第八章 鬼の狼狽





02




「……は――――ああああ…………」

あまりの緊張に、いつの間にか呼吸が浅くなっていた。
自販機の前で思わずしゃがみ込み、大きく息を吐き出す。そして深く息を吸い、もう一度思いっきり吐いた。

びっくりした。
お泊まりのお誘いの直後に、お父様登場だ。こんなタイミングあるだろうか。
坂木さんもお父様がやってくるなんて思っていなかったのだろう。面食らった顔をしていた。
それにしても、さっきの私は動揺のあまり完全に挙動不審だった。坂木二佐には、肝が据わっていない防大生だと思われたかもしれない。
……こんなんで有事の際大丈夫なのだろうか、私は。

ふー、ともう一つ息を吐いて、立ち上がり自販機に向き合った。
飲み物を買ってくるという理由で出てきたのだから、何か買わなければいけない。そういえば慌てて飛び出してきたから、何を飲むかも聞いてこなかった。コーヒーだろうか、お茶だろうか。
少しだけ考えて、結局無難に、無糖のコーヒーと微糖のコーヒーと緑茶を一本ずつ買った。自販機から飲み物が落ちてくる際の乱暴な音が、静かな廊下に響く。
コーヒーが良いかお茶が良いかはわからないが、坂木二佐と坂木さんに選んでもらって、私は余った物を飲めば良いだろう。

きっと家族同士の大事な話もあるのかもしれない。そうでなくとも、家族水入らずの時間は大事なはずだ。坂木二佐だって、忙しい中入間からこの横須賀まで来ているのだから。
さっさと飲み物を飲んで、私は早めに失礼しよう。そう思いながら病室の前に戻った。

ドアを開けようとしたところで、中の声が漏れ聞こえてきた。

「お前の恋人が、まさか防大生だとはな」

坂木二佐の声である。どうやら私のことを話題に出しているらしい。
気まずいが、今病室に入っていくのはもっと気まずい。もう少しノックは待ったほうが良いだろう。
私はドアの外で、話題が変わるのを静かに待っていた。

結果から言えば、待たずにすぐに入ってしまえば良かったのかもしれない。
後悔は先に立たないけれど。



* * *



「お前の恋人が、まさか防大生だとはな」

親父はパイプの丸椅子を引き寄せて、ゆっくりと腰掛けた。

現役幹部自衛官である親父は、やはり身のこなしや体形が民間人とは少し違う。
広い肩幅、厚い胸板。鍛え上げられた身体と無駄のない動作は、特殊な職業についていることをすぐに連想させる。
思春期には反発したこともあるし、親子間で今までに何も無かったわけじゃない。
だが、自衛官としては正真正銘上官なのだ。それにこの歳までずっと現役の自衛官で有り続ける父に、尊敬の気持ちがないと言ったら嘘になる。

「可愛らしい子だったが、あまり防大生らしくないかもしれんな。俺の時代は女学なんてほとんどいなかったから、そう思うのかもしれないが。
龍也お前、内恋していたのか?」
「違う!……一応。きちんと交際を始めたのは、俺が卒業してからの話だ」
「そうか」

親父に噛みついてしまったのは、後ろめたさが多少なりともあったからだ。
内恋はしていない、ことになっている。
だが、俺達に感情があったのは確かなのだから。

「本当は、お前の恋人は民間人が良いと思っていたんだがな」

……は?

「……何言ってんだ?」

病室内の空気が途端に剣呑になった。

親父の言っていることが、わからなかった。
言葉は脳内に入ってくる。だがその先で咀嚼しても、本当に意味が理解できないのだ。思い切り眉を顰めてしまう。
ただ一つだけ理解できたのは、恋人としてのなまえを否定されたということだ。

「……息子の色恋沙汰に口を出すなんて野暮だな、忘れてくれ」
「忘れられるわけねえだろ、どういう意味だ」

表情一つ変えずに低い声で言う親父に食って掛かった。だが親父は口を開かない。
ここで引き下がっても、良いことは一つもないだろう。俺と親父双方にしこりが残るだけだ。

「俺はあいつと真剣に交際しているつもりだ。親父が反対するなら理由を知りたい」

意識して声を硬くし、白髪交じりの親父を睨み付ける。
少なくとも俺は遊びでなまえと付き合っているわけじゃない。なまえだって真剣なはずだ。いい加減な気持ちで交際なんて、俺達の立場でできるはずもない。

「……反対、というわけじゃないんだが。ただ民間人のほうが好ましいと思っていただけだ」
「だから理由は」

やっと口を開いた親父に、間髪入れずに詰める。
――感情的になるな。落ち着け。鼻でゆっくり呼吸しろ。
自分にそう言い聞かせた。身体の奥で焦ったように走り続けている心臓を、なんとか宥めようとした。



「お前達の交際が長く続く物かどうかは知らん。
だが仮にだ。彼女と結婚するということになったらどうなる?」

親父の言葉に、目が丸くなった。

結婚?
俺となまえの結婚?



意識したことはなかった。
まだまだ俺達は若い……つまり半人前だ。俺はまだ幹校にも入れていないし、なまえはまだ防大生である。これから俺達は幹部自衛官として一人前にならなければいけないし、それが何よりの優先事項だ。目の前の課題を見つめていて、先の未来を意識することがなかったのだ。
だが長く付き合っていれば、恋愛の延長線に結婚という言葉が出てくる可能性はもちろんあるのだろう。それは否定しない。
ぐっと心臓が掴まれたように縮こまった。
俺は、動揺している。

俺の動揺をよそに、親父は落ち着き払った声で淡々と続けた。

「幹校を卒業したら、部隊に配属される。
全国どこの基地に配属されるかわからないし、自衛官に転属・転勤はつきものだ。幹部自衛官なら尚更だ。そしてそれは結婚後も続く。お前達はずっと離ればなれに暮らすことになるかもしれない。
それでも結婚したとして、子供がいない間はまだ良い。
しかし子供ができたら、どちらかは隊を辞するべきだというのが私の考えだ。子供ができても夫婦揃って自衛官をやっていられるか?」
「だが……隊内結婚なんて、よくある話だろ?」

事実、隊内結婚は多いのだ。
女性自衛官が男性自衛官に比べて極端に少ないため、男性自衛官の隊内結婚率はそれほど高くはない。だが女性自衛官についていえば隊内結婚率は非常に高いのである。

「ある日、非常事態が起こって全隊に召集がかかったとしたら、どうだ?
夫婦で自衛官をやっている者はどうするんだ?お前はどう考える?
幼子を放り出して駆け付けるか?預かってくれる祖父母や親戚は必ず近くにいるのか?召集時、どこの基地にいるかもわからないのに?
更に言えば、その非常事態で夫婦が両方命を落としたらどうなる?」

その言葉に、ハッと息を呑んだ。

結婚。
その先には「子供」という可能性がある。

先ほどまで親父の言葉を理解できず、なまえを否定された理由もわからず、感情的になっていた。
だが突きつけられた将来像を認識すると、今度は不安で心臓が早鐘を打つ。

「あの子も防大生ということは、幹部自衛官を志しているのだろう?卒業時に任官拒否するつもりというなら話は別だが」
「違う!なまえは任官拒否なんて考えないはずだ!」

反射で大声を返してしまう。思わず「なまえ」と呼んでしまった。



そうだ、俺達は
二人揃って、幹部自衛官として
国防に邁進し、いざという時には命をも賭して、

だが二人揃って自衛官なら、一緒にいることは難しいのか?



目の前がぐるぐると回る。
脳内にエコーがかかり、ぼやけていく。



黙り込んでしまった俺を見て、親父は小さく息を吐いた。

「隊内結婚全てを否定しているわけじゃない。
子供を持たないという選択肢もあるだろうし、子供を持ったとしても、いざという時の後見人を立てておくという考えもあるだろう。逆に言えば、そこまで考えて隊内結婚をするなら理解できる。
自衛官たる者、有事を架空の想定にはしておけない。それはわかるな」

親父の言うことは正論だ。筋が通っている。

「……まあ、結婚なんてまだまだ先の話だ。
龍也も彼女もまだ若い。交際がどれだけ続くかもわからないしな。
別に、本業に支障のない範囲で恋愛をすることを否定するつもりはない。相手が誰であろうと」

顔色一つ変えない、眉をぴくりとも動かさない親父のその言葉。
俺となまえの関係が長く持たないと示唆されているようで、だがそれに対して反論する気力がなかった。
俺は、突きつけられた現実に気力をごっそりと削がれていた。

「……俺達は……真剣に交際している」
「だから、それ自体は別に否定しない。今はな」

ない気力を振り絞って口から出した台詞は、なんというか陳腐で、毒にも薬にもならない。
恐らく親父にも、まったく響かなかったのだろう。軽くあしらわれて、その場はそれで終わった。




   

目次へ

小説TOPへ




- ナノ -