第十章 鬼と当惑





03




そんなことを考えていたら、目が冴えるばかりで眠れなくなったというわけである。
少しは眠ったのだろうと思うが、何時に寝たのか記憶が定かでない。スマホの時計が〇二〇〇(マルニーマルマル)を回ったところまでは覚えている。
もうどうしようもないことでスマホを見るのは止めよう。寝不足はミスの誘因となる。ただでさえ最近意識散漫であることは自覚している。この間の小テストの結果も散々だったのだ。
防大を辞めるだなんて、全然ピンとこない話だ。非現実的な話は考えるだけ無駄だ。



「みょうじ、ちょっと」

ぽけっとしていた私に声を掛けてきたのは、同期の四宮君だ。
一学年の時は大隊が違ったが、二年からは同じ一大隊である。中隊は違うが同じ航空要員で、授業や訓練で一緒になることも多い。
彼に手招きされて廊下までついていくと、空き教室に入るよう促された。何かと思ったら彼は鞄からノートを取り出す。

「これありがとう。助かった」

差し出されたのは貸していた英語のノートだった。英語は高校時代から得意でそこそこ自信もある。求められれば人に貸すことも時折あった。

「あ、うん。教室で返してくれても良かったのに。またいつでも貸すよ」

じゃね、とドアへと向かおうとしたところに、ぐいっと手首を掴まれた。

「待って、みょうじ!」

急に強く掴まれたことで、くんっと身体がつっかかったように引っ張られる。

「え?何?」
「……あの……」

四宮君は、強引に手首を掴んだ割にはもじもじと俯くのみだ。
要員が同じといっても特に仲が良いというわけでもない。今まで個人的に話すようなこともあまりなかったし、彼が何を言わんとしているのか全然読めない。
私は突っ立ったまま、彼の口が開くのを待っていた。
十数秒待ったところで、彼は突然顔を上げ大声を出す。

「あの、俺、みょうじのこと好きなんだ!」
「……えっ!?」

あまりに突然の告白に、思わずぎょっと目を剥いた。

思いがけなさすぎる言葉で、一瞬意味が理解できなかった。半拍送れてやっと理解が追いつき、だが理解が追いついてもまだ混乱している。
四宮君が、私を好き?そんなこと、思ってもみなかった。今までそんなに喋ったこともないのに、好きになる要素がどこにあったのだろう?

「ずっと前からみょうじのこと好きだった!俺と付き合ってくれないか!?」
「えっ、えっ、ちょっと待って」

私は咄嗟に、自分の手首を掴んでいる四宮君の手を振りほどいた。
反射のような行動だったが、私が彼の手を払ったことに四宮君はわかりやすく傷ついた顔をする。
だが彼は怯まなかった。射るような視線にこちらが怖じ気づいてしまう。

四宮君のことをそんな風にみたことは一度も無かったし、そんな風に見られているとも全く思わなかった。
想定外の事態。こういう時、どうすれば良いんだろう。私はしどろもどろに言葉を紡いだ。

「あの、でも、私達防大生だから……内恋は禁止だし」
「黙っていればわからないよ、みんなそうやって交際しているだろ?それにきちんと線引きはする。校内でだらしない真似はしないって約束する」

彼は至って真剣だった。校内で恋心を打ち明けられているのが既に「だらしない真似」に該当するのではないか……?とは思ったものの、自分だって前科があるから強く言えない。
私だって防大生の坂木さんのことが好きだったし、今だって坂木訓練長のことが好きだ。防大生同士のくせに校内でキスしたことだってあるのだ。

「俺真剣なんだ、みょうじ」
「……待ってよ、そんなこと……」

この間振られたばかりの私は、失恋の痛みを嫌というほど知っている。まだ傷を負って日が浅い分、痛みの記憶は生々しい。

できるなら四宮君を傷つけたくなかった。
それでも、中途半端に期待を持たせることは却って傷を深くするということも経験則で理解していた。
期待を持たせてはいけない。はっきりと、端的に、明快に断らなければいけない。

「ごめんなさい、付き合えない。私他に好きな人がいるの」

言った瞬間、四宮君の顔が歪んだ。
歪んで、だが彼は食い下がった。

「みょうじ、その人と付き合ってるの?彼氏がいるってこと?」

――それは、違う。私と坂木さんは付き合っていない。私に彼氏はいない。
ほんの一瞬答えに窮した私を、四宮君は逃がさなかった。

「付き合ってないなら、みょうじは今フリーだよね?俺にもチャンスはあるよね?」

彼の腕が伸び、私の手首を再び掴んだ。痕がつくのではないかと思うくらい強く掴まれる。
曲がりなりにも私は自衛官としての訓練を積んでいる人間だ。自分の腕力に自信が無いわけではない。だがそれは相手が民間人であればの話である。
彼も同じ自衛官としての訓練を積んでいる人間だ。同じ訓練ならば、女性よりも男性のほうが優位に立てる。これは生物学からみた事実だ。



怖い。
カーテンのびっちり閉められた薄暗い教室で、胸に湧き上がってきたのは恐怖だった。

この手首を掴んでいるのが坂木さんならば、私は多分怖いなんて思わない。きっと喜びさえ感じるのだろう。だが腕の主が違うだけでこんなにも感情に違いが出るのだ。
勝手なものだ。
人の感情なんて、いつだって勝手だ。



「あの、離して……校友会行かないとだから」
「俺のこと真剣に考えてくれる?考えてくれるなら、離す」
「ちょっと痛い……!」

もう一度四宮君の腕を振りほどこうとした。だが今度は振りほどけない。
恐怖が嫌悪を呼び、嫌悪が鳥肌となる。
私は本気で彼の手を剥がそうとしているのに、びくともしないのだ。それどころか四宮君はじりじりと私との距離を詰めてくる。

どうしよう。どうしたらいい?
焦りと恐怖で、背中を一筋の汗が伝う。



その時だった。

ガラガラガラッ!!

「お前ら、何やってる?」

大きな音と共にドアが開き、薄暗い教室に廊下から光が差す。

私と四宮君が同時に振り返ると、開いたドアに逆光の人影が二つあった。
一つは見上げるほど長身の。
もう一つは小柄な。
小柄な人影は、私がよく知っているシルエットだった。

「……千葉教官……坂木訓練長」

乾いた声を出す四宮君の顔は強張っている。
ドアの前に立つ二人は、逆光のため表情がよくみえない。だが表情なんて見えなくとも、空気の不穏さはすぐにわかる。

「坂木、ドア閉めろ。他の学生に見せられるもんじゃない」

千葉教官に言われ、坂木さんは後ろ手でドアを閉めた。
廊下からの光が再び遮られ、だが坂木さんは電気のスイッチをつける。薄暗かった教室にパッパッと蛍光灯がつき、それだけで私の恐怖は随分と和らいだ。
四宮君は気まずそうに私の手首を離す。手首にはうっすらと痣が残っていた。



「四宮、何をやっていた?」

コツコツと近づいてくる千葉教官に、四宮君は慄いたようだった。及び腰で、ただ視線を泳がせている。四宮君にも、そして私にも逃げ場はない。

コツ、と靴音が止む。千葉教官は冷たい目で私達を見下ろした。
坂木さんは、ドアの前でじっと動かずに無表情だった。
無表情が一番怖い。いっそ鬼と呼ばれていたあの頃のように、わかりやすく怒りを表現してくれれば。そのほうがよっぽど救われる。
無表情の下は、軽蔑なのか、嫌悪なのか。それを知るのも怖い。沈殿した汚泥のような空気が身体に纏わりつく。

「答えられないか?では聞く相手を変えよう」

千葉教官の視線が、黙りこくっている四宮君から私へと移る。
千葉教官は敢えてそうしているのだろうが、鋭い視線に責められている気分だった。罪悪感が増幅されて身体中に響く。

「みょうじ、お前は何をやっていた?」
「……四宮学生に貸した英語のノートを返してもらっていました」

答えてから、取り繕ったその場凌ぎの回答をしてしまったことを後悔した。嘘は言っていないが真実の全てでもない。
私は一体なんのために取り繕ったのだろう。千葉教官も坂木さんも、この教室で何があったのかわかっているだろうに。
千葉教官の端正な唇から大きなため息が漏れた。

「内恋は禁止だぞ」
「誤解です!内恋ではありません!四宮学生と私は何でもありません!」

窘める台詞に食い掛かったのは、ほとんど反射だった。
だが噛みついた私に、千葉教官の視線が更にキッと鋭くなる。

「みょうじ。本当に何でもないかどうかなんて、どうでもいい」

「どうでもいい」の響きが、ずんと胸に突き刺さる。

指導されて当然だ。
当然の状況なのだ、これは。

「廊下におかしな声が聞こえたから、俺達が気付いた。他の学生に聞かれたらどう思われるのか、考えが至らなかったか?後輩達に示しがつかないとは考えなかったか?」

正論は痛い。坂木さんの前でこんな指導を受けていることがもっと痛い。
三学年にもなってこんな指導を受けていることは恥だ。居たたまれなくて、この場から消えてしまいたかった。

「……申し訳ありませんでした」
「も、申し訳ありませんでした」

私が頭を下げると、四宮君も続いて頭を下げる。
頭上の高いところから再びため息が聞こえた。呆れられたのだろう。

「四宮、ここがどこであるか、自分が何者なのかをもう一度よく考えろ。
もういい、行け」

顎をしゃくった千葉教官を尻目に、私達は会釈をして教室を出る。
ドアの前で立っていた坂木さんとすれ違う際、私は会釈にかこつけて顔を俯かせた。
坂木さんの表情は微動だにせず、ずっと無表情のままだった。




   

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