第八章 鬼の狼狽





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四月。新入生の入校式が終わると、特別指導期間のスタートだ。
毎年理不尽なストレスに晒されて脱落する新入生が大量発生するが、その裏で、乙女ちゃんたち二学年はカッター競技会へ向けて訓練を行っていた。

乙女ちゃんは一一中隊の艇指揮(号令を掛ける役)となった。これは芹沢クルー長の采配である。
乙女ちゃんは昨年の夏、あの厳しい遠泳で、組長をしっかりと全うした。その働きは中隊の上級生全員が知るところだ。
遠泳以降も彼女は辛い訓練を乗り越え、体力面でも男子に劣らない成績を収めている。あまり心配はしていない。



防大では、一学年をゴミ、二学年を奴隷、三学年を人間、四学年を神と呼んだりする。
私は三学年となってやっと「人間」になれたわけだが、今のところあまりその実感はない。指導・管理するべき人員と事柄が増えて、職域が広がったように感じるだけである。

三学年になったからといってゆったりとした時間など持てるはずもなく、目が回るように忙しいのは、一・二年の時と変わらなかった。そしてそれはきっと四年になっても同じだろう。三月下旬から四月にかけては、お客様の受け入れ準備、新入生の特別指導期間、カッター競技会へ向けてのサポートで、ずっと慌ただしかった。
それでも私は時間をなんとか絞り出し、休養日は可能な限り坂木さんの病室へ向かっていた。



坂木さんの卒業式の後、私達はきちんと交際を始めた。

「俺と付き合ってくれ」

卒業式の翌週に病室を訪れた時、坂木さんが言った。
はい、と返事をして、その日から私達の関係は変わった。私たちは学生隊の先輩後輩ではなく、恋人同士になったのである。

病院内の散歩に付き添うときには、私が車椅子を押した。
松葉杖を使ってのリハビリが始まると、松葉杖とは反対の手でそっと手を繋ぐこともあった。
私が病室を去る時には、別れ際にキスをしたりもした。

もちろん、坂木さんと交際を始めたことは、防大の人間には秘密である。
坂木さんはもう卒業したから私達の交際は内恋ではないのだが、防大の人間が知ったらやはり噂にはなるだろう。ただでさえ、私と坂木さんは在学中に一度騒ぎを起こしている。
要らぬ騒ぎを立てて秩序を乱すことは彼の信念に反するし、私もその信念に同意していた。

それでも、坂木さんが卒業して内恋でなくなったことは、私達の気持ちを確かに軽くしている。
好きな人に触れることができる。好きと伝えることができる。そのことがこんなにも幸せなのかと、私はこの数週間噛みしめていた。
普通の大学生のようには頻繁に会えないし、周囲に大っぴらに公言したりすることもない。
だが、二人で過ごす時間は甘くて、穏やかで、とても幸せだった。



* * *



四月の中旬。
病室のベッドで上半身を起こしている坂木さんと、手土産のシュークリームを一緒に食べていた時のことだった。

「えっ、外出許可下りたんですか?」
「ああ、この間外泊してきた。一泊な」
「すごい!リハビリの成果ですね」

卒業式には車椅子で参加した坂木さんだったが、この頃には松葉杖をついて自力で問題なく歩行できるようになっていた。
任官を果たすという明確な目的がある彼は、リハビリに熱心に励んだ。求められたメニュー以上の負荷を自身にかけ、理学療法士からやり過ぎだと諫められることもままあった。

「激しい運動なんかはまだできねえが、普通に生活する分には松葉杖があれば問題ない。立つだけなら松葉杖がなくても平気だしな。
今後も、許可さえとれば外出は問題ない。順調にいけば退院ももうすぐだ」
「良かった、本当に……。一泊って、どちらに行かれたんですか?」
「父親の自宅だ、官舎だがな。今父親は入間基地にいて、そこに一晩泊まったんだ」

坂木さんの身体が順調に回復していることが、本当に喜ばしかった。
一時は生死すら不明だったのだ。あの生きた心地のしなかった期間を思い出せば、今の幸せが嘘のようである。

きっと坂木さんは、自分が負ったハンデを自分一人で乗り越えていってしまうのだろう。
坂木さんの身体には後遺症が残る。互いにその話には敢えて触れていないが、それは間違いないのだ。少なくとも左目の視力は戻らない。もしかしたら、それ以外の部分にも影響があるのかもしれない。
だが、私が手を差しのばすまでもないのだと思う。私は坂木さんが困っていればいつだって手を差し伸べたいと思っているけれど、恐らくその機会はない気がする。求められる前に、自分の力で解決してしまいそうだ。

シュークリームを食べ終わった坂木さんから紙ゴミを受け取り、質素なゴミ箱に入れる。私も残りわずかとなったシュークリームを一口で食べた。
坂木さんは顔に似合わず甘いものが好きだけど、このシュークリームは当たりだったみたいだ。進みが早かった。
次来る時にも同じ物を持ってこようかな、なんて思っていた時。
そっと、坂木さんが布団の上で私の手を取った。

「それでな、五月……ゴールデンウィークに入ったら、外で一回会えねえか」

白い布団の上で二つの肌色が重なる。
クリーム色のカーテンがそよそよと揺れ、少しだけ開いた窓から気持ちの良い風が入ってきた。

ああ、幸せだな。

私の顔はきっと、すごくだらしなく緩んでいた。

「嬉しいです、時間作ります。どこに行きますか?
渓流釣りはさすがにまだ無理でしょうから……何か欲しいものとか、食べたいものありますか?都内とか出ます?」

随分と甘ったれた声色だと自分でも思う。防大内では決して出さない声だ。坂木さんが卒業してからというもの、この病室を訪れるといつもこんな声が出てしまっていた。
きっと浮かれているのかもしれない。でも坂木さんはそんな私を咎めなかった。

布団の上で、坂木さんの右手と私の左手が戯れる。
彼の骨張った指が私の荒れた手をなぞるたび、くすぐったい気持ちと、荒れて粉を吹いている手が恥ずかしいという気持ちが綯い交ぜになった。
だが、この荒れた手を厭うような人じゃないことを私はよく知っている。恥ずかしいという気持ちはあるけれど、不安はない。私は彼とそのまま指を絡ませていた。

「行く場所はもう決めてある」
「え、そうなんですか」
「箱根」
「はこね……温泉ですか?」
「入浴は介助無しでも問題ない」

箱根。小田急線で行っていたK山よりももう少し先である。
少し遠いが、日帰りでも問題なく行ける距離だ。馬堀海岸からなら、横浜まで出て、新横から小田原まで新幹線で行くのが一番早いだろう。坂木さんとは小田原駅で待ち合わせれば良いかな、なんて頭の中で算段を始める。

「五月の頭……三日、四日とか、予定どうだ?校友会とかあるか?」
「いえ、どちらも空いています」

鞄から手帳を取り出し、スケジュールを確認する。
ゴールデンウィークの校友会は休みだった。部屋会はあるが、幸い別日である。

坂木さんと二人で出かけるのは本当に久しぶりだ。
というか、以前K山に行っていた時は交際していないという建前だったし、「デート」として二人きりで出かけるのは初めてなのだ。

「わかりました、箱根ですね。すぐに日帰り入浴に良さそうな施設、探します。
入浴だけなら予約はいらないでしょうけど、ゴールデンウィークだと混んでいるだろうから、食事の場所とか考えておいた方が良いですよね、きっと……」

甘ったれた声は、弾んだ。嬉しくて口角が勝手に上がってしまう。
私は舞い上がっている。

「楽しみですね、新幹線のチケット早めに取っておこうかな」
「なまえ」
「はい?」
「特外出しておけ」



テポドンが頭上に直撃したかのようだった。
あまりの衝撃に、私は声と表情を失った。



そのまま数十秒の沈黙。
クリーム色のカーテンは、変わらずそよそよと揺れている。
病室は、先ほどまでとは打って変わって静まりかえる。窓の外からチチチと鳥の鳴き声が聞こえた。



長い沈黙を破ったのは、坂木さんのほうだった。

「おい、聞いてんのか」
「はっ……はい!聞いております!」
「聞こえてるなら返事をしろ」
「はいっ!失礼しました!!」

思わず立ち上がり、腹から声を出して十度の礼をしてしまう。
先ほどまでの甘くて穏やかで平和な空気は吹っ飛んだ。
頭の天辺から汗が噴き出ている。身体中が脈を打っているようだ。

「俺が勝手に決めたが、もう宿は予約してある。後でURL送っておくから見ておけ。どっか行きたいとことか、食いたいもんとかあるなら、先に送っておいてくれ」
「はっ、はいっ!!」

両手の拳を固く握り、踵を揃えた。完全に防大仕様に戻っている。
致し方ないだろう、テポドンを落とされた私にとって今は有事も有事である。臨戦態勢を瞬時に整えたのだから、これは寧ろあるべき姿なのでは。



どうしよう。特外。
特外って、特外だよね。



特外とは特別外出の略で、外泊の出来る外出のことだ。
今まではあまり使ってこなかった。たまに実家に顔を出しに行く時に使ったくらいで。特に不便もなかった。

「特外出しておけ」ということは、箱根行きは宿泊を伴う行程なのである。
つまり、お泊まりに誘われているのだ。
攻撃は完全に不意打ちだった。被害は大きい。顔が熱いし、大量に発汗している。



そのまま防大よろしく直立不動でいると、控えめなノック音がした。坂木さんの返事を待たずにドアが開き、ガラリという音が私の金縛りを解く。
思わずパッとドアの方を振り向くと、入り口に立っていたのは中年の男性だった。

男性は、恐らく五十代くらいに見えるので中年で間違いはないのだが、中年と一口で言ってしまうのが憚られるほど迫力があった。
白髪交じりの頭に、鋭い眼光。服の上からでもわかる鍛え上げられた身体。一般的な中年の類とは、纏う雰囲気が全く違う。
それに……誰かに似ている。誰に……?

「……親父」
「えっ!?」

坂木さんのお父様!?
思わず声をひっくり返し、坂木さんのほうにぐるりと首を向けた。坂木さんは気まずそうに眉を顰める。お父様の来訪は予定外だったのだろう。
しかし、すぐに腑に落ちた。この方が誰に似ているかって、坂木さんに似ているのだ。よく見ればそっくりだ。
防大生に会うことは警戒していたが、ご家族に会う可能性なんて全く思い至らなかった。
だが考えれば当たり前のことである。大怪我をした家族を見舞うのは、至極当然のことだ。

「来客中か。出直すとするか」
「いえっ、いえ!そんな、お気遣いなく!!」

坂木さんのお父様が私を見て踵を返そうとしたため、慌ててよくわからない声を掛ける。私の声は完全に裏返っていた。

「親父……ちゃんと紹介するから」

坂木さんはベッドの上で右脚を立て、ハアと髪をかき上げた。
コツコツと控えめな革靴の音と共に、坂木さんにそっくりなお父様がこちらへ来る。



「みょうじ、俺の父親だ。さっき言ったとおり今は入間基地にいる。
親父、みょうじなまえ学生だ。防大三年、航空要員だ」

坂木さんは私とお父様を交互に見て、簡潔にそれぞれを紹介した。なまえ呼びからみょうじ呼びに戻っている。
私は踵を揃え、お父様に向かって十度の敬礼をした。

「い、みょうじなまえです!坂木学生には、いつも大変お世話になっております!」
「みょうじ、俺はもう学生じゃねえ」
「はっ、あっ、し、失礼しました……」

坂木さんの冷静なつっこみに私はしどろもどろになった。
お父様のほうは顔色一つ変えず、厳格な視線をずっとこちらに向けていた。が、お父様もぴっと踵を揃えると、私に向かって十度の敬礼をする。

「坂木二等空佐です。息子がお世話になっております」
「はっ、あっ、いえ、そんな」

私は完全に挙動不審だった。こんな狼狽っぷりを防大で見せたら、指導ものである。

こういう場面はどう対応すれば良いのかわからない。
坂木二等空佐は紛れもない上官であり、しかしこの場は私も坂木二佐も制服を着ておらず、その上今は恋人の父親を紹介されたという状況だ。リンキオウヘンってどうやるんだっけ、と脳内で漢字が浮かばないほど動揺していた。
何を口にすれば良いかもわからず、だが病室を沈黙が埋めるのも怖くて、私は苦し紛れに声を上げた。

「あっあの!私、何か飲む物を買ってきます!」

そう言って、椅子においてあったショルダーバッグを引っ掴む。

「おい、気を使うな」
「いえ、自分も喉が渇いたので!行って参ります!」

声を掛けてくれた坂木さんを躱して、私はそのまま病室から飛び出した。




   

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