第七章 再び、春の日の鬼





02




* * *



卒業式前、最後の休養日。
よく晴れた日曜日だった。

私は、坂木さんが入院している横須賀中央病院の最寄り駅ではなく、一駅隣の駅にいた。
駅前のファーストフードで、もう三時間も時間を潰している。ランチにセットを頼んだがそれはとっくに食べ終えており、今は100円コーヒーで粘っているところだ。そろそろコーヒーをもう一杯注文しないといけないかもしれない。

何時まででも待つつもりでいた。
今日、坂木さんに会えるかもしれない。



あの日以来、大久保さんは何か情報が入ると私を呼び出し、こっそり耳打ちしてくれていた。
坂木さんの面会謝絶が数日前に解けたこと。今日は大久保さんを含む四学年数名と、近藤学生と乙女ちゃんが坂木さんのお見舞いに行くこと。その二組とかち合わなければ、私も坂木さんに会える時間があるかもしれないこと。全て大久保さんが教えてくれたのである。

「坂木には、会える時間が取れそうであればみょうじ学生に連絡するよう申し伝えましょう」

大久保さんはそう約束してくれた。
あの細い目を更に細くし、にっこり笑って。



坂木さんが大久保さんに私達の関係を伝えたとは考えづらい。大久保さん自身も、「坂木からは何も聞いていない」と言っていた。
そもそも「私達の関係」だなんて、私達はただの小隊の先輩後輩だ。付き合ってもいない。
だとしたら、大久保さんは自身の五感で得た情報から、私と坂木さんの間にある特別な感情を見抜いたということだ。
坂木さんのことで大久保さんに協力してもらえるのは本当に有り難かったが、傍から見てわかるような態度を取ったりしていなかっただろうか。自戒しなければならない。



何時間待つことになるのか、そもそも本当に坂木さんに会えるかどうかもわからなかった。
だが今日は、日夕点呼ギリギリまでは待機するつもりである。
長丁場になることを見越して、私はファーストフードに勉強道具を持ち込んでいた。店内隅のボックス席で教科書とノートを広げている。

時刻は既に14時を回った。
幸いランチタイムを過ぎた店内はさほど混んでおらず、長居しても誰も気にしないような状況である。
ブラインドの隙間から午後の間延びした日差しが差し込んでいる店内で、私は勉強に勤しんで……もとい、勤しむふりをしていた。
本当は全然集中していない。集中できないのだ。
テーブルの端に置いたスマホばかりが気になって、ちらちら見てしまう。
いつ鳴るのか。本当に鳴るのか。鳴ったのに取り損ねるようなことがあっては絶対にいけない。

コーヒーの紙コップを煽ったが、ぽたりと一滴舌に落ちただけだった。もう空になっている。
そろそろ本当に注文し直さないとお店にも迷惑だと、立ち上がろうとしたその時だった。
突然ブブッとスマホが振動した。私はシャープペンシルを投げ出し、スマホに飛びつく。

じんじんと熱を持つ指先で、メッセージアプリのアイコンをタップする。
トーク画面の一番上には、坂木さんのアイコンがあった。

『今どこだ?』

私は鞄に勉強道具を突っ込み、三時間居座ったファーストフードを飛び出した。



坂木さんの病院は一駅先だが、電車が来るのを待つ時間も惜しい。そもそも横須賀線はそんなに本数が多くないのだ。
私は駅前でタクシーを拾い、病院へ直行した。
病院内は走ってはいけないとわかっているのに、足が勝手に跳ねそうになる。
逸る足を諫めながら、早歩きで廊下を進んだ。



ここは普段生活している場所と乖離がありすぎる。
動と静、とでも言うのだろうか。
汗臭い学生舎と、消毒の香りがする白い院内。
常に攻めを求められ、若さや積極性に満ちあふれている廊下と、静穏でどこか守りの姿勢を感じる廊下。
病院は私にとって非日常的過ぎて、ここに坂木さんがいるということに違和感を覚えてしまう。
だが、この静の空間に坂木さんがいるのは事実なのだ。



病室前のネームプレートには、「坂木龍也」の名前しかなかった。
ネームプレートの数からして四人部屋だろうが、今は彼一人だけなのだろう。

ノックをしようとして、自身の足が震えていることに気がついた。
両手で膝頭を押さえた。思いの外、震えが大きい。なかなか止まらない。
いつの間にかひとりでに上がってしまっていた息も、整えなくてはいけない。

私は随分と緊張していた。

ふうと大きく息を吐いてからノックをする。
すぐに中から返事があった。

「はい」

その声を聞くだけで、涙がぶわりと滲んでくる。
彼がこのドアの向こうにいる。



引き戸をガラリと開けると、奥のベッドに坂木さんがいた。
ベッドの枕に凭れ、上半身を起こしている。

左目に眼帯。
ギプスで固められた左腕と左足。
水色の病院着。

「よお」

坂木さんはそう言って、ギプスの左手をほんの少し挙げた。

抑えたはずの足の震えが再びやってくる。
立っているのが精一杯だ。呼吸が荒くなる。
気を抜くと涙がこぼれそうだ。だめだ、絶対泣いてはいけない。

「大久保から聞いた。お前、今日一日ずっと待ってたのか?」
「は、はい。一駅隣のファーストフードで。病院にあまりに近いところだと、誰かに鉢合わせたりするかもと……誤解を招いてはいけませんし」

私は入り口に突っ立ったまま、なんとか口角を上げて言う。
笑顔はちゃんと作れているだろうか。声は震えていないだろうか。心配だったが、動揺を取り繕うだけで精一杯である。取り繕えているかどうかも自信がないが、私は必死だった。

ベッドの上の坂木さんは、こんな時でも坂木さんだ。
つり上がった眉に、隙のない凜々しい表情。
この非日常の空間で、私が今まで見てきた「坂木学生」を崩さずにいる。

「悪かった、時間を無駄にさせちまったな」
「いいえ、そんなこと……ずっと自習してたんで、大丈夫、で、……」

声が詰まった。
歯を食いしばり、泣き出しそうな自分を必死に殺す。



坂木さんが無事で良かった。生きていてくれて良かった。それは本当だ。
だが、彼の痛々しい眼帯とギプスで固められている半身を見れば、別の感情が湧いてくる。
安堵と苦しいのとがぐちゃりと混ざって、胸がいっぱいなのだ。



「みょうじ……いや、」

ずっとまっすぐだった坂木さんの声が、ほんの僅かに揺らいだ。
ギプスの左手がこちらへ伸びる。



「なまえ、来い」

それがトリガーだった。
ぶわっと涙が溢れて一気に頬を伝う。
ベッドへ駆け寄って、坂木さんにしがみついた。



今だけは「後輩」ではない。「後輩」の位置から外れることを、彼が許してくれたのだ。
坂木さんは私の震える身体を抱きとめてくれた。

洋服越しでもこれだけ密着すれば、彼の体温が伝わってくる。それがとても嬉しかった。
情けなくも、私は彼の生を一瞬疑ってしまった。大久保さんから命に別状がないと聞かされるまで、生きた心地がしなかったのだ。
人の身体が温かい。
それだけでこんなにも切なくて、嬉しい。

「悪かった、心配かけたよな」

点滴に繋がれた彼の右手がぎこちなく私の髪を撫でる。私はこぼれる嗚咽を必死に抑えながら、コクコクと頷いた。
水色の病院着の胸元が、一段濃い色に染まっていく。私の涙だった。

「全治六ヶ月だ。卒業式は出られないかもしれねえ。
それに、目がダメんなっちまってな……パイロットも難しいかもしれない。
……もしかして、大久保からもう聞いていたか?」

彼の胸に埋まったまま、私は首を横に振る。

「大久保さんは、何も仰っていません。ただ……私が坂木さんに会えるように取り計らってくれただけで」
「そうか」

それ以上彼は何も言わず、私も何も言えなかった。
消毒の匂いの病院着に埋まったまま、ただただ泣いていただけだった。
一番辛い彼が泣かないのに、私ばかりが泣いて甘えてみっともないことこの上ない。だが坂木さんはそれを許してくれた。
今、この時間だけは、防大生としてではなくて、自衛官としてではなくて、女性として私を扱ってくれているのだ。



一頻り泣いてやっと涙と嗚咽が落ち着いてきたところで、ズッと鼻を啜る。
坂木さんの胸に埋めていた頭を擡げた。

「……すみません、取り乱して。もう大丈夫です」

涙をハンカチで拭いながら言うと、骨張った手がそっと私の頭から離れる。

坂木さんの顔を見れば、今まで見たことのないような優しい顔で微笑んでいた。
ゆっくりと私の頬に右手を添える。
二つの唇が触れた。

二回目のキスだった。
ただ触れるだけの、まるで花弁が唇に触れたかのような、儚いキス。

だが唇が離れても、彼の体温はまだ私の唇に残っていた。
私の体温も彼の唇に残っているだろうか。



「……生きていてくれて、良かった……」

口に出してしまえば、あまりに陳腐なその言葉。
思わず口から漏らしてしまったが、それは未熟な私の嘘偽りない本音だった。

坂木さんは黙ったまま、もう一度私の頭を掻き抱く。



坂木さんは今だけ私を「後輩」の枠から外してくれたけれど、
もしかして坂木さん自身も、今だけは「先輩」の枠から外れたかったのだろうか。

再び彼の胸に頭を預けながら、そんなことをぼんやりと考えていた。



* * *



卒業式の日は、卒業生だけでなく在校生も忙しい。
だが今日の青天が、私達の忙しさも慌ただしさも、どこか清々しいものにしてくれている。
三月某日。卒業式は、快晴だ。



坂木さんは車椅子で出席した。
医師からは、式への出席は無理だろうと言われていたらしい。だが彼は出席したのだ。自ら立つこともままならない身体で。
今日この日に、何としても応える。それは坂木さんらしい選択だった。



卒業式、任命・宣誓式、観閲式と恙なく進み、午餐会を終えた卒業生達が在校生の作る花道へやって来る頃には、もう夕方になっていた。

「帽振れ――――」

三学年の学生隊学生長付の声が響く。
卒業生も在校生も、脱帽して学生帽を振るのだ。

隣の女学を見れば涙を流している。反対側の隣は男子学生だが、彼も涙を流していた。
本当は私も大泣きしたかった。だが今日は泣かないと決めている。
これは未熟な私の、防大生としての、坂木さんの後輩としての、確固たる決意だ。
もはや意地かもしれない。だがこの意地は絶対に折らない。
坂木さんが事故に遭ってからというもの、坂木さんの前でも大久保さんの前でも無様な姿を晒してきたが、今日だけは凜々しくあろう。そう決めてきたのだ。

隊列の隙間から、坂木さんの顔が見えた。
笑っていた。



嬉しいような、苦しいような、寂しいような。呼称しがたい感情で胸が一杯になる。
今ここで、大声で泣き叫べたら。そして坂木さんの胸に飛び込めたら。
そうしたらどんなに楽だろう。



『なまえの何が大変そうってさ、自分の気持ちに嘘ついて生きるのが大変そう』
『自分の感情にフタをして生活しているわけでしょ?』

いつかの麻耶の言葉が、ふと脳内に蘇る。

麻耶、確かにそうだね。
私達は自分に嘘をついて生きなければいけない時もある。
感情を殺して、笑うことも泣くこともコントロールしなければいけない時もある。

それでも、それが士官候補生というものであるならば、やっぱり私は幸せなんだ。
坂木さんも、きっと。



坂木さんは今日防大を巣立つ。彼の未来は士官としての道に繋がっている。
私も二年後、防大を巣立つのだ。私も士官として生きていくのだ。



坂木さんと私の関係が「先輩と後輩」であるままに、今日この日を迎えられたこと。
私は誇りに思っている。





   

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