第九章 鬼の目にも涙





03




どこかで予想していたはずなのに、それでも頭を鉄パイプで殴られたようだった。

言葉は人を殺せる。
昔本か何かで読んだ気がするが、多分それは本当なのだろう。

彼を繋ぎ止めなくてはいけない、そうでなければいけない。
それだけが頭を埋め尽くす。
必死だった。だってそうでもしないと、自分を保つ自信がないのだ。
体中が熱い。血圧が急激に上がっているのが自分でわかる。
どうにか冷静でいたいのに、一生懸命考えて坂木さんを繋ぎ止めなくちゃいけないのに、多分私は既に冷静じゃなかった。

「わ、私も坂木さんが好きです、もう坂木さんは防大生じゃなくて、坂木さんは私が好きで、私も坂木さんが好きなのに、それでも交際するのは駄目なんですか?」
「駄目だ」
「何で?私が、民間人じゃないからですか?」

上擦った声で畳みかける。坂木さんは驚いたように目を見開いた。

「……お前、聞いていたのか?」
「聞こえちゃったんです、ごめんなさい。
私が民間人じゃないから、自衛官同士では子供が持てないから、だから別れるってことですか?」
「……」

坂木さんは右手でガシガシと頭を掻いた。
視線を伏せて、言葉を選んでいる。

五センチほど開けていた窓から夜の風が入り込み、私と坂木さんの間に流れる。
冷たい風だった。
一人だけ熱くなっている私を窘めるかのような、そんな風だった。

「なまえ、それは違う。
親父が言っていたことは……将来については、いずれきちんと考えなくちゃいけねえことだろう。
だがそれは理由じゃない。俺が別れてくれと言っているのは、まだ描けてもいない遠い将来を理由にしているわけじゃない」

坂木さんの言葉を一字一句聞き逃さないように全神経を彼へと向ける。
その一方で、私の頭の中では葛藤が高速で巡っていた。

何か彼を引き留める術があるはずだ、
いやそんなものはない、別れを切り出したということはもう彼の中で結論が出ているということだ、
それでも彼は私が好きだと言った、
好きならばまだ可能性はあるのではないか、

とりとめのない思い達がぐるんぐるんと脳内を駆ける。
掌にじわりと汗が滲んだ。

「親父の言ったことは関係ない。
親父に言われるよりも先に、俺の方にお前と付き合えない理由ができたんだ。
だから別れてくれと言っている」
「理由?理由って、なんですか?」
「……それは、言えない」

坂木さんは静かに瞼を閉じた。

ああ、望みはないんだ。そう思い至れば、脳内の葛藤は急激に萎んでいった。
身体中の熱が冷えてゆく。
私は座椅子から半分腰を浮かせて食い掛かっていたが、へなへなと力が抜け、ぺたんと尻をついた。



特外は、私を抱くためのものじゃなかった。
私と別れ話をするためだった。

特外を取らせた坂木さんの判断は正しい。こんな状態できちんと課業に励む自信、私にはない。
つまりそれは、坂木さんは私の感情の重さを理解していて、その上で別れ話をしているということだ。



どうして?いつから?
坂木さんは、いつから考えていた?
襲ってくるのは自分に対する後悔だ。

坂木二佐の言葉が理由じゃないとすれば、他に思い当たることがない。
坂木さんと交際を始めてから、私はずっと浮かれていた。休養日は時間の許す限り坂木さんにひっついて、ただただ自身の幸せを噛みしめていた。
三月末に交際を始めて、箱根に誘われたのが四月の中旬。
この約半月の間、浮かれていたから坂木さんの変化に気が付けなかったのだろうか。半月の間に何があったのか、私にはわからない。
思い返してみても病室での坂木さんはずっと優しかった。ずっと私の恋人だったのだ。

わからない。気がつけなかった。
もっと早く気が付いていたら、彼の結論は変わっていたのだろうか。



「理由を教えてください。
私……理由がわからないのに、坂木さんと別れるなんてできない」

無駄だと思いながらも、力の入らない喉から声を絞り出す。
多分坂木さんは、これ以上私が何を言ってもどう頼み込んでも、口を割ることはないだろう。
声って、出すのにこんなに力が要るものだっただろうか。

「本当にすまねえが……理由は言えない」

わかりきっていた回答がぼんやりと鼓膜を震わせた。
虚無が私の肩に圧し掛かかる。
気を抜くと身体が圧し潰されて、砕けてしまいそうだ。

「お前には全く非がない。これは俺の勝手なんだ」

そんな言葉はなんの慰めにもならない。
別れてくれという言葉に殴られた私を癒やすのは、その撤回だけだ。



長いこと無言が空間を埋めていたが、不意に頬を涙が伝った。
混乱しているうちは涙も出ないもので、
――涙が出たということは、私はこの状況を現実として認めてしまったということだ。

現実を認める。
同時にひくっと喉がなって、それが嗚咽の始まりだった。

「う、あ、」

喉から勝手に変な声が出る。
反射的に、隣に敷いてあった布団に突っ伏した。さもないと泣き喚いてしまう。そう判断できた自分を褒めてやりたい。

現実を認めてしまえば、もう認める前には戻れない。ただ認めてしまった現実を嘆くことしかできない。
布団に埋めた顔が、身体が、どうしても勝手に震えてしまう。私は必死に声を殺し、嗚咽と涙を布団に吸い込ませた。

「……なまえ、すまない。お前は何も悪くない」

坂木さんの声が上から掛かる。
だが、声だけだった。
もう私の頭も背中も撫でてはくれないのだ。

その夜、私が布団から頭を上げることはなかった。



* * *



重い瞼を開けると、目の前を埋めるのはいつもとはわずかに違う色の布団カバーだった。
むくりと上半身を起こし、軋む身体を捻りながらあたりを見回す。

高い天井、床の間の立派なお花。
ああ、そうだ。ここは箱根の旅館だ。



私はずっと布団に突っ伏して泣いていて、いつの間にか寝てしまっていたのだろう。
身体には押し入れから出したらしい毛布が掛けられていた。掛け布団の上に突っ伏していた私に、坂木さんが上から掛けてくれたのだと思う。

隣の布団は空だ。
坂木さんは、座椅子の上で座卓に伏して眠っていた。彼もまた寝落ちてしまったのだろう。



五月、横須賀なら徐々に暑くなってくる季節だが、標高の高い箱根だと朝晩はぐんと冷える。
私はそっと立ち上がり、彼が私に掛けていてくれた毛布を今度は私が彼に掛けた。
ぐっすりと眠っているのかピクリとも動かない。疲れているのだろう。

座卓の上にはビール缶がある。
手に取ると、空だった。備え付きの冷蔵庫にあった物を飲んだのだろうか。
昨日の夕食時には、怪我の治癒に悪影響だからと言って飲まなかったのに。煙草だってこの道中一本も吸っていない。
全快するまでアルコールは取らないと言っていたストイックな彼が、飲まずにはいられないほど苦しんでくれたのだとしたら。
それだけで私の恋心がほんの少し報われたような気がした。

時刻を見れば午前五時。ちょうど大浴場が開く時刻だ。
私は一人で静かに部屋を抜け出した。



開いたばかりで誰もいない浴場は、実に贅沢だった。
檜の内湯を通り過ぎ、大理石の露天風呂へと進む。
大浴場は最上階に位置しており、露天風呂に浸かれば稜線が視界を埋める。

ちょうど日の出の時刻だった。
遮るものは、何もない。尾根から日が覗き始めている。

まるで防大の制服みたいな花紺の空が、次第に紺碧になり、やがて赤橙へと染まる。
びゅうと風が吹くと、朝露の匂いがした。
ひんやりとした風は腫れぼったい瞼を冷やしてゆく。

「私って性格悪かったんだなあ」

好きな男が苦しむ姿で報われるだなんて。
ぽつりと呟いた言葉は森と太陽とに吸い込まれ、誰にも届かない。

昨日、なぜ坂木さんが旅程を急いでいたのかが今となってはよくわかる。今日こんな状態の私が、観光を楽しめるわけがないからだ。

『お前の行きたいところは全部、今日中に行く』

坂木さんは、私に最後の思い出を作ってくれようとしたのだろうか。
優しくない。そんなの全然優しくない。その思い出に、こっちはずっと縛られるだけじゃないか。
それでも、そんな行動を坂木さんらしいなと思ってしまう。

私と別れることを苦しんでくれているのなら、
私も苦しむことをわかっていて、尚別れを切り出したのなら、
彼には「別れるしかない理由」ができたのだろう。そしてその理由は、私が知るべきではないと判断したのだ。
それならもう、仕方がない。
大好きな、大好きな坂木さんが考えて決めたことだ。もう仕方がないことだ。

涙は出なかった。
今日はもう泣かない。今、そう決めた。



部屋に戻ると、座椅子に坂木さんの姿はなかった。
窓のカーテンが開いている。
見れば、坂木さんはバルコニーの手すりに凭れ掛かって渓谷を眺めていた。松葉杖が隣に立て掛かっている。

胸がぎしりと軋み、だがすぐに軋みは収まった。
こうやって人間は痛みに慣れて、だんだんと心を凪いでいくしかないのだろう。

ガラガラと窓を開け、私はバルコニーへと足を踏み出した。
彼が驚いたようにこちらを振り返る。そのまま進み、彼の隣で同じように手すりに凭れた。
日はもう昇っていた。

「おはようございます、坂木さん」

笑顔はきちんと作れていただろうか。
きっと大丈夫だ。浴場の鏡で練習してきたのだから。

あなたがこの旅で最後に見た私が、少しでも穏やかに笑えていれば良い。
少しでもあなたの中の私が、良い印象で終われれば良い。

「……ああ、おはよう、みょうじ」

手すりに凭れたまま、坂木さんは泣きそうな顔で笑った。
きっともう二度と、なまえとは呼んでもらえないのだろう。





   

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