは学生食堂の天井を見上げ、遠い目をしていた。
お兄様のご結婚はそりゃあ喜ばしいことなのだろうが、年二回のコミケは芹沢さんのライフワークみたいなものだ。さぞかし口惜しいことだろう。

私の実家はさいたま市だ。正直、同じ埼玉県内といえども入間まではそれほど近くない。電車に乗って一時間程かかる。
だが芹沢さんには普段からお世話になっているし、我が家は親戚も少なく、元旦に集まる習慣もない。ちょっと足を伸ばして入間の神社へ向かうことくらいは問題なかった。
わかりましたと頷くと、後日芹沢さんは、「交通費と初穂料だ。余った分で何か美味い物でも食べてくれよ」と、十分なお金を包んでくれた。



件のお守りは一〇〇〇(ヒトマルマルマル)から授与を始めるとのことだったので、念のために〇七〇〇(マルナナマルマル)に家を出ていた。神社に着いたのが〇八一〇(マルハチヒトマル)で、驚くことに既にその時にはお守り授与のための列が出来ていた。
お守りを頂くに当たって参拝はきちんとせねばならない。まずは手水を使い、拝殿へ参る。
その後、お守りの列の最後尾に並び、十時になるとやっとお守りの授与が開始された。
自分の前に既にたくさんの人が並んでいたので手に入れられるか不安だったが、早くに家を出た甲斐あり、無事に芹沢さん指定のお守りを授与していただけた。
頼まれた物を手にできてホッと一息吐く。これで用件は済んだ、あとは帰宅するだけである。
早く帰って少し温まりたい。晴れているとはいえ、元日の寒空の下、二時間立ちん坊だった私は、身体が芯から冷えていた。



一〇三〇(ヒトマルサンマル)。
小さな神社は、初詣客と限定お守りを手に入れようとするアニメファンとで、とんでもない混みようだ。帰るにも参道がひしめき合っているので、なかなかスムーズには進めない。
とにかく人の流れに逆らわないよう、私は人波に揉まれながら参道を戻っていた。歩みはまさに牛歩だった。

突然、右足が柔らかい感触を踏んだ。

「あっ……」

誰かの足を踏んでしまったのだ。まずい、と反射的に下を見れば、ピカピカの黒い革靴を私の薄汚れたブーツが踏んでいる。

「わっ、すみません!」
「いいえ、大丈夫で……」

慌てて謝罪すると、返ってきたのは低く落ち着いた男性の声だ。
――この声、どこかで聞いたことがある?

視線を上へと移動させる。
視界に入ったのは、見覚えのある厳つい顔。私はひゅっと息を呑んだ。

「……っっ!! さっ、坂木二佐!!」
「……君は、龍也の」

坂木二佐の鋭い瞳が瞠られた。
白髪交じりのオールバック、コートを着ていてもわかる鍛え上げられた身体。坂木二佐の姿は、あの春の日に病室で会った時と寸分も違わない。
ニット帽を被っていた私は咄嗟に敬礼しようと肘をあげ、だがスッとその肘を押さえられる。坂木二佐は顔色を一つも変えないまま、低い声を出した。

「みょうじ学生、君は冬季休暇中だろう。私も今日は休養日だ。ここは混雑しているし、敬礼はしなくて良い」
「はっ……はい……」

ボボボボと顔に熱が籠もってゆく。坂木さんのお父様だ。なぜこんなところに。
私はどんな顔をして良いかわからず、ただ俯くことしかできずにいる。

ここが入間だということを、今更ながら思い出した。

『今は入間基地にいる』

病室で、坂木さんにそう紹介されていたのに。
その後にあったアレコレが濃すぎて、私の頭からその情報はすっかり吹っ飛んでしまっていたのだった。




   

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