第十一章 鬼のいない夏
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* * *
八月下旬、同部屋の四年生二人が研修のために不在となる日があった。
研修日程は二泊三日。その間、私達の部屋は三学年以下のみとなる。
中期の部屋メンバーは、四学年が二名、二学年二名、一学年二名、そして三学年は私一人だけの計七名。四学年の二名が同時に不在となると、必然的に私が部屋で最年長だ。
「部屋長代理はなまえに任せるから。お願いね」
大きな鞄を背負った部屋長から、ポンと肩を叩かれる。
四学年二名は、大型バスに乗って研修先へと旅立って行った。
異変を認識したのは、とっくに消灯時間を過ぎた深夜のこと。
四学年が旅立っていったその夜、とうに日付も変わった時刻。熟睡していた私を揺り起こす者がいた。
「みょうじさん……!」
小声が耳にそっと届く。身体が揺すられていると把握した瞬間、目が覚め飛び起きた。
まさか寝坊した!? と、一瞬心臓がぎゅっと縮こまる。だが寝室内は真っ暗で、まだ夜だとすぐに認識できた。スマホを確認すると〇二〇一(マルニーマルイチ)だ。
「すみません起こして……でも、あの……ま、真奈美がいないんです……」
私の身体を揺すっていたのは、一学年部屋っ子のうちの一人、徳田美佳だった。
真奈美というのはもう一人の一学年、曽山真奈美だ。
――いない?
寝起きの頭がざーっと冷えていく。
「最初はトイレかと思ったんですけど、二十分近く戻ってこなくて。心配して女子トイレを見に行ってもいなくて……あの、これってもしかして……」
暗い中でも、美佳ちゃんの目に涙が溜まっているのがわかった。
彼女の予想は恐らく当たっている。
「……脱柵かもしれない」
言葉を口にした途端、それが現実味を帯びてくる。美佳ちゃんの目尻の涙が一層厚くなった。
脱柵。
……決してあってはいけないことだが、深夜に急に姿が見えなくなるということは、その可能性が限りなく高い。
額に手をやり、頭を抱えた。眉間に勝手に皺が寄る。
防大三年目だが、自分の部屋でこんなことが起こったのは初めてだった。
考えろ。今は自分が部屋長だ。
こういう時、どうしたら良い? ……坂木さんなら、どうする?
「……美佳ちゃん。私はもう一度トイレと、あと東の調理室、洗濯室、乾燥室を見に行く。美佳ちゃんは自習室と、西側の調理室、洗濯室、乾燥室を見てきて。あと一応男子用のシャワー室と和室も。確認が終わったら中央ホールで集合」
「わかりました……!」
もう目尻から溢れそうになっていた美佳ちゃんの涙は、彼女が頷くとぼろりとこぼれ、頬を伝う。美佳ちゃんはぐいと涙を拭い、寝室を飛び出した。
私も東側へと走り、階に一つしかない女子トイレを確認する。やはり誰もおらず、次に調理室、洗濯室、乾燥室と順に覗いた。
物音も、人の気配もない。どくどくと心臓が高速で鳴っている。
――美佳ちゃんが布団の中で二十分も待っていたということは、きっともう手遅れだろう。
二十分あればかなり遠くまで走れる。まして防大生の足であれば。
「ダメですみょうじさん、いません!」
目を真っ赤にした美佳ちゃんは、中央ホールへバタバタと駆けてきた。
この一一中隊ではなかったが、前期に一四中隊で一学年の脱柵があった。指導もあったため、脱柵とはどういうものか、一学年でももうわかっている。美佳ちゃんもわかっている。
私はぐっと奥歯を噛みしめた。
「徳田学生、これより中指に報告する。すぐに部屋に戻って皆を起こしなさい」
「は……はい……!」
誘導灯の緑色だけが光る暗い廊下で、美佳ちゃんは踵を返し、再びバタバタと廊下を駆けて行く。
ごくりと唾を飲んだ。
これは事故だ。大きな大きな事故だ。
これから教官室へ行かねばならない。中隊全員が叩き起こされ臨時点呼、その後捜索になるだろう。
私が呑気に寝ている間に、とんでもない事故を起こしてしまった。すぐに気づいていれば。すぐに止められていれば。
就寝前の曽山学生の様子からも、全く異変を感じることができなかった。私は自分のことにばかり一生懸命で、部屋の下級生の変化を見逃していたのだ。
部屋の長(おさ)としての責任を預かったというのに、自分の部屋から脱柵者を出してしまうだなんて。
一一三小隊、曽山真奈美。
辛く厳しい一学年の前期を乗り越えたにもかかわらず、中期が始まって一週間経たないうちに脱柵。
深夜二時半より、一一中隊全員で捜索活動が開始。
曽山学生はテニスコート近くの柵をよじ登り構外へ出たらしい。だが路上に出たところを教官に発見された。
深夜三時、曽山学生は確保された。
脱柵、つまり、脱走である。服務の宣誓をした後の脱柵は、職務放棄となり懲戒の対象となる。
脱柵するのは男子学生が多い。理由は二つ。単純に防大の男女比率がおおよそ九対一ということが一つ。
もう一つは、一般的に女学のほうが現実的だということがある。退校するにも脱柵というルートを選ばないことが多いのだ。だが時には今回のように、女学でも脱柵が発生することもある。
確保後、曽山学生が部屋に戻ってくることはなかった。服務室という、いわゆる反省部屋に入れられるのである。
脱柵騒ぎのあった夜が明けると、私は朝のうちに中隊全部屋を回り、自分の部屋から脱柵者を出したことを詫びて回った。
* * *
校友会終了後、ようやく出来た空き時間に、私は服務室を訪れた。
ノックに応じてドアを開けた真奈美ちゃんは、私を見るなり顔を引き攣らせる。
「真奈美ちゃん、少しは寝られた?」
努めて穏やかに言ったつもりだが、内心緊張していた。服務室なんて初めて入るのだ。いつもいる自習室と同じ白い壁が、薄曇ったように見える。
古びたデスクチェアに座って俯いている真奈美ちゃんを覗き込むと、バツが悪そうに視線を逸らされてしまった。顔色が悪い。当たり前だが。
「寝られなかったのは一一中隊の皆さんのほうじゃないですか……私のせいで……」
そう言って真奈美ちゃんは涙ぐみ、更に下を向いてしまった。声にも涙が滲んでいる。
突発的に脱柵したことを悔いているのだろう。反省も十分している様子なので、これ以上咎めることはしない。
昨日散々指導官達から詰められたはずだし、そもそも私がここに来たのは彼女を非難するためじゃないのだ。
「ね、お腹減ってない? 食堂にも居づらくて長時間はいられないだろうし、あんまり食べてないんじゃないかと思って。これ買ってきた」
PXのビニール袋を掲げながら、壁に立て掛けてあったパイプ椅子を勝手に引き寄せる。腰掛けると音を立てて軋んだ。
戸惑う彼女にビニール袋の中身を見せた。手当たり次第に買ったパンやおにぎり、お菓子、ジュースにお茶。
「でも……」
涙目が当惑で泳いでいる。
私は勝手にメロンパンを一つ取って、パンと勢いよく袋を開けた。そのままずいっと彼女の前に差し出す。
「私、真奈美ちゃんと話したくて来たの。腹割って話すつもりで来たの。空腹のままだと集中して話もできないから」
ね? とメロンパンを袋ごと押しつけた。彼女が躊躇いながらもメロンパンを手にすると、自分はクリームパンの袋を開ける。
明日になれば四学年が帰ってくる。四学年達が帰ってくるまでは、私が部屋長代理だ。最後まで責を果たさなければならない。それに、彼女の悩みに全く気がつかなかった私にも、十分な非があるのだ。
いただきます、と蚊の鳴くような声が聞こえて、真奈美ちゃんはもそもそとメロンパンを食べ始めた。それを見て、私もクリームパンを齧る。
彼女の白い頬を、つうっと涙が伝った。ぐすぐすと鼻水も垂れている。きっとメロンパンはしょっぱいだろう。
色がなく、人気(ひとけ)もない服務室。壁の色も床の色も普段いる自習室と変わらないはずなのに、随分と冷たい印象を受ける。
同部屋がいない静かな部屋というのは、こういうものなのだろう。
メロンパンの最後の一切れが、ごっくんと飲み込まれた。
真奈美ちゃんが一息吐いたところで、私は立ち上がった。本題を切り出さねばいけない。
「真奈美ちゃん、脱柵するほど辛かったのに、気づかなくてごめんなさい」
彼女の真正面で、両手を揃えて頭を下げる。真奈美ちゃんは慌てて自分も椅子から立ち上がった。
「止めてくださいみょうじさん! 私が、私こそ……! 脱柵なんかして、皆さんにご迷惑掛けて……本当に申し訳ありません!!」
真奈美ちゃんの目に引っ込んでいた涙が再び溜まる。
彼女があたふたと私の頭を起こそうとするので、私は折っていた腰を元に戻し、再びパイプ椅子に座った。
「……あのね、どうして脱柵だったのかなって……。夜間の脱柵だったから、きっと衝動的にしちゃったんだと思うんだけど。何か、直接的なきっかけがあった?」
涙目の彼女は俯いたまましばらく黙り込んでいたが、やがて震える唇をほんの少し開いた。
「……か……」
「うん?」
「か……彼氏に……会いに行こうと、したんです……」
口に出したら箍が外れてしまったのだろう。涙がぶわっと湧いて、目尻に収まりきれなくなったのがわかった。
頬を濡らした彼女は目を真っ赤にして、鼻も真っ赤にして、嗚咽混じりで言った。
「夏休み、茨城の実家に帰ったんです。四か月ぶりに地元の彼氏に会って……でもその時、もう彼の心が私から離れつつあることに気づいちゃいました。一般大の、他の女の子からスマホにメッセージが来てることにも、気づいちゃいました。
夏休み明けも本当は防大に帰って来たくなかったんです。また離れたら、完全に彼の気持ちが私から離れちゃうって……そう思って……」
真奈美ちゃんは、えぐっ、えぐっ、と子供のようにしゃくり上げる。
きっと深夜に教官室で聴取された時には、本当のことは言えなかったのだろう。
「それでも週末まで待てば外出できるって……茨城ならなんとか、トンボ返りになっちゃうけど日帰りで行けるって、そう思ってました。
でも昨日の深夜に彼からメッセージが来て……きょ、距離を……少し距離を置きたいって……それで私、今帰らなかったら本当に終わっちゃう、って……」
大きくしゃくり上げる彼女の背中をさすった。
厳しい前期に耐え抜いた彼女の身体は、もう防大生の身体になりつつある。背中は固かった。
男子のような筋肉の付き方はしないけれど、私達の身体は民間人の女の子と比べて、きっとずっと筋肉質だ。
私達は、ふわふわの柔らかい女の子ではいられないのだ。
「そっか。それで衝動的に布団を抜け出しちゃったのね」
背中をさすりながら言うと、真奈美ちゃんは泣きじゃくったままコクコクと首を縦に振った。
「……でもさ、真奈美ちゃん。防大生でいられなくなることについては何とも思わなかった?」
え、と、涙でぐしゃぐしゃの顔が上がる。私は窓際に置いてあったボックスティッシュを取って、彼女に差し出した。
廊下のざわめきが聞こえる。バタバタという駆け足の音。怒鳴るような挨拶の声。
真奈美ちゃんは、昨日まではこの喧噪の一部だったのだ。
腹を割って話そうと言ったのは私だ。私が先に腹を割る。
「防大の女子の枠ってさ、すごく狭いじゃない。もう募集人数が男子とは全然違うから……。
きっと真奈美ちゃんも、一生懸命勉強してこの席を勝ち取ったんじゃないかなって。志があったから、勉強して受験して入校して、そして前期を耐え抜けたんじゃないかと思ったの」
真摯な気持ちで彼女を見つめた。
彼女も涙をぼろぼろと流しながら、それでも私をきちんと見る。
「もしね、真奈美ちゃんが……昨夜のことは一時の気の迷いでしてしまったことで、やっぱりこの席を捨てたくないって思うなら。
私からも教官に口添えする。部屋長達が帰ってきたら一緒に謝る。中隊の他の部屋も、一つ一つ一緒に謝って回ろう。
正直、どう思ってる?……本音が聞きたい」
いつの間にか、真奈美ちゃんの嗚咽は止まっていた。
赤く腫れた真剣な瞳が、一度だけわずかに揺れる。
「……みょうじさん……」
だが揺れた瞳はすぐに芯を捉え、しっかりと私を見据えた。
「正直に言います。
私もう……その席が、惜しいと思えなくなってしまったんです」
彼女は眉間に皺を寄せ、瞼を閉じた。
「自衛官に憧れて、一生懸命勉強しました。もともと頭が良いほうでもなかったから……本当に必死で勉強したんです。国民と国土を守りたいって、そう思って入校したんです。
でも今は……そう思えないんです」
一度瞼がゆっくりと開き、再び閉じる。
ぎゅっと寄る眉間が苦しそうで、絞り出す声が苦しそうで。私はただ彼女が苦しんでいるのを、パイプ椅子から眺めることしかできない。
「夏休みも、夏休みが明けてからも……そして今日一日も。何度も何度も自分の感情と向き合いました。でも何度考えても出る答えが変わらないんです。
私、彼をどうしても失いたくない。彼に出会わなければ良かったとは思えないんです。……逆に、防大に入らなければ良かったと思ってしまうんです。
今の私は……彼を失うくらいなら、自衛官であることなんてどうでも良くなってしまっているんです」
水を頭から被ったような、そんな衝撃が私の身体に走った。
『防大に入らなければ良かった』
その言葉を聞いた時、どくんと心臓が大きく跳ねた。
「……そっか」
何度も考えてこの結論に至ったのなら、ここで防大を辞めても、きっと彼女に悔いは残らない。
何よりも、もう彼女には自衛官幹部となる資格はないのだろう。国民と国土を守るという大義に重きを置けないのであれば。
「防大辞めて……これから、どうするつもり?」
「……わかりません。まだ考えられてないですが……とにかく一度地元に帰って、生活の基盤を築きなおそうと思います」
「うん……そうだね……」
会話が途切れると、服務室を虚無が満たす。
防大の日常たる喧噪が、ドアの向こうで流れていた。