第六章 鬼と熱





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左手を差し出せば、みょうじは震える右手をそっと載せる。
手と手が触れたのは、あの忌まわしい事件の帰り、タクシーの中で手を重ねた以来だった。

みょうじの背に手を回すと、みょうじも俺の腕の付け根辺りに手を添える。
みょうじが触れた部分が、俺が触れている部分が、熱い。
過剰な熱が伝わっていないか、いささか不安になる。が、みょうじに触れている喜びがそれを上回った。

近藤とは全然違う、華奢な身体。
講習会で他の女学とも踊っているし、女学とホールドを組むのはもちろん初めてではない。
だがみょうじの身体は、俺の想像以上に細かった。
こんな華奢な身体で日々の訓練に耐えているのか。



ステップを一歩踏み出せば、みょうじは従順に付いてきた。
足取りは軽やかで、いつも講習会で教えている一学年共達とは比べものにならない。

クイック、クイック、スロー
クイック、クイック、スロー

みょうじはしっかりカウントに忠実なステップを踏んだ。ステップまで優等生タイプだったことに、頭の中で苦笑してしまう。
だが、資料室は狭い。棚だらけの室内は、踊るスペースもほとんどない。
みょうじはがつんがつんと、時折棚に足をぶつけていた。

「さ、坂木さん、こんな狭いところじゃ無理です」
「無理じゃねえよ、踊れてるんだからよ」

無茶苦茶なことを言っている自覚はある。
みょうじは戸惑いに視線を泳がせた。

が、とうとう順調だったステップが途切れる時が来る。
がつんと一際大きな音がした。
収納用の大型ポールに、みょうじが足を引っかけてしまったのだ。

「きゃっ!わっ……きゃあっ」

高い声が上がる。
足を引っかけた瞬間、みょうじは反射的にポールを倒さないようにと、変な方向に力を入れてしまったのだろう。足をもつれさせ、後ろへ倒れ込む。
壁の棚に向かって、後頭部から激突するところだった。

俺は咄嗟にみょうじの後頭部に右手を差し込んだ。
ガツンと剣呑な音が響く。
だが棚に強打したのは俺の右手の甲と腕で、みょうじの後頭部は無事だった。
みょうじはドスンと尻餅をつき、背中も棚に強打するところだったが、俺が棚とみょうじとの間に腕を差し込んだことで、強くはぶつからなかったようである。
俺の右手はみょうじの後頭部と棚に挟まれ、両足はみょうじの大腿部を跨ぐような形で床に膝をついていた。
図らずも、尻餅をついたみょうじに覆い被さるような大胆な姿勢になっている。

「す、すいません!」

驚いたみょうじは顔を赤らめ目をまん丸くし、狼狽した声を出す。



目と目が合った。



俺は動かなかった。
動いてやらないことに、した。

いつまで経っても俺が退かないことに、みょうじの目は動揺でゆらりと揺れる。
俺達は狭い空間で、上下に重なりながら見つめ合っていた。



* * *



狭い資料室でダンスなんてすれば、こうなることは想像に難くない。だが坂木さんが踊れというなら踊るしかない。
結果やはり私は転んでしまったわけだが、私の後頭部を守ろうとした坂木さんに覆い被さられるような形になってしまった。

「す、すいません!」

びっくりして声がひっくり返る。心臓に悪い。
事故とはいえ、想い人と上下に重なるような姿勢だなんて。それもこの防大内で。

当然、坂木さんは飛び退くものだと思っていた。「悪い、怪我は無いか」なんて言って。
だが私の予想は外れた。
坂木さんが、退かない。

私達は上下に重なったままだった。



「失礼しました、すみません、退いていただけますか」
そう言えば良い。だが声も出ない。
それならせめて視線を逸らせば良い。しかし、それすらもできない。
できないのだ、どうしても。坂木さんの視線はするどく、私をまっすぐ射貫く。

逃げたい。逃げ出したい。
しかしもう、この人は私を逃がしてくれる気はないのだと悟った。



「す、……」

何とか出した声は震えていた。
動揺っぷりが余すところなく表れてしまった声色に、自分自身が打ちのめされる。
もう駄目だ。取り繕えない。
そう思ったら、両目の奥からぶわりと涙が溢れ出てきた。

「すみません……」

掠れて滲んだ声で、そういうのがやっとだった。
両手で顔を覆う。溢れ出てくる涙をどうしても止められない。少しでも泣き顔を隠したかった。

「お前は一体何に謝っている」

坂木さんは退かない。
一歩も引かない。
私に覆い被さった姿勢のまま、固い声で問うた。

何に謝っているのか。
私が転んでしまったことに謝っているのではないことは、もう二人とも分かっている。
そんな些事じゃない。
もっと大きい感情の果てに、私達は今、こんなことになっているのだ。



彼はもう、逃がしてくれる気も、許してくれる気もないのだ。
そしてきっと彼自身もこの状況から逃げるつもりがないのだ。
私ももう、逃げられないのだ。



「すみません……
坂木小長の、こと、……好きになって……本当に、申し訳ありません……!」



絞り出した声は大きく歪む。最後の方は、ほぼ泣き声だった。
無様な嗚咽が止まらない。こんな場所で、私は泣きじゃくっているのだ。

坂木さんはまだ退いてくれない。
私はみっともない泣き顔をどうしても晒したくなくて、両手で顔を覆い続けていた。
私の嗚咽だけが空間を埋める。



坂木さんはしばらくずっと黙っていたが、やがて、ハアと大きなため息を吐いた。
呆れられたのだろう。二学年にもなって校内で大泣きするだなんて。

私は二度も失恋するのだ。
自業自得だ。九月、一度坂木さんを諦めたあの時に、きちんと気持ちを断ち切っておくべきだったのに。そうすれば今、こんな想いをしなくてすんだのに。
頼むから退いて欲しい。もう許して欲しい。
今度こそ、ちゃんとあなたへの気持ちを綺麗に断ち切るから。今度こそ。



突然、背中が暖かくなる。
坂木さんが左腕も私の背中に回したのだ。
抱きしめられているという理解は、後から追いついた。理解が追いついたことで、私は驚きのあまり嗚咽が止まった。

「だから……謝るなと言ってるんだ」

坂木小長の声は相変わらず固い。怒られているかのような声色で、私は更に混乱する。

一体何がどうなっている?
私は今、坂木さんに抱きしめられているのだ。



きつく抱きしめられていて、坂木さんの顔が見えない。
私の視界に移るのは聳え立つ棚の上方と、その更に上に、古びた天井と蛍光灯。
蛍光灯のスイッチも付けずにいたから、棚も天井も蛍光灯も、窓から入る夕焼けで橙に染まっている。



「内恋は、推奨されていない」

低く怒ったような声でそう言われた瞬間。
ああこれで終わりなのだ、と思った。

それでも良い。
坂木さんは私の気持ちを分かった上で、最後にお別れの時間をくれたのだ。
抱きしめてくれたということは、私のことは異性として見ることが出来なくても、後輩としては憎からず思ってくれていたのかもしれない。

十分じゃないか。
この無愛想な、しかし後輩思いの小長は、良い思い出を作ってくれたのだ。

私はゆっくりと瞼を閉じた。
この恋の終わりを受け入れようとした、その時。



「だからてめえ……墓場まで持って行けよ」



一瞬彼の体温が身体から離れたと思ったら、左手で顎を掬われ、唇に熱が触れる。

坂木さんの顔は、やはり見えない。
私は驚きで閉じていた瞼を開けてしまったが、それでも坂木さんの顔は見えないのだ。近すぎて。
だって今、私達はキスをしている。



顎に触れていた彼の左手が再び私の背中に回り、唇を重ねたまま、彼の筋肉質な両の腕できつくきつく抱きしめられた。

止まっていた涙が再び溢れ出す。
私はずっとこうして坂木さんに触れたかったのだ。もう離したくなくて、必死に坂木さんにしがみつく。
甘い甘い毒が全身に回るようだ。キスがこんなに苦しいものだなんて、知らなかった。

始め、押しつけられただけの唇だったが、すぐに歯列と歯列の隙間から急いた舌が入ってきて、その後は私も無我夢中だった。
もう互いの間に一ミリの隙間も入れたくない。きっと私も坂木さんも同じ思いだった。
私達はお互い一心不乱に舌を吸いあって絡ませあった。

もうこのままでは唇が真っ赤に腫れてしまうという寸前のところで、私達の舌と唇はやっと離れる。資料室に不釣り合いな湿った音が耳に残った。
私を抱きしめたまま、坂木さんも掠れた声で言った。

「もう良いみょうじ、謝るな。俺も同罪だ」

きっと私は、はい、と返事をしたのだと思う。
涙でびしょびしょの顔を坂木さんの肩に押しつけながら、必死にコクコクと頷いた。

「いや……違うな。俺の方が、罪が重い」

ハァと再びため息を吐いた坂木さんは、観念したように天井を見上げた。

「俺の方が多分、お前よりも先だったよ」



* * *



先に資料室を出たのは、私のほうだった。
涙を拭き髪を整え、勿論校内服の埃は払って。資料室を出る前に坂木さんに服装をチェックをしてもらい、何事も無かったかのように廊下へ出た。
私が出た後時間をおいてから、坂木さんも資料室を出たのだろうと思う。



お互いの気持ちが通じ合っているのは分かったが、何が変わったわけでもない。
内恋は禁止なのだ。
私達の間の何かが変わってはいけないのだ。少なくとも、互いが防大生である間は。
だから、変化は墓場まで持っていく。
それが坂木さんとの約束だ。



その日の就寝時。ベッドの中でヴヴッとスマホが震えた。

『おやすみ』

坂木さんからのメッセージだった。
個人的にメッセージをもらったのは、いつぶりだろうか。

今は、これで十分。これ以上何も望まない。
涙がじんわりと滲み、視界が歪む。

『おやすみなさい』

滲んだ視界のまま、それだけを返した。
すぐに既読が付く。
返事は無いが、坂木さんが今どういう気持ちかはわかっているから何の憂いもない。

坂木さんも今、私と同じ気持ちのはずだ。
きっとそうだ。



そのまま瞼を閉じ、私は幸せな心地で眠りについた。




   

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