第一章 春の日の鬼





01




防衛大学校。
神奈川県横須賀市に本部を置く、日本で唯一自衛隊幹部自衛官を育成するための教育施設。
いわゆる士官学校である。
一学年の募集人員は年度にもよるが、大体500人弱。そのうち女子はこれも年度によるが、おおよそ50〜60名。
そう、防大生のほとんどが男子であり、女子は全体の一割強程度しかいないのだ。

私、みょうじなまえは、その一割を構成する一人だ。



* * *


4月1日、新年度の始まり。今日は新入生の着校日だ。
そして私の二学年の始まりの日でもある。
風船で飾られた学生舎の一室で、私は新入生の到着を待っていた。

学生舎はどの部屋も風船やら折り紙でつくった輪飾りやらで、賑やかに飾り付けられている。緊張しているであろう新入生を歓迎するための演出だ。
部屋の真ん中に置かれた長テーブルの上には、PX(売店)で購入してきたお菓子とジュース。自分たちも、一年前の着校日にはこんな風に歓迎してもらったものだ。あれから一年が経ったなんて早すぎる。

日本一忙しい大学校と言われる防大。特に上級生からのしごきや雑用が多い一年生は、毎日尋常じゃない忙しさである。
入学したと思ったのも束の間、厳しい寮生活と訓練、そしてしごきに耐えている間に、あっという間に一年が過ぎてしまった。
昨日で一学年は終わり。今日から私も後輩を指導する先輩になったのだ。

「なまえの対番、何て言う名前だっけ?」

同期同部屋の片野舞子が、紙皿にポテトチップスを出しながら私を見る。少し笑顔が強張っている気がするが、彼女もやはり上級生となってこれから一学年の面倒を見ることに些か緊張しているのだろうか。

「えーと、『岡上乙女』だって。高知出身の子みたい」
「そうなんだ …… 私の対番は『高杉悠子』だって……」

対番というのは新入生に防大のルールや習慣を教える制度だ。一人の新入生に対して一人の上対番がつく。
上対番、つまり指導をする方は、基本的に二学年が努める。4月5日の入校式までに新入生の指導をし、防大のルールを一通り教え込み、学生生活に必要な備品生活用品一式を購入してやるのだ。

『学生間通達。一一三小隊、みょうじ学生、岡上乙女様が着校しました。至急玄関まで――』

玄関で新入生を受付している四学年、大久保さんの声で舎内放送がかかった。
岡上乙女。私の対番学生が防大に着いたのだ。

「じゃ、行ってくる!」

私は舞子に手を振り、玄関へと向かった。



玄関に着くと、舎内放送をかけた大久保さんの元へまっすぐ向かう。長机の受付でパイプ椅子に座っている大久保さんは、私に気がつくと、手招きで呼んだ。私はすぐに敬礼を返し走り寄る。

「みょうじ学生、あの子ですよ。岡上乙女学生です」

大久保さんは糸目を更に細め、一人の少女を掌で指した。

きょろきょろと周囲を見回している、ミニスカートの少女。
斯くして、私の前に現われた岡上乙女は、黒髪ポニーテールの可憐な美少女だった。

玄関から入り込んでくる陽の光が逆光となり彼女の顔は少し影がかかっていたが、それでもわかる。アイドル顔負けの可愛さだ。
化粧っ気のない顔は――もっともこの防大では女学でも全員ノーメイクだが――瑞々しく、まるで初夏の白桃のよう。私と一年しか違わないというのに、彼女は随分と「少女」らしく、例えば、四文字熟語で言うなら「純粋無垢」だ。

だがよく見ると、可憐な容姿の中で一つだけ異質なものがある。
瞳だ。
意志を持った力強い目。愛らしい風貌なのに、気の強さが伺える。
率直に言って、期待できると思った。生半可な気持ちじゃこの防大ではやっていけない。このくらい強気な瞳のほうが心強い。
岡上学生は私の視線に気付くと、慌ててこちらへ向かってぺこりと頭を下げた。

「初めまして!二学年のみょうじなまえです!
今日から、岡上学生の対番として色々教えていくので、よろしくね!」

私は岡上学生に歩みよりながら、努めて笑顔で挨拶をする。彼女は私に向かって敬礼を返してきた。

「は、はい!
高知県、土佐筆山高校出身!岡上乙女です!よろしくお願いします!!」

その敬礼に驚かされた。
脇は90度に開かれ、五指も揃っており掌の向きも合っている。完璧な敬礼だ。
防大に入るというからには、敬礼の一つも覚えてから着校しようという新入生は少なくない。だがその敬礼が間違っている者が多いのだ。
無理もない、敬礼はいくつか種類がある。着帽時、脱帽時、挙手の敬礼、10度の敬礼等。入学後先輩に叩き込まれて覚えてゆくのが普通である。
だが岡上学生は間違わなかった。



その後彼女を部屋まで案内し、同部屋となる先輩や同期達を紹介した。
岡上学生の部屋は118号室、私の部屋は117号室だから別部屋なのだが、そもそもこの一大隊で女学の部屋は3部屋しかない。だからあまり同部屋も別部屋も関係なかった。

部屋での交流がひと段落した後は、彼女をPXへ連れて行く。
学生生活に必要な備品や生活用品を購入するためだ。

PXでも、彼女には少しびっくりした。
上対番は下対番である新入生に、新生活に必要な生活用品を全て自腹で購入してやるのがしきたりである。私も着校時には上対番の先輩に全て買っていただいた。
新入生は大体が18歳か19歳くらいのものが多い。高校を卒業したばかり、もしくは1〜 2年の浪人経験があっても、皆若い。
学生同士での万単位での『奢り』など経験したことがない子がほとんどだから、新入生の為に万札を何枚も出す上対番に、驚く者が多いのだ。
私もPXで、岡上学生の為に3万円以上を財布から出した。
彼女は礼儀正しく私に礼を述べた。だがしかし、彼女から「このしきたりに驚いた」という感情は読み取れなかった。
まるで、この対番制度や、上対番が下対番に何をするのかを知っていたかのような。

「ねえ、岡上学生……乙女ちゃん、って呼んでも良い?」
「あ、はい!」

乙女ちゃんは両手いっぱいにPXで買った荷物を抱えながら、笑顔で返事をする。私はその荷物を半分持ってやった。

「乙女ちゃんってもしかして、ご家族や親族に防大出身の方いるの?
なんだか敬礼も対番制度のことも知っていたみたいだから、もしかしてって」
「あっ……はい、えっと……います」
「そうなんだ!お父様とか?もしかしてお兄様とかかな。年が近ければ私も知っているかも」
「いえ、あの……」

乙女ちゃんは少し困ったように、形の良い眉を下げた。

「えっと……遠い親族が」
「……ふーん?」

今までずっとはきはきと受け答えをしていた彼女が、急にしどろもどろになった。あまりに不自然だったが、言いたくない事情もあるのかもしれない。
私はそれ以上追求することはせず、乙女ちゃんを部屋まで送り届けた。



乙女ちゃんを送り届けた後、隣の自分の部屋に戻る。
自分の部屋、117号室には、やはり同じように新入生が二名着校しており、同部屋の先輩達と先に談笑していた。
対番の乙女ちゃんだけでなく、部屋っ子(同部屋の下級生のこと)となる彼女達のことも世話をしなければならない。

「はじめまして!長田友江です!」
「高橋加奈です!よろしくお願いします!」

新入生達は教えられたばかりであろうぎこちない敬礼を私に向けた。

「みょうじなまえです!こちらこそ、よろしく!」

私も敬礼を返し彼女たちと握手を交わしたが、そこへ不遜な声が掛かる。

「なまえぉ、後ろ見ろ」

四学年の部屋長がにやにやと笑いながら私を顎で指した。
防大にいると女学であっても男子学生と変わりない行動を求められるためか、言葉遣いまで男勝りな者も多い。

「はい?」

部屋長の顎の先、この部屋のホワイトボードには、乱暴な字で私への伝言があった。

『二学年 みょうじなまえ 115号室坂木まで』

見た瞬間、ぞっと全身の毛が逆立った。

「なまえお前、何したんだ?」

先輩たちは口角を上げながら、早く行けと手を振る。

「い、行ってきます!」

私は慌てて部屋を飛び出した。
鬼のサカキからの呼び出しだ。



* * *



呼び出し。つまり、先輩が後輩をしばくために、もとい指導するために主に自室に呼びつけることである。
防大では女の子扱いなんてものはない。女学であろうがなんであろうが、男子と同様に男子部屋に呼び出されしばかれる。それがルールだ。

私を呼び出したのは四学年の坂木さん。115部屋の部屋長だ。
私は一学年からずっと第一大隊、彼と同じ大隊だったから坂木さんのことはよく知っている。
いや訂正。他大隊だって、坂木さんのことはみんな知っている。

別名、鬼のサカキ、猛犬、鬼神、等々。
とにかく怖いのだ。怒鳴り声が半端ない。彼の指導は時に常軌を逸している。
剣道部の彼はよく竹刀を持ち歩いていたが、その姿はまさに鬼に金棒。一学年の時――入学したての前期のころは特にだが――廊下を歩いているところに出くわすだけで、縮み上がっていた。いや、今でもそうだ。

しかし、今日はなぜ彼に呼び出されているのか見当がつかない。
日朝点呼、清掃以外で彼の姿を見た記憶がないし、もし気付かずに欠礼(上級生とすれ違っているのに気づかず敬礼をしないこと)していたとしたらその場で呼びつけられて注意されるはずだ。

坂木さんはめちゃくちゃに怖いが、その指導には筋が通っている。
少なくとも、私はそう思っている。

防大における上級生の指導というのは理不尽そのものだが、有事の際はいつだって理不尽だ。
いつだったか。有事の理不尽のため、今から理不尽に慣れるのだと坂木さんから諭されたときには、目から鱗だった。

坂木さんは、私たちが出来ていない時にしか怒らない。起こしたミスに目を瞑るようなことはしないが、何かをでっちあげて難癖をつけるようなことや、過去を蒸し返しての指導はしない。
それが、彼が恐れられながらも皆から尊敬されている所以だ。




   

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