第十一章 鬼のいない夏





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* * *


翌日の夕方、四学年二人が研修から帰ってきた。
自習室へ戻ってきた部屋長は、荷物を置くなり固い声を出す。

「なまえ。曽山学生の件、聞いたよ」
「部屋長代理を任せていただいたのに、この部屋から脱柵者を出してしまい申し訳ありません!」

私は姿勢を正し、がばりと頭を下げた。
だが四学年二人はそっと私の背中に手を添え、頭を起こしてくれる。

「なまえのせいじゃない。少なくとも、私達だって真奈美ちゃんが悩んでいることに気づけなかった」
「責任というなら部屋長の私にある。彼女の悩みに気づいてあげられないまま、行動を起こさせてしまったんだから」

二人の声は気遣わしげで、そして元気がない。研修明けだから当然なのだが、二人とも顔に疲れが滲み出ていた。

「教官室に行ってくる。曽山学生のこと、きちんと話してこないといけないから」
「あ、あの……曽山学生は今、服務室で謹慎中です」
「うん。教官室の後に行ってくるよ」

部屋長はぽんと私の肩を一つ叩き、部屋を出て行った。



消灯時間後の寝室はシンと静まりかえっていた。
以前は消灯後であっても、ひそひそとお喋りが聞こえることもままあった。だが真奈美ちゃんが脱柵してから部屋のみんなも元気がなく、消灯後のお喋りもほとんどなくなってしまった。
彼女がいないことに慣れるまでは、もう少し時間がかかるのだろう。

私は眠れずに、一人ベッドで何度も寝返りを打っていた。

『彼に出会わなければ良かったとは思えないんです』
『逆に……防大に入らなければ良かったと、思ってしまうんです』

真奈美ちゃんの声が、頭の中でずっとこだましている。

布団の中で、そっと自分の胸に手を当てた。
胸の中だけなら誰に聞かれることもない。咎められることもない。
私も真奈美ちゃんのように、自分に正直に考えてみたらいいのだ。

坂木さんに出会わなければ良かったとは……思えない。それは絶対だ。
もちろん、坂木さんに出会って、坂木さんを好きになって、楽しいことだけじゃなかった。
髪の毛を坊主にしたこともあったし、気持ちを公にできないことに歯を食いしばったこともあった。好きだからこそ、別れてくれと言われた時の絶望は忘れられない。
それでも、坂木さんに出会わなければ良かったなんて、そんなことはどうしても思えない。嘘でも思えない。

じゃあ、防大に入らなければ良かっただろうか。
真奈美ちゃんのように、坂木さんを失うくらいなら、自衛官になることなどどうでも良いと思えるだろうか。自衛官にならずに、看護師や、保育士や、他の民間企業で働けるだろうか。
――それもだめだ。できない。

できない。したくないのだ。

私は震災がきっかけで自衛官を志した。国民を守る仕事に就きたいと思ったのだ。母親に反対されても、その志は変わらなかった。
防大で辛い思いもしたし、悔しい思いもした。いくつもの夜を泣いて過ごした。辞めていった同期ももちろんいる。
それでも私は今、防大にいる。
そして、幹部自衛官となるために防大で学んでいることを誇りに思っている。

自衛官であるが故に坂木さんと交際できないとしてもだ。それでも、私は自衛官を捨てられない。少なくとも今は、自衛官を諦められない。
坂木さんに出会わなければ良かったなんて、嘘でも思えないのと同じだ。
防大に入らなければ良かったなんて、自衛官にはならなくても良いなんて、そんなこと嘘でも思えない。

ああ、そうか。私は……。

「自衛官になりたいんだ」

ベッドの中で唇だけを動かし、無声音で呟く。
口にしたら、すとんと腑に落ちた。

私は坂木さんが好きだ。それは変わっていない。
そして自衛官になりたい。それも変わっていない。

自分の気持ちがはっきりしたら、胸の靄が晴れてくる。

幹部自衛官を志す一人の防大生が、教官に恋愛感情を持っている。文字にしたらたったそれだけのことだ。事実はそれ以上でもそれ以下でもない。目を背けていた事実は、見つめてみれば随分とちっぽけだ。
感情をどうにか消化しようと、もしくは消滅させようとするから苦しいのだ。感情は感情のままそこに置いておけばいい。無理に成就させることも、捨てることもない。
自分の感情の存在を認め、そばに置いたまま、私は防大生として励む。
この防大で幹部自衛官を目指し、やるべきことをやるだけだ。

なんだ、簡単なことじゃないか。
ベッドの中で急に視界が開ける。

坂木さんへの想いは、ただ胸の中に置いておこう。いつかなくなるかもしれないし、なくならないかもしれない。どちらでも良い。今私が坂木さんを好きなのは事実なのだから。
交際してもしなくても、それは変わらないのだ。

今まで全然眠くなかったのに、瞼を閉じると急に眠気が襲ってくる。
心の重石が取れて、今日は久々によく眠れる気がした。



曽山学生の退校日は、快晴だった。
脱柵した者は学友に見送られることもなく、そっと退校してゆくことも多い。だが部屋長の嘆願と中指の計らいで、同部屋のメンバーは彼女の退校に立ち会うことができた。

風の温度がわずかに下がり始めた、八月の終わり。
私服の曽山学生は、本部庁舎前で深々と頭を下げる。彼女は今日、防大の正門をくぐると、ただの曽山真奈美となるのだ。

私達は、正門をくぐった彼女がタクシーで防大を去る様を最後まで見届けた。
同じ一学年の徳田学生は、号泣していた。



そして私は、防大に残った。


* * *


「おい、坂木。これ知ってたか?」
「はい?」

九月下旬。走水も随分と涼しくなり、夏の茹だるような暑さはもういない。
過ごしやすい気温となった学生舎の掲示板に、A4の小ぶりなポスターが貼られている。千葉は左手の中指と人差し指を鍵の形にまげて、コンとそのポスターを小突いた。

『第二回寺子屋開催! 九月二十六日日曜、十三時〜十七時、一階集会室にて。
三学年有志数名が、二学年・一学年の勉強を見ます! 申し送り他、各種テスト対策有。途中入退室自由。
スパルタですが結果にコミット! 単位を落としたくない者はぜひ!』

「ぜひ!」のエクスクラメーションマークの横には、下手な絵で力こぶが描かれている。なんだこりゃ。いや、絵心については俺も人のことを言えた義理じゃないのだが。

寺子屋とは、試験期間になると時々開かれる自主的な勉強会のことだ。

防大は先週から試験期間に入り、校友会も休みとなっている。一学年は防大に入校して初めての定期試験だ。
同部屋の先輩達から、申し送り(過去問のこと)や昨年のノートのコピーなど、試験対策を伝授されている者も少なくない。それでも初めての定期試験となると、勝手がわからずに皆不安なものだ。特に一学年にとって、寺子屋は情報交換をしたり、勉強を教え合ったりできる良い機会なのだ。もちろん、二学年以降になっても寺子屋はしばしば開催される。
しかし、同期同士での寺子屋はよく見るが、上級生が下級生の勉強を見るための寺子屋というのは珍しい。
下級生はもちろん緊張するだろうが、本気で単位を落としかねない奴らにとっては救世主のような企画だろう。その単位を取った者から直接教えてもらえるのだから。

「どこ見てんだよ、その下手くそな力こぶじゃねえよ。ココだよ、ココ」

千葉はポスターの端を再び小突く。指の先には、小さな、だが美しい文字が並んでいた。

『主催:一一三小隊 みょうじなまえ』

「試験前に自分のことだけじゃなくて後輩の面倒も見るなんて、殊勝なこった。
これ第二回ってなってるけど、この間第一回をやってるところを偶然通りがかって見たんだがな、本当にスパルタだったぞ。どこぞの鬼みてえにすごい剣幕でな、一学年なんて縮み上がってた。みょうじの他にも片野とか、他にも三学年数名集まっていたぞ。
まあ厳しくても、下級生にとっちゃ助かるだろうよ。単位落としたらシャレにならないからな」

千葉は改めて力こぶのイラストに目をやると、白い歯を出す。ホントにへたくそだな、誰が描いたんだと笑って。

「みょうじ、最近調子出てきたみたいじゃないか。前期のぼーっとした姿とは比べ物にならん。授業にも集中しているようだしな。
あいつも、来年は最高学年という自覚が湧いたか」

嬉しそうにフンと鼻を鳴らし、千葉は再び廊下を歩きだす。俺は黙ってその後ろに従った。

こういう時、千葉は教官に向いているのではないか、とつくづく思う。
千葉はいつだって俺よりも多く、そして深く学生を見ている。そして千葉は、学生の成長を心から喜んでいる。……多分。

「みょうじも吹っ切れたのかもな、色々と」

思わせぶりな顔が、ちらりとこちらを振り返る。
俺が何も答えないでいると、いけ好かない野郎はクックッと笑って再び前を向いた。

試験期間中の随分と静かな廊下には、俺と千葉の足音だけが響いていた。




   

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