第十一章 鬼のいない夏





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防大の夏休みは短い。
約三週間の夏季休暇は、八月の中旬に終了する。

だらけていられたのは昨日までだ。
今日からはまた、怒号の中での生活が始まる。

「おざすっ!!」
「ざすっ!!」

朝の学生舎が白い制服と大声で満ちてゆく。
休み明けの一日は、やっぱり少し違うものだ。気温も湿度も昨日までと大して変わっていないのに、空気が新鮮な気がする。
昨日まで下宿でダラダラと過ごしていた私も、学生舎に帰ってくれば嫌でも背筋が伸びる。こういうのをパブロフの犬と言うのだろう。



三週間の夏休み、私は一度も実家へ帰らなかった。
バドミントン部の合宿もあったが、それだけが理由じゃない。

実家に帰れば、一人ではいられないからだ。
母親も仕事以外は家にいるし、私が地元に帰ってきていると知れば、麻耶から会おうと誘いが来るはずだ。麻耶の他にも、声を掛けてくれる地元の友人に心当たりがある。誘いというのは断るのにも理由と労力がいるのだ。
寮生活ではどうやっても一人にはなれない。この夏休み、私はとにかく一人になりたかったのだ。そして防大の事は一旦忘れたかった。
もとい、防大のことを完全に忘れることはどうしたってできないのだが、それでも現実逃避がしたかったのだ。

防大生である自分から逃げたかった。
教官である坂木さんから逃げたかった。

本気で逃げ出す勇気なんてないくせに、ただ事実から目を背けているだけなのは、自分でよくわかっている。
ゴールデンウィーク明けから、私はずっと根暗なまま変わっていない。

三週間の休みのうち五日間はバドミントン部の合宿で、それ以外は一人で登山ばかりしていた。関東の夏は気温も湿度も高く、とても登山に適した時期とは言えないが、山に登れば標高も高いし木陰もあっていくらか涼しい。
私はゴールデンウィークに登ったH山をはじめ、標高の高い山ばかりを選んで登った。横須賀からでは日帰りが難しい地の山にも登った。そういう時はビジネスホテルなんかも使ったりもしていた。
大自然に囲まれ、あまつさえホテルの広いベッドを一人で使うなど、随分と贅沢な現実逃避である。

合宿以外は登山ばかりしていたせいで、夏休み明けでも身体はなまっていない。
だが、ずっと心に靄がかかったような夏休みを、楽しかったと思えるはずもなかった。



休み明け一日目の夕方。
校友会終了後にPXでジュースを物色していた時、偶然乙女ちゃんと鉢合わせた。

久々の下対番は少し焼けたようだ。もともとは色白の肌が、少し浅黒くなっている。空はあまり焼けるような実習もないのだが、夏休みを楽しんだのだろう。
PXの近くには談話スペースがある。私は乙女ちゃんにジュースを奢り、自分もオレンジジュースを一缶買って、談話スペースの古ぼけたソファに二人並んで腰を下ろした。

「へえ、乙女ちゃんキャンプに行ったんだ! 誰と? あ……近藤学生、とか?」

最後のほうだけ声を潜め、片手で口元を隠しながら耳打ちする。途端に乙女ちゃんは顔を真っ赤にして眉をつり上げた。

「ちが……! 違いませんけど! 近藤学生とはそういうんじゃないです、みょうじさんまで誤解しないで下さい!」

小声で怒鳴るという奇妙な技を披露される。
乙女ちゃんと近藤学生は何かと仲の良さそうだったので、付き合っているのかなあ、と単純な疑問だったのだが。反応を見るに、どうやら交際しているわけではなさそうだ。

「え、違わないの? 近藤学生とキャンプ行ったの?」
「行きましたけど近藤学生だけじゃありません! 他にもたくさん、同学年も、上級生の方も! 卒業生の……幹候の候補生の方もたくさんいて! 岩崎さんとか大久保さんとか、女学も少ないですけど何人か……あの、兄が主催だったので」

「兄」と聞いた瞬間、身体にビッと緊張が走った。
――そっか。坂木さん、夏休みにみんなを誘ってキャンプに行ったのか。

当初乙女ちゃんは、坂木さんが兄であることを私にも隠していた。だが私が坂木さんから兄妹であることを教えてもらってからは、乙女ちゃんもその事実を私には隠さなくなっている。

私は、つきんと痛む胸を無視し、笑顔を取り繕った。

「そうなんだ、楽しかった?」
「はい! 一泊二日で群馬に行ったんですけど、ボートに乗ったり魚釣りしたり……すごくリフレッシュできました」
「そっかー」

キャンプだなんて、坂木さんらしい。
元々、部屋っ子を連れてキャンプをしたいとか言っていたような人だ。キャンプは彼の十八番なのだろう。K山での釣りや、魚を焼く様子も手慣れたものだった。

乙女ちゃんや一緒に行った女学達は、坂木さんと一泊二日一緒にいた、ということだろう。
正直に言えば、うらやましい。すごくすごくうらやましい。
私だって坂木さんと箱根で一泊したことはあるけれど……止めよう、できれば思い出したくない。
もちろん、今の状態で自分にキャンプの誘いなんてくるはずもない。そんなことはわかっている。
仕方のないことと割り切るしかないのだ。



「……あのさ」
「はい?」

話題が乙女ちゃんの兄になったところで、私は気になっていたことを切り出してみた。

「坂木訓練長……あの、眼鏡掛けたんだね? あれってもしかして……」

当たり前のことなのだが、私は夏休み中一度も坂木さんに会っていない。夏休みを明けた今日、初めて坂木さんが眼鏡を掛けているのを見たのだ。
乙女ちゃんなら眼鏡の真相を知っているだろうと踏んで尋ねた。予想通り、乙女ちゃんはポニーテールを揺らしてこくりと頷く。

「あ、はい……みょうじさん、兄の目のことご存じなんですよね? 多分みょうじさんの予想通りだと思います。
あれは眼球保護用の眼鏡です。手術が無事に終わったので」

『目がダメんなっちまってな……パイロットも難しいかもしれない』

卒業式前のあの日、病室で坂木さんに言われた言葉が脳内に蘇る。

「前期終了日に手術したんです。付き添いは千葉教官にお願いしたそうで」
「……そうなんだ……」

視力が回復しても、目の中に人工レンズが入っている状態であればパイロットは難しいだろう。
航空自衛隊では、近年パイロットのレーシック手術も許可されるようになった。だが頻繁な定期検査が必要な上、なかなか厳しい条件らしい。それに許可されている手術の種類も少ないし、坂木さんの手術がパイロットとして許可されているものなのかもわからない。

それでも、彼の視力が回復するのならば。
現場に復帰することを望んでいる彼にとって、視力の回復は一番の喜びに違いないだろう。

ほとんど空になった缶を煽ると、ぽたりと舌にジュースが一滴落ちる。
オレンジジュースがほんの少し苦く感じた。




   

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