第七章 再び、春の日の鬼





01




防大にも正月休みはある。
十二月の終わりから、約一週間の冬期休暇だ。私は埼玉の実家で母と二人、恙なく新年を迎えていた。



年が明けて三日目、私は麻耶とカフェで待ち合わせた。夏季休暇の時にも来たチェーンのカフェである。
彼女と会うのは夏以来だ。長期休暇を待たずとも、休養日を使えば会えないこともなかったが、私は坂木さんと山に行っていたり、山に行かなくなってからは塞ぎ込んでいたり、それに校友会もあったりした。麻耶の方も自分の生活があるし、結局腰を据えて話し込もうとするとどうしても長期休暇時になってしまう。
ほとんど会えなかったとしても、メッセージアプリのやり取りがなかったとしても、友情の形が変化しないことはやっぱりありがたい。

「あけおめー」
「ことよろ〜」

防大では絶対に行わない気の抜けた新年の挨拶を交わし、私達は隅のソファー席を陣取った。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、年が明けたわけだが、麻耶の美貌は以前と全く変わらない。
私達は笑い合いながら互いの近況報告をした。

随分と長いことソファーの上でお喋りをしていたが、麻耶の笑顔が引き攣ったのは、坂木さんの話をしていた時だった。

「……は?
付き合……って、ない?」

ゴトンと音を立てて、麻耶はバタースコッチラテのマグを木製のテーブルに置いた。形良く整えられた眉が歪んでいる。
私がこくりと頷くと、麻耶は「いやいやいやいや」と顔の前で右手をひらひら振る。

「え?待って、確認させて。
なまえはそのサカキさんのことが好きで、サカキさんもなまえのことが好きなんだよね?そう言われたんだよね?んで、キスしてるんだよね?」
「う、うん」

「キスしている」と直接的に言葉にされてしまうと恥ずかしいが、事実である。
私と坂木さんがお互い想い合っていることは確認済だし、キスもした。まるで夢か幻かのような時間だったが、あれは夢幻ではない。

「えっ……待って待って待って?なんでそれで付き合っていないの?
お互い好きで、しかもそれを承知なんだよね?」
「あ、それは内恋だから。
前にも言ったことあると思うけど、防大生同士の恋愛は御法度なんだよね」

と、カフェモカのクリームをスプーンで掬いながら答える。
だが麻耶は「はあああ〜〜」とわざとらしいため息と共に、テーブルに突っ伏した。
ため息の音が途絶え、しばらくすると美しい顔がむくりと起き上がる。麻耶は上目遣いで私を恨めしげに見やった。

「……防大生同士の恋愛がまずいなら、黙ってれば良くない?てかさ、隠れて交際している人達もいるって前に言ってたじゃん。
お互い気持ちがあるのに交際しないの?」
「うん」
「じゃあ、今のなまえとそのサカキさんの関係って、なんなの?」

関係。
そう言われると、眉を下げて苦笑してしまう。
対照的に麻耶の眉はつり上がっていた。

「そうだね……。私と坂木さんの関係は、学生隊の先輩と後輩。それだけ。以前と変わらないの。
でもね、坂木さん、この春卒業するから。卒業して坂木さんが防大生じゃなくなったら、その時に改めてきちんと付き合おうって言ってくれたんだ。
まあ……坂木さんは卒業後奈良の幹部候補生学校に行くから、すぐに遠恋になるんだけど」
「はあ!?奈良!?」

甲高い声を出して目を見開いた麻耶に向かって、シーッと人差し指を立てる。正月のカフェは初詣帰りのグループでそこそこ混んでいるのだ。
周囲の人がちらりと視線を寄越す。私は気まずそうに会釈して謝意を示した。
麻耶はそんな私を無視して、大きなため息を吐く。

「……私には、ちょっと理解できない。
春になったら神奈川と奈良?離れなきゃいけないなら、尚のこと今を大事にすれば良いと思うんだけど……」
「あ、でも、まったく何もないってわけじゃないよ。数日に一回は『おやすみ』とか『変わりないか』とかメッセージくれるし、廊下ですれ違えばなんとなく視線が優しい気もするし」
「なんだそりゃ中学生か」

心底呆れた様子の麻耶は、ソファーにふんぞり返り腕を組む。
うーんと一頻り唸って、最後に諦めたように一つ息を吐いた。

「なんかさ、やっぱり大変だね。自分の感情にフタをして生活しているわけでしょ?
せっかくなまえに恋人ができて、幸せになったんだと思ったのに。辛くない?好き合っているのに何もできないなんて。
なまえが辛い生活しているのは……やるせない気になる。私が」

ぶすっとふてたような顔で言う麻耶。
私は思わず微笑んでしまった。
彼女は本当に私のことを思ってくれているのだ。そのふてた顔は友情故だとわかるから、彼女の表情とは裏腹に、私の心はほんのりと温かくなる。

「ありがと、麻耶。
でも大丈夫。私、そういう坂木さんを尊敬しているし、多分そういう坂木さんだから好きなんだと思う。
他人にも厳しいけど、自分自身にはそれ以上に厳しい人だから」

自然と顔が綻んでしまう。
私の顔は、坂木さんを想えば綻んでしまうし、親友の思いに触れればやはり綻んでしまうのだ。
麻耶は私をちらと見ると眉尻を下げて、だが最後には呆れたように笑った。

「まあ良いか。なんかなまえ、辛そうに見えないもんね。どっちかって言うと幸せそう」

そう苦笑してテーブルの上からマグを持ち上げる。バタースコッチラテの湯気が、麻耶の吐息で揺れた。

私の大切な親友。
大丈夫、私は麻耶に胸を張って言えるよ。

「麻耶、私今、すごくすごく幸せなんだ」

満面の笑みで言えば、「惚気かよ」と悪態をつかれ、しかし彼女も満面の笑みだった。



* * *



正月休みが明けると、後期の始まりである。
防大ではよく一年間の体感時間を「前期二年、中期一年、後期三十秒」と例えられる。それだけ後期は忙しく、あっという間に過ぎ去るということだ。
休みが明けたと思ったらすぐに二学年の冬期定期訓練があり、そしてその翌月には後期の定期試験。
私の後期もご多分に漏れず、あっという間に過ぎ去っていった。



三月も中旬に差し掛かった頃。
四学年の卒業式まで、残り一週間を切ったある日のことだった。

異変は、19時35分の日夕点呼で露呈した。

「報告します!!
三小隊総員30名、事故1名、現在員29名!」

事故1名。点呼に間に合わなければ、服務事故と見なされる。
中期で、私と坂木さんがやってしまったあれである。服務事故は重大な規律違反だ。
そして驚くべきことに、事故欠員は坂木さんだった。

シンと静まり返った廊下の空気が重苦しい。
事故が発生しているだけで大事(おおごと)だというのに、当事者がまさか坂木さんだなんて。
小隊の皆がそう思っていた。

おかしいのだ、坂木さんが事故だなんて。
自分に厳しい坂木さんは、帰校遅延という言葉からは隊内で一番遠い存在だ。

中期に私と一緒に事故をおこした時は、高杉中指に先に連絡を入れていた。今回も、何かしらかの連絡を入れているのではないだろうか。
であれば、同部屋のメンバーくらいは事故の理由を知っているのかもしれない。
そう考えた私は、彼と同じ119部屋の人員を探した。整列したまま彼らの顔を盗み見る。

119部屋の人員は、皆真っ青だった。
血の気の通っていないような顔色。口を真一文字に引き結んでいる。

――何かあった。

私の心臓は、ドッドッドッと鳴り始めた。
彼らの顔色に言い知れない不安を覚える。

もう一人事情を知っているかもしれない人物にハッと思い至る。乙女ちゃんだ。
探して彼女の顔を見ると、こちらは目が真っ赤に充血し腫れている。大泣きしたのだろうか。

119部屋の皆の顔色。乙女ちゃんの腫れた目。
そこから一つの可能性に辿り着く。
ざあっと自分の顔から血の気が引くのがわかった。

今坂木さんは、どこにいる?



「みょうじ学生」

大久保さんに呼び出されたのは、日夕点呼後のほんの隙間時間だった。

「はっ、はい!」
「ちょっとこちらに」

私が敬礼するやいなや、大久保さんは人気の無い廊下の奥へと進んでいく。

大久保さんとは、特別な接点はない。中隊が一緒だからもちろん把握はしているし、同じ航空要員だから何かと行動が一緒になることもあるが、個人的に話をしたことなどほとんどなかった。
呼び出しといっても、何かを指導される空気でもない。

廊下の奥まった場所まで進むと、大久保さんは足を止めた。
くるりとこちらを振り向くと、いつも穏やかな細い目が、今日は不穏な空気を孕んでいる。

「……先に言っておきます。私は、坂木からは何も聞いていません。
これから私が言うことは、大隊の四学年の間で回っている情報です。私の判断ですぐにみょうじ学生の耳に入れたほうが良いと思ったので、お伝えします。
まあいずれ、指導教官から話もあるでしょうが……」
「……」

坂木さんの名前が出て、ひゅっと心臓が止まりそうになる。
今日の事故の件だ。四学年はもう事情を知っているということだろう。ただ事じゃないことだけはわかる。
詳細な内容はもちろん知りたいが……大久保さんが個人的な判断で私に伝えることを決めたということは、大久保さんは私と坂木さんのことに勘付いているのだろうか。
いや、今はそれどころじゃない。
坂木さんに何があったのかを一刻も早く知りたい。

「落ち着いて聞きなさい」と穏やかでない前置きをして、大久保さんはそっと私の肩に両手を置いた。

「今日の午前中、坂木が事故に遭いました。
横須賀中央で通行中、解体工事をしていたクレーン車のアームが倒れてきたそうです。
偶然傍にいた子供を庇い、崩れたブロック塀の下敷きになったと聞いています」

瞬間、心臓が冷や水を浴びせられたかのように縮こまった。

返事はできなかった。
目だけが勝手に見開かれ、私は何も言えないまま両手で口を覆ってしまう。
視界がぐるぐると回る。自分が立っているのかわからなくなるような目の眩み方だった。

「あなたにはお伝えしておいた方が良いのかと思いまして。では私はこれで」
「ま……待ってください!」

不躾にも、踵を返した大久保さんの腕にしがみつく。
その細い目が驚いたように見開かれた。

「……い……命に、別状は……ないんですよね!?」

声も、足も、大久保さんに縋ったその腕も。
私の全てが小刻みに震えている。
冷や汗が頬を伝う。
薄暗い廊下で大久保さんの瞳が動揺に揺れ、そして彼はゆっくりと私の腕を剥がした。

「……お答えできません。
私にも、わからないんですよ……」

大久保さんの口元は歪んでいた。
まるで歪む以外に、為す術がないかのように。



それから、どうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。その後の数日間、どのように過ごしていたのかも覚えていない。

坂木さんが事故で不在になってから三日後、もう防大中の全ての学生が、坂木さんの身に何があったのかを噂で把握していた頃。
私の元に新しい情報を届けてくれたのは、やはり大久保さんだった。

「命に別状はないとのことです」

呼び出された廊下の奥で、へなへなと力が抜けてへたり込んでしまった。
ひんやりとした廊下の感触が妙に生々しくて、ああこれは夢ではない、現実なのだと実感する。
腰を抜かすなど、これが有事であれば本当にあるまじきことだったが、大久保さんは未熟な私を不問としてくれた。




   

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