第九章 鬼の目にも涙





02







* * *



十七時の閉園ギリギリまで強羅公園にいた私達は、その後タクシーで宿まで移動した。

坂木さんが用意してくれた宿は、箱根では有名な高級旅館だった。
ロビーの広さと、天井の高さ、そしてモダンなシャンデリアに気後れしてしまう。

「ようこそいらっしゃいました。
お荷物はもう届いております、お部屋へ運ばせていただきました」

ゆったりとした雰囲気の仲居さんに連れられて、私達は客室へと進んだ。

「わあ……すごい!」

客室も随分と広く、立派なものだった。
香り高い青々とした藺草(いぐさ)の上に、シックな座卓と座椅子。座椅子は少し高さがあり、足が不自由な坂木さんでも腰掛けやすそうだ。
窓の外には広々としたウッドボードのバルコニー。前には素晴らしい渓谷が広がる。

思わず窓を開けてバルコニーへ出た。
深呼吸すれば、横須賀とは全く違う空気が肺に流れ込む。
日没まであと少しの今、木々は深い橙に染まっていた。

「気に入ったか?」
「はい、すっごく……!すごい、素敵なお部屋!」

コツコツと松葉杖を鳴らしながら、坂木さんもバルコニーへやって来る。
二人で並び、渓谷を眺めた。

あ、今。キスとか、しないのだろうか。
やっと二人きりになれたのだ。人前で手は繋げても、キスはできない。そういえば二人きりになれたのはこの間の病室以来だ。
彼の手が私の頬に触れることを期待した。
期待して、ほんの少し俯く。いつも私が俯いていると、坂木さんの骨ばった手が頬に触れ、次は唇に触れ――

だが、彼はふっと渓谷から目を逸らし、手すりに立てかけていた松葉杖に手をかける。
坂木さんの手は、やって来なかった。

「飯、十九時からだよな。先に風呂に入るか?」

そう言いながらくるりと後ろを向き、部屋の中へ入ってしまう。

夕方の風が、ザワリと森の木々を揺らした。



今……キスをしなかった。
深い意味はないのかもしれない。キスが来ると思ったのは私の勘違いだったのかもしれない。
それとも、理由が……理由があるのだろうか。



胸が、警鐘を鳴らそうとする。
だが私は胸の前で拳をきつく握りしめ、必死にその警鐘を抑え込んだ。



* * *



旅館の最上階に位置するダイニングでの夕食は、とにかく豪華なものだった。
和洋折衷の季節の料理。鴨とフォワグラの前菜から始まって、御造りは海の幸も山の幸も両方、メインディッシュは鰆のソテーに松阪牛フィレ肉のステーキ、ご飯に御椀と続いて、最後は甘味としてシャーベットが出た。
坂木さんはまだ治療中なのでアルコールは飲まなかったけれど、「お前は飲めよ」と勧められて、注がれるがままにビールを飲んでしまった。
どれもこれも美味しい、のだろう。
こんなに豪華な食事をしておいてもったいないことだが、実はあまり味がよくわからない。浴衣姿の坂木さんを前にしたら、急に緊張してしまったのだ。
ただ誤魔化すように美味しい美味しいと言えば、坂木さんはもっと食えと笑ってくれた。

テーブルの向かいに座った湯上がりの坂木さんは、なんというか、目の毒だった。
浴衣の合わせ目から色気のようなものがだだ漏れている。「色気」なんて目に見えないはずなのに、まるで桃色の煙が立ちのぼっているかのような錯覚を起こしていた。
もっと丹前を深く合わせて欲しい。その桃色をしまい込んでいただきたい。

そんな姿を見れば、どうしたってこの後のことが頭に浮かんでしまう。
どこか、遠い世界のような気がしていたこと。
いつかはやってくることなのに、まるで現実感のなかったこと。



私達は夕食を食べ終わったら部屋に戻る。
部屋にはきっと布団が敷かれているだろう。私だって恋人同士が一つの部屋で一晩過ごす意味は知っている。
もちろん、嫌ではなかった。
特外を出せと言われた時からちゃんとそのつもりだった。

坂木さんならばと思っていたし、むしろ望んでもいる。
手が触れるだけで、唇が触れるだけであんなに幸せなのならば、その先はどれだけの幸せが待っているのだろう。

目の前の料理の味がわからなくなるくらいには緊張している。
だがそれと同じだけ、期待もきっとしていた。



* * *



夕食後に戻った部屋には、案の定布団が敷かれていた。
真ん中にあった座卓と座椅子がややバルコニー側へ寄せられ、部屋の中心を占めるは二組の布団。
仲居さんはただ普通に布団を敷いてくれただけなのだろうが、二つの布団の間に流れる畳の緑が何とも言えない距離に見える。
くっついてはいない、だけど離れてもいない。二人が寄り添おうとすればいつでも寄り添える、そんな微妙な距離。
並んだ布団を見た瞬間は、夕食時のビールがカッと胃の中で火を上げたようだった。



だが部屋に戻ってからの私達はずっと、点けっぱなしのテレビに笑ったり、売店で買ってきたアイスクリームをつついたり、そんなことばかりをしていた。
時間は刻一刻と過ぎていく。
備え付けの急須でほうじ茶を淹れるのは、もう何回目だろう。坂木さんも私も、湯飲みが空くのが異様に早かった。

来るのか、来ないのか、来るならいつ来るのか。
最初は期待と共にそんなことを考えていた。
だが二十二時スタートのテレビ番組が始まった辺りで、だんだんと不穏な感情が頭を擡げ始める。
高鳴っていた胸の音が、不協和音へと変わっていく。

だって、坂木さんの表情がどんどん硬くなっているような気がするのだ。

経験はないけれどなんとなくわかる。
この顔は、およそこれから恋人を抱こうとしている人の顔ではない。

あ、違う。これはきっと違う。
私たちは恋人同士として今一緒にいるけれど、この後待ち受けているのはきっと私の期待とは違うものだ。
そう思い至ってしまったら、もう危機感を打ち消すことはできなかった。



明日も早いし、もう寝ましょうか?
そう言ってしまおうか。
もうここで今日を終わらせてしまう、そのほうが良い気がする。



怖いのだ。
私には、坂木さんが今何を考えているかがわからない。わからないことが怖かった。

坂木さんの表情が、これからどうやって私を抱こうかと考えあぐねているものならばそれで良い。
でも多分違う。坂木さんは今そんなことを考えていないと思う。
彼はもっと私にとって不都合なことを考えているのではないか?もっと幸せじゃないことが始まるのではないか?
さっき無理やり抑え込んだ警鐘が、今は抑えきれない。ガンガンと身体中に鳴り響いている。



「あの、明日も早いし」
「なまえ」

意を決して切り出した私の言葉は、はっきりと滑舌の良い声で遮られた。
坂木さんは私の言葉を、明確に、意図を持って、遮った。そうわかった。

「なまえ」と下の名前で呼ばれることがあんなに嬉しかったはずなのに、その先に何が続くのかと思えば、今は恐怖でしかない。
座卓で両手を組んでいた坂木さんが、ゆっくりとこちらを向く。
今すぐに、この場所から逃げ出したい。

「大事な話がある。聞いてくれ」

聞きたくありませんと言って耳を塞いでしまえばいいのに、腕が上がらない。
坂木さんの目は時々私を金縛りにさせる。あの資料室もそうだった。

「特外を取って、こんなところまで来てもらったのはな……誰にも邪魔されずに、時間にも邪魔されずに、きちんと話したかったからだ」

ゆっくりと、まるで子供に言い含めるかのような声。
特外は、私と夜を過ごすためではなかった。
きちんと話したいこと。それが何を意味するのか、私はもう勘付いている。
金縛りは解けない。

「俺はお前が好きだ。お前に、惚れてる。だが、」

聞きたくない!言わないで!
その言葉が、私の口から出ることはなかった。

「お前とはもう付き合えない。……別れてくれ」




   

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