第九章 鬼の目にも涙





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ゴールデンウィークも折り返しの五月二日。
テレビもラジオもつけない一人きりの下宿は、シンと静まりかえっている。

皆実家に帰ったり、あるいは学生舎でまだ外泊のできない一年生の面倒をみたりしていて、今日この下宿に泊まるのは私一人。
今は、衣装ケースをひっくり返して荷造りをしている。
明日は五月三日、坂木さんと箱根へ旅行に行く日だ。



あの日、病室で坂木二佐が仰った言葉は正論だった。
あれからずっと胸に棘が刺さったままでいる。

結婚、なんて。考えてもみなかった。
坂木さんと付き合うことがただただ嬉しくて、それだけでいっぱいだった。
今の幸せを享受するのに忙しくて、その先のことまで考えが至らなかったのである。
坂木さんは、坂木二佐の言葉をどう思ったのだろう。どんな顔をして聞いていたのだろう。
廊下で盗み聞きをしていた私には、彼の表情も見えなかった。話題が終わって私が病室へ入った時には、既にいつも通りの坂木さんだったのである。

もしかしたら、箱根旅行はキャンセルの連絡が来るかもしれないと思っていた。
坂木二佐の仰った言葉を受けて……坂木さんにしてみれば父親からの言葉を受けてだが、彼の考えが変わる可能性もあると思ったのだ。つまり、私とは交際できないと判断される可能性である。
だが今は前日の午後四時。この時間までキャンセルの連絡がないということは、予定通り決行ということだ。

坂木さんは、あれからどんな気持ちでいるのだろう。
彼から来るメッセージは旅行の待ち合わせについてだったり、たわいない雑談だったりで、坂木二佐の言葉を思わせる要素は一つもなかった。



気がつけば、部屋は薄暗くなっていた。日の入りまではまだ時間があるが、もともと日当たりが悪いアパートなのだ。その分家賃も安いが。
カーテンを閉めて蛍光灯をつけると、今まで陰になっていた衣装ケースやハンガーラックが浮かび上がる。
物に溢れたスペースに独りぼっちでいると、存外孤独感を煽られた。
寂しい。誰かといたい。
そういった類の甘ったれた感情は、このわだかまりのせいだと思う。



随分と長いこと止まっていた手を再び動かし始めた。
荷造りは早いところ終わらせて、食事も入浴もさっさと済ませてしまおう。今日は早めに寝たほうが良い。明日は早いのだから。

今は物事を深く考えるべきじゃない。そのほうが良い。
結婚の話は、少なくとも今悩むことではないのだ。

坂木さんの怪我は良くなっているとはいえ、全快にはほど遠い。
あの足の状態で旅行を提案してくれたのだ。少なからず無理をしてくれている。
であればこそ、彼が用意してくれた旅行は素直に楽しむべきだ。
そう自分に言い聞かせ、小型のボストンバッグのファスナーを閉めた。
同時に、自分の心にも蓋をする。

色々なものを、見なかったことに、聞かなかったことにしよう。
とにかく明日は坂木さんと一緒にいられる時間だけを楽しめば良い。今はそれで良い。
私は坂木さんと一緒にいられれば幸せなんだから。

それだけは、嘘偽りのない本音だった。



* * *



五月三日、旅行当日。
結局、新横浜から小田原までは新幹線を使わなかった。東海道線の鈍行でも小田原への到着時刻はほとんど変わらなかったのである。
天気晴朗、旅行日和。
昨日悶々と考え込んでいたことは、朝起きて太陽を見たら吹っ切れた。
二日間丸々坂木さんと一緒にいられるのだ、それはやっぱり嬉しい。嬉しくて嬉しくて仕方がない。

一〇五九(ヒトマルゴーキュウ)、小田原駅到着。昨日荷造りしたバッグを肘から下げ、ホームの階段を小走りで上がる。
JRを出て箱根登山鉄道十一番線、待ち合わせのホームに坂木さんがいた。
いつも通り右手に松葉杖をつき――
駆け寄っている途中で気がついた。左腕と左足のギプスが取れている。

「おはようございます!」
「ああ、おはよう」

ホームの喧騒の中、私の耳には坂木さんの声だけがはっきりと届く。
彼の控えめな、だが確かな笑顔にほっとした。良かった、坂木さんは笑っている。

「ギプス、取れたんですか?良かった!」
「ギリギリ昨日な。取れなくても専用の防水プロテクターをつければ入浴はできたんだが、でも間に合って良かった」

左半身の重石(おもし)が取れて、随分と身軽になったように見える。
坂木さんの身体が回復していることが、私も純粋に嬉しかった。

「本当に良かったです!あの、荷物持ちます」
「いい、このくらい。問題ない」

彼の右肩に掛かる黒いリュックに手を伸ばしたが、振り払われた。
問題ないだなんて……右手で松葉杖をつくのだから、肩からリュックがずり下がってきたりしたら大変だろうに。
コツコツと松葉杖をついてホームを進む坂木さんをじっとりと見ていると、観念したかのように「わかったよ、頼む」と苦々しい顔でリュックを差し出してきた。
満面の笑みでリュックを受け取ると、坂木さんの眉間の皺が一本増える。

リュックはとても軽かった。男性の一泊二日なんてこんなものなのかもしれない。
私が一日持ち歩いても全く問題ない重さだ(そもそも私達が送っているのは背嚢に縁石を入れて走る生活である)。
だが、箱根湯本駅には宿まで荷物を運んでくれるキャリーサービスがあるから、自分のバッグと一緒に利用するつもりだ。一日中私に荷物を持たせることを、坂木さんはきっと気にするだろうから。
他にもタクシーの電話番号や、駅のエレベーター・エスカレーターの位置などは、一通り調べてある。



「わあ、箱根!って感じ!」

駅を出てまず目に入ったのは、青空とその脇を彩る新緑。五月は一番緑がきれいな季節だ。
温泉街らしく建物もどことなく茶系である。青と緑と茶のコントラストが清々しい。
はしゃぐ私を見て、坂木さんは静かに笑っていた。

そこからは、登山バスを使ったり登山鉄道を使ったり、足場が悪いところはタクシーを使ったりしながらの移動だ。
彫刻の森美術館で「幸せをよぶシンフォニー彫刻」を見上げ、ピカソ館を見て、ロープウェイから大涌谷の迫力ある谷底と富士山を眺め、ベンチに腰掛けて黒たまごを食べる。
私達は、箱根の観光地をセオリー通りに歩いた。

松葉杖の坂木さんは大変だっただろうけど、時々手と手が触れ合えば、そっと繋ぎ合った。
それだけで、口角が上がって目尻が下がってしまう。

やっとギプスも外れたし、私達は制服を着ていない。ここには防大生もいない。
幸せすぎて苦しくて、幸せすぎて切なかった。
普通の恋人同士はこんな風に旅行を楽しんでいるのかと思うと、果てしない羨望と、今それを体験できている幸福とで、胸の奥がくっと締まった。



一五四〇(ヒトゴーヨンマル)、大涌谷駅から帰りのロープウェイに乗り込んだ。
車窓から荒涼とした山肌を一通り眺めたところで、ポケットからスマホを出して坂木さんに見せる。

「坂木さん、明日はここも行きませんか?」
「あ?強羅公園?」
「今は山藤が見ごろらしくて。他にもローズガーデンとかあったり」
「明日じゃねえ、今日これから行くぞ」
「え?……これからですか?」

強羅公園へは、早雲山から登山ケーブルへ乗ればすぐに着くだろう。
だが、公園の閉園時刻もある。何よりも、今日一日歩き回った坂木さんはかなり疲れているはずだ。
まだ全治しているわけでもない。彼の身体にこれ以上負担を掛けるのは、あまり良くないのではないだろうか。

「……今日はもう、お疲れじゃないですか?公園も十七時で閉園ですし、明日ゆっくりでも……」
「いや駄目だ。お前の行きたいところは全部、今日中に行く」



瞬間、坂木さんの顔がビッと強張った。

今日初めて見せた硬い顔。
この旅行に不釣り合いな、不自然に突っ張った顔。
それを私は見逃さなかった。



もうこんな顔は久しく見ていない。
交際してからというもの、病室で会う坂木さんはずっと私の「恋人」で、いつも優しかったし穏やかだった。
防大で鬼と呼ばれていたのを思わず忘れてしまうような、そんな甘さがあった。



「な?これから行くぞ」

そう言ってスマホから視線をこちらに移した時には、もう彼の口角は上がっていた。穏やかな坂木さんに戻っている。
私は曖昧な笑みを浮かべ、無言で頷くしかなかった。

何で、今日中に行かなくちゃいけないのか?
……明日では駄目な理由がある?
そこまで考えて、私は自分の思考をぶった切った。

考えるな。今は、何も考えるな。
私は今、坂木さんが隣にいるだけで幸せじゃないか。今は一緒にいる時間を楽しむことだけを考えていればいい。

強羅公園を映していたスマホをしまい、ロープウェイの座席に座ったまま、彼の左腕に自分の右腕を絡めた。
坂木さんは「おい」と無声音で窘めたが、私が笑みを返すと呆れたようにため息を吐いて、それ以上は何も言わなかった。
今は制服じゃない。私達を知っている人は誰もいない。
坂木さんはロープウェイの窓枠に肘をつき、照れたように視線を背ける。
だが私の腕を振りほどくことはしなかった。




   

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