第十章 鬼と当惑





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五月下旬。梅雨入りはまだだが、ここ最近は天候がぐずつくことが多い。
一時間前はほんの小降りだった雨が、徐々に強くなってきた。
雨粒が大きくなり、バタバタと音が鳴り始める。いよいよ本降りだ。

小雨のうちに上下共レインウェアを身につけておいて正解だった。山の天気をなめたら命に関わる。自衛官が趣味の登山で遭難なんてシャレにならない。
私はレインジャケットのパーカーをしっかりとかぶり直した。口元にくるパーカーの紐をキュッと引いて頭部を守る。
登山ならば雨ガッパじゃ通用しない。雨天時は上下分かれたレインジャケットとレインパンツを着用するのが基本装備である。上も下も奮発して買ったゴアテックスだったが、正解だった。防水性、透湿性共に文句なし。
装備を怠ると安全性に懸念が生じる。この高性能レインウェアならば、雨での危険は最小限に抑えられるはずだ。
だが悪天候の登山が危険なことには変わりない。早いところ下山してしまおう。
視界に霧が滲み始めた。
きっと雨はこれからもっと強くなる。



私が登ったのは、K山ではない。
K山へは、行けなかった。坂木さんとの思い出がたくさん詰まったK山なんて、とてもとても行けなかった。
今私が下山しているのはH山である。神奈川県内でも一、二を争う標高の高さだ。
この山は、K山のような生半可なハイキングコースじゃない。獣道のような登山道だ。
登山客もほとんどいない。たまにすれ違う人がいても、家族連れやカップルなんかはほとんどおらず、本格的な登山ジャケットを着た玄人ばかりだった。



雨の中、一人黙々と山を下る。嫌ではなかった。
レインジャケットを叩く雨音が、パーカーの中で籠もった耳に反響する。そこへ自分の呼吸音も混じる。
顔も雨で濡れていた。睫毛の先に雨粒が付くと、視界に雫が垂れる。分厚い雨のカーテンに視界を遮られたが、それですら自然の洗礼のようで心地よい。

誰にも邪魔されない。ここには自然と私だけだ。
ちっぽけな人間では太刀打ちできない自然の中に、居させてもらっている感覚。



『お前が一人で登山するような根暗な奴だとは知らなかった。陽キャだと思い込んでたからな』
『根暗って!別に根暗ってわけじゃ』

いつだったかの会話がふと蘇る。
あれは、初めて坂木さんとK山で会った時のことだった。

根暗。あの時は笑って否定したが、もしかしたら私は根暗なのかもしれない。

今はとにかく一人でいたかった。ここ最近は人といることが苦痛で、時間さえあれば山へ逃げ込んでいる。
防大の中で同部屋達と過ごすのも苦痛だし、下宿で気の合う仲間達と過ごす気にもなれない。麻耶に連絡を取る気にもなれない。
箱根に行く前は、一人きりの下宿で寂しいとか誰かと一緒にいたいとか、そんなことを思いながら荷造りしていたはずなのに。私も大概手前勝手だ。

『お前『陽キャ』の『コミュ強』だろ?』

きっと本当は、陽キャでもコミュ強でもない。
防大にいれば、学生舎にいれば、ニコニコと笑顔を振りまいて、同期達とは明るく楽しく、同部屋には楽しい話題を提供し、部屋っ子達の面倒はしっかりと。
それは私の真の姿ではなかったのかもしれない。ただの処世術だったのかも知れない。
だって今の私はこんなに暗くて、いじけている。
今は明るく楽しいみょうじなまえを保てない。
正確には、多分ある程度は保てていると思うのだけれど、とてもとても疲れる。
私を現実から逃避させてくれるのは、山だった。
物言わぬ大きな存在に埋もれることだけが、私を慰めてくれていた。



もう二週間以上前になる。
ゴールデンウィークが明けて、課業が再び開始した日。日夕点呼時のことだった。

『訓練課付として、一年間……また防大でやっかいになることになった。よろしくな』

腰を抜かしそうになったことを良く覚えている。
新任の訓練長として挨拶したのは、松葉杖をついた坂木さんだった。

だが私達の前に立った新任訓練長は、私がこの春見ていた「恋人の坂木さん」ではなかった。
凄まじい形相は、懐かしの「鬼の坂木」だったのだ。

怪我の影響で幹候入校が来春に延びた坂木さんは、幹候入校が令される来春までの一年弱、訓練課付の教官として、再びこの防大で過ごすことになったらしい。
鬼神の再来に、一大隊内は大変な騒ぎになった。



やっと、合点がいった。
別れた理由はこれだったのだ。

訓練課付に着任した坂木さんは、立場的には教官である。
教官と防大生の恋愛なんて、防大生同士の内恋なんかよりもよっぽどまずい。いわゆる「教師と生徒」の立ち位置に近い。そんなものは、防大外の一般社会でだって倫理的に問題がある。

それにしても、あの箱根で先に教えてくれれば良かったのだ。
訓練課に着任することになった。これからは教官と学生という関係になるから付き合えない。別れてくれ。
そう言われていたら、そりゃあ悲しいだろうし切ないだろうけど理解はしただろうと思う。別れる必要がある、どうしようもないことだとすぐにわかったのに。
だが、坂木さんは私に言わなかった。
後からそれとなく聞いたら乙女ちゃんにも知らされてなかったらしい。

仕方のないこと、なのだろう。
自衛官にとっての訓練や行動というのは、基本的に国家機密だ。赴任地や勤務内容そのものが公になってはいけない場合もある。場合によっては家族であっても、乗る艦や詳細な勤務内容を教えないことだってある。
「need to know」。情報は知る必要がある者のみに伝え、知る必要がない者には伝えない。自衛隊における秘密保全の大原則だ。
坂木さんの訓練課着任そのものは機密情報ではないかもしれない。それでも、彼は自衛官としての一線を守ったのだ。

自分を「知る必要がない者」と括られるのは寂しかったが、坂木さんは乙女ちゃんという家族にすら事前に知らせなかった。他人の私に知らされなくても当然である。
それに私も乙女ちゃんも、今後指導の対象となる防大生だ。防大生のうちの一部だけに着任情報を先に与えるのはフェアじゃない。
知るべきタイミングで知らせる。それが正しいのだろう。坂木さんは自衛官としての一線を守ると同時に、教官と防大生という一線をも守ったのだ。

坂木さんはいつだって正しい。
そして、融通が効かない。



来春坂木さんが幹候へ入校すれば、私達の関係は候補生と防大生になる。
元々今年の春にそうなるはずだった。それが一年延ばしで実現するわけだ。奈良と神奈川、遠距離ではあるが、候補生と防大生の交際自体に問題はない。
それまでの十か月強、私と坂木さんは、教官と防大生である。

坂木さんとはメッセージアプリで繋がってはいるし、お互いの電話番号も知っている。だから連絡を取ること自体は可能だ。
が、個人的な連絡はしないほうが賢明だろう。さすがに私でもわかる。万が一にもバレて周囲にあらぬ誤解を抱かせるようなことがあってはならない。
だからこそ、坂木さんの中には「隠れて交際する」という選択肢がなかったのだ。

更に言えば、交際をしていない私達はただの教官と防大生だ。
来春までの十か月強、坂木さんがずっと私を想ってくれている保証なんてどこにもない。
仮にお互いの気持ちが続き、来春めでたく再び交際できたとして、坂木二佐の仰っていた問題が解決するわけじゃない。
結婚云々の問題については、今はその問題を考える状況にすら至っていないのだ。ただの棚上げである。



はあ、とやり場のないため息が出る。
ため息は土砂降りとなった雨の音にかき消され、聞こえないままに霧散した。

突然、足元を掬われた。

「っ、わ、ああっ!」

バシャン!
考え事をしながら歩いていた自分が悪い。
泥濘んだ土で足を滑らせた私は、ぐちゃぐちゃの地面の上に派手に尻餅をついた。

「いった……」

思いっきり尻を打った。多分青あざになるだろう。
それでも尻をついたのが土だったのは不幸中の幸いだ。尻をついたのが木の根っこや岩だったら、もっとひどいことになっている。
両の手と、高価だったレインパンツは泥だらけだ。

ついてない。
私はもう一度大きくため息を吐き、だがため息はやはり雨の中へ溶けていった。




   

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