第十章 鬼と当惑





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* * *



「さーかーきーくーん」

来た。
はあとわかるように吐いたため息は聞こえているだろうが、この人は俺のため息を気にしたことなんてありゃしねえ。
六月間近。日の入りが遅くなったが、十八時半を過ぎると空はだんだんと暗橙を帯び始める。
ぬっと俺に掛かった長い影の主は、俺の胸の内とは真反対の軽快な声色で言った。

「飲み行くから付き合えよ」
「……ですから、怪我が完治するまで飲みません」
「そうか?今日は飲みたい気分だろうと思って誘ってやったんだが」

思わず、瞠目して見上げてしまった。
俺と目が合うと千葉はにやりと口角を上げる。こいつは本当に、人が悪いというかタチが悪いというか。

「いつもみたいにウーロン茶飲めばいいだろ。みょうじにちょっかい出した四宮に対する鬱憤を、この俺様が聞いてやるって言ってんだ」
「なっ……!」

反射的に声が出てしまい、出してからしまったと口を押さえる。
時既に遅し。千葉は、にたあと笑った唇の隙間から白い歯を見せた。

千葉に俺となまえのことがバレている……?
いや実際には、交際はしていないから疚しい事実はない。だが疚しい気持ちならある。
何を言っても、どう言い繕っても、口を開けば自滅しそうで嫌だった。千葉は唇を真一文字に結んでいる俺の肩をポンと叩き、松葉杖の半歩先を歩き始めた。



馬堀海岸駅のほうへ少し歩くと、居酒屋が数軒立ち並ぶ。
学生の頃は、休養日によく同期達と飲みに来たもんだ。今はもっぱら千葉に連れ回されるばかりだが。
土日であれば学生と鉢合わせる可能性も高いが、金曜日の今日はそんな心配も要らない。

千葉が暖簾をくぐったのは、横須賀でこの道三十年という老舗の居酒屋だ。
俺が防大一年だった時に、この店は先代から息子へと代替わりをしている。その際大規模なリノベーションをしており、古めかしかった店内は小綺麗で若者も入りやすい雰囲気へと変貌した。だが変わったのは店内だけで、代替わりをしても老舗の味は落ちていないともっぱらの評判である。
千葉はこの店が気に入っているようで、学生の時も何度も連れられてきていた。

店内は混んでいて、座敷もテーブル席もほぼ満席だった。千葉はカウンターに我が物顔で腰掛け、俺もそれに従って隣へ座る。
いつも通りのことだが、千葉は飲まないと言う俺に一切気を遣わずに中ジョッキを注文した。
どうせビールだけじゃ終わらない。しかも今日は金曜日、明日は千葉も俺も非番だ。この後焼酎日本酒と続くのだろう。

「アジのフライとー、牛すじ煮込みとー、甘エビの唐揚げとー、本マグロカマ焼きとー」

揚げ物多めな注文内容に、まったく元気だなと胸の内だけで独り言ちた。千葉は俺より三つ年上だが、寝たきりが続いていた今の俺よりもよっぽど胃は強いだろう。それにこいつは元々大食漢だ。
千葉がしこたま注文した後に、「好きなもん頼めよ」とメニューを寄越される。
正直、あまり食欲はなかった。誘われずあのまま下宿に帰っていたら、何も食わずに寝ていたかもしれない。
そういう意味では、千葉も気を遣ってくれているのだろうか。
俺は今の食欲でも食えそうなアジのなめろうやタコの刺身なんかを適当に注文した。



「お前、四宮を個人的にいじめるなよ。まあいじめたくもなる気持ちはわからないでもないが」

ジョッキを掲げてぐびぐびと飲む千葉は、既に出来上がっている。
こいつは酒を飲むのが好きなくせに、大して強いわけでもない。すぐに顔を赤くするし声もでかくなる。
一方俺は、大して好きでもないウーロン茶を飲んでいた。口がやたらと渇くのだ。
千葉はなまえと俺の仲に勘付いている。
自分の発言が地雷を踏まないかとひやひやしている俺は、緊張で乾く口を潤すためだけにウーロン茶を飲んでいた。

「そんなことしませんよ。何故俺が個人的に四宮をいじめなきゃいけないんですか」

至って冷静に言ったつもりだった。発言は慎重に、細部まで気を払った。
千葉は何も答えずに、俺の目の前に置いてあったタコの刺身に箸を突き刺す。行儀悪くもそのまま口に放り込んだ。
随分と長いことタコを咀嚼しやっと飲み込んだ千葉は、俺よりもよほど冷静な声を出した。

「良いのか?俺が皆まで言って。
言ってやろうか、お前が四宮を個人的にいじめたくなる理由を」

――落ち着け。この食えない男をなんとか躱さなければならない。
疚しい事実は何もない。疚しい事実は、あの日全部箱根に置いてきたのだから。
なまえの防大生活に不利益があってはいけないのだ。

「……千葉さんが何を考えているのか知りませんが、俺とみょうじのことを疑っているのならば誤解です。変な勘ぐりは止めてください」
「誤解ね。みょうじもそう言っていたな、『誤解です、内恋ではありません』って」

身体が芯から冷えていくような感覚に襲われた。
居酒屋特有の騒がしさが絶え間なく俺達の間を通り過ぎ、だが今はそれに救われている。
サラリーマン達の笑い声にかき消されでもしなければ、鼓動がこの男に聞こえてしまいそうなのだ。

「なあ坂木、お前も廊下で聞いただろ。四宮がみょうじに恋愛感情を抱いているのは事実で、それを知ったみょうじがあんなに動揺したってのも事実だ。
誤解って、なんだろうな」
「知りません。俺には関係のないことですから」

口から出てしまってから、これでは頑なすぎて却って意地を張っているようじゃないかと後悔する。
千葉は俺の台詞に、ぶはっと噴き出した。

「お前ってやっぱりいごっそうだな」

くつくつと笑われ、だが俺に今言えることは何もない。喋ればボロが出る。
話題を変えてくれるのをただ待つのみだ。なかなか変わらないであろうことは容易に想像がつくのだが。

「質問を変える。お前はみょうじなまえと付き合っているのか?」
「付き合っていません。訓練課付の訓練長と防大生が交際するなんて、あり得ないでしょう」
「そうだろうな、お前はそう言うと思ったよ」

千葉はぐっとジョッキを煽り、ビールを最後の一滴まで飲み干した。立派な喉仏がいやに生々しく上下する。
ゴトンとジョッキをテーブルに置いた千葉からは、笑顔が消えていた。

「じゃあもう一つ質問をする。
お前は過去にみょうじなまえと付き合ったことがあるのか?」



すぐに否定するべきだった。

尋ねられた瞬間、ぐ、と答えに詰まった。
この人に嘘を吐くべきか否か逡巡してしまったのだ。



「……ありません」

数秒の逡巡の結果出てきた答えに、千葉は呆れ顔でカウンターに肘を付く。

「お前、本当に正直者だな。咄嗟に嘘吐いて演技するくらいのことはできるようになっておいたほうが良いぞ?」
「だから……!」

俺が声を荒げても千葉は全く意に介さず、今度はアジフライに箸を突き刺した。
黄金色の衣をまじまじと見て、いかにも美味そうにがぶりと食いつく。そしてアジフライを咀嚼しながらしみじみと言った。

「残念だよなあ、本当に。せっかく防大を卒業して晴れて交際したってのにな」

顔が勝手に引き攣った。
俺の引き攣った顔をしっかりと見た上で、千葉は尚も続ける。

「まあお前が職場復帰すること自体はめでたいがな。お前、訓練課に着任することを事前に教えていなかったんだろう。日夕点呼時のあの呆然とした顔を見ればわかる。
お前の着任ごとき、みょうじ一人に言ったところで情報漏れとはならねえよ……ま、みょうじにだけ事前に教えたらフェアじゃないもんな。
じゃあ、みょうじはわけもわからないうちに一方的に別れを告げられたってことか。可哀想に」
「だから!俺とみょうじは何でもないっつってるだろ!」

バン!とテーブルを右手の拳で思いっきり叩いてしまった。
居酒屋は、シンと静まりかえる。



ハッと我に返ると千葉が周囲の客に会釈で詫びていて、周囲のサラリーマン達は何事もなかったかのように各々の卓へと向き直っているところだった。店内はすぐにざわめきを取り戻す。
居たたまれない。俺は「すいません」と小声で俯き、叩いた衝撃で小鉢から飛び出した突き出しの枝豆を拾った。



全て図星だ。
だから、こんなにも神経を逆撫でされるのだ。



「親父さん、うるさくして悪いね。ボトル、神の河がキープしてあったと思うんだけど」

千葉が言うと、カウンターの奥から「あいよっ」と店主の声。
俯いている俺の前に、神の河のボトルと氷、グラスがごとりごとりと置かれる。

「作ってくれよ、坂木。ロック」
「……」

まるで労るような声色は癇に障ったが、汗を掻いているアイスペールを目の前にして、ほんの少しだけ冷静になれた。
こういうところが心底憎たらしい。俺はいつだって千葉の掌の上だ。



「安心しろ、別にお前らのことを……みょうじのことをどうこうしようなんて思わねーよ。
言いふらすつもりもねえし、もちろん評価に手心を加えるつもりも、必要以上に厳しくするつもりもない」

俺となまえに関係があったことはもう否定しようがなかった。
否定したって千葉は取り合わないだろう。

「ちょっと気をつけて見てりゃわかるさ。
ゴールデンウィークが明けてから、明らかにみょうじのパフォーマンスが落ちている。ミスがあっても、人に指摘されるより先に自分で気付いて直しているから表に出ていないだけだ。三学年なんて滅多なことでもないと指導されないしな。
授業中もぼーっとしてばかりらしいし、この間の自然科学実験の小テストなんて六十点落としてるらしいぞ」

え、と思わず目を剥いた。
一年の時から出来っこだったなまえが?あの成績優秀だったなまえが?
あいつは近藤ほどではないにしても、成績は上から数えて両手指の数で足りていた。そのなまえが、六十点を切る?

「まあ小テストでまずい成績取っておけば、定期試験に向けて本腰入れる切っ掛けにはなるだろ。さすがに今まで八十九十が当たり前だった奴が、六十点切って焦らないわけないからな」

訓練長の立ち位置では、普段の授業中のなまえの態度なんて知ることもできない。小テストの結果もだ。
千葉は、各科目担当の教授達や学生間でないと知り得ない情報を手に入れたのだ。恐らくなまえの様子から異変を読み取り情報収集したのだろう。
俺はなまえの異変を読み取ることすらできなかった。なまえから敢えて目を背けていたのもあるが、千葉が気づいたなまえの変化に俺は気がつかなかったのだ。

「それにしても心配だなあ?
付き合っていないんだったら、お前にはみょうじを縛る権利が何もないもんな。四宮みたいなバカばかりなら気付いて予防線を張れるかもしれないが、そういう場合ばかりじゃない。
学外で、あるいは学内で、みょうじが誰にどう言い寄られようが、絆されてどっかの馬の骨と付き合おうが、お前が口を出すことはできないわけだ。
お前が幹候に行くまで、あと何ヶ月だ?長いねえ」

飄々と言って、千葉は神の河をゴクリと勢いよく飲んだ。



だから、だからだ。
変な虫がつかないように、その一心で。
なまえに、自分の気持ちが間違いなく伝わるようにしたつもりだった。



病院で訓練課付の打診を受けた時、心の底から嬉しかった。一も二もなく頷いた。
やっと職場復帰ができる。自衛官としての務めを果たせる。そう思ったら肩から大きな荷が下りるようだった。
だが、次に頭を過ぎったのはなまえのことだ。

俺が訓練課付の教官となれば、防大生のなまえと交際するなんてあり得ない。
例え防大でなくたって一般的な常識に当てはめれば、いわゆる教師と生徒……教官と学生の恋愛なんて問題がある。防大生同士の内恋よりも、事態としてはもっと悪い。
それでも訓練長の職を蹴るという選択肢はなかった。

自衛官として働くことは俺の最大の望みだ。なまえとは、俺が訓練課付の任を解かれるまでは別れるしかない。
別れを告げたあの日、なまえは号泣していた。
胸が痛まなかったわけじゃない。思い返せば、俺はなまえを泣かせてばかりだ。

千葉の言うとおり、教官として着任することを先に伝えれば良かったのだろうか。
――それはない。人事について不用意に外に漏らさないという判断に後悔はなかった。どんな些細なことでも、情報の漏洩は自衛官として危険なことだと承知している。
じゃあ、幹候に入学する春まで待ってくれとでも言えば良かったのだろうか。
――それもできなかった。待ってくれなんて、そんな無責任な言葉でなまえを一年近くも縛るのかと思うと、言えなかった。
言えば、恐らくなまえは待ってくれるだろう。だがその言葉がなまえの足枷になるなら、それは俺の本意じゃない。

それでも、俺がなまえを想っていることだけは間違いなく伝わるように。
病室でも、箱根でも、そうしてきたつもりだった。



訓練課付の任を解かれるまで、あと十か月と少し。
任を解かれてから改めて交際を申し込めば、なまえは何と言うだろう。どんな顔をするだろう。
喜んでくれるかもしれない。
だがその保証はない。
俺が取ったのはそういう行動だ。



黙りこくる俺の隣で神の河を飲み続ける千葉だけが、涼しい顔をしていた。




   

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