第六章 鬼と熱





03




* * *



「小付、気ぃ抜いてんじゃねえぞ!!」
「はっ!?はいっ!!」

自習室に近藤を呼び出し、伝達事項を言いつけた後に背中をバシンと引っぱたいてやった。
近藤は何で引っぱたかれているのか分からないのだろう、返事が裏返っている。

「情けない声出してんじゃねえ!俺たちは今だって課業中だ、気ぃ抜くな!」
「は、はいっ!」

別に近藤に非があるわけではない。
小付にしたばかりのころはメンブレ(メンタルブレイク)寸前まで陥った近藤だったが、見事克服し、今や一学年小付として小隊全員から認められている存在だ。贔屓目抜きに、よくやっていると思う。
背中を引っぱたいたのは気合いを入れるため……という大義名分だ。
「気合い」なんて、便利で一歩間違えれば時代錯誤な言葉は、往々にして名目に使われるものである。



本当のところは、ただの八つ当たりである。
昨日こいつとみょうじが、中庭でダンスの練習をしているのを見た。
恐らく、近藤が一人でダンスの練習をしているところにみょうじが通りかかり、手伝いを申し出たのではないだろうか。さすがに二人で待ち合わせてダンスの練習をするような仲ではないだろうから。

近藤はみょうじの背中に手を回し、腰を密着させ、ステップを踏んでいた。ゆうに三十分以上もだ。
その間何を話していたのかは知らない。だがみょうじは、ケラケラと大口を開けて笑っていた。
近藤に気の利いたトークができるとも思えないが、とにかく結果として、近藤はみょうじを笑わせたのだ。
俺はその様子をただ窓から見ているだけだった。



K山で見せた、あの花が咲いたような笑顔が忘れられない。あの笑顔を、守りたいし側に置いておきたいと思ったのだ。
だが、最後にみょうじと二人だった時、あいつは泣き腫らしていた。

今、みょうじと俺の距離は遠い。
あんな大口を開けた笑顔、きっと俺は見ることはできないだろう。今の俺は、近藤よりもみょうじから遠い位置にいるのだ。

八つ当たりは、心を許した後輩に対する甘えである。
このくらいの理不尽な指導は許して欲しい、と自分勝手なことを心のなかだけで独り言ちていた。



* * *



校友会を引退すると、課業終了から入浴までの時間に少しだけ余裕が出る。
俺は年明けすぐに提出となる卒論を進めるために、自習室へ向かっていた。
その時、廊下の遙か先にみょうじの姿を見つけた。

みょうじは、授業で使用したと思われる世界地図や教材やらを抱きかかえている。恐らく授業後、教官に片付けを頼まれたのだ。
あいつはもともと大して身体が大きくない。黒板に掛けられる大判の地図なんかを抱きかかえた状態では、よく前も見えていないのだろう。そのまま俺に気付かず、教材の収納場所である資料室へと入っていった。欠礼については大目に見ることとする。
欠礼といっても、まあみょうじの目が特別悪いわけではない。俺のほうがおかしくなっているのだ。
こんな遠くからでもみょうじの姿形が分かるくらい、あいつのことを考えているのだから。



ふと、近藤と踊っていた時のみょうじの笑顔を思い出した。
ぶわりと腹の底からどす黒い気持ちが湧き上がってくる。
この感情の名を知っている。
嫉妬だ。

足が、勝手に廊下を進んだ。

行ってどうするんだ?みょうじに何を言うんだ?脳内で、俺が俺を引き留めようとする。
だが足が勝手に動くのだ。
俺は、みょうじに会いたい。



資料室のドアの前まで来たときに一瞬だけ足が竦んだが、本能が理性を打ち負かした。
俺は勢いよく資料室の引き戸を開けた。

「――っ!」

突然のガラガラという大きな音に驚いたのか、みょうじは資料室の棚の前でびくりと肩を竦め、入り口の俺をバッと振り返る。

「っ、さ、坂木さん!こんにちは!」

資料を慌てて片手で抱え直し、ビッと敬礼をする。俺も敬礼を返した。
自身の表情はなんとか崩れていなかったと思う。その一方で、一体ここに何をしにきたのだと心の中で頭を抱えている自分もいた。

「教材を片すように言われたのか」

思いの外口は普通に回る。たわいない雑談がするりと出てきたことに、自分でも驚いた。

「は、はい。今日校友会が休みで……教室に残って勉強していたら、教官に頼まれました」
「そうか」

みょうじは大判の地図やらを棚に戻しながら答えた。
俺からは目を逸らして、棚の方しか見ない。いっそ頑ななほどに。



「……久しぶりだな」

核心に近いことを言った。
みょうじの顔が固まったのがわかった。

そう、「久しぶり」なのだ。
同じ小隊で、同じ学生舎で、いつも顔は合わせている。いつも先輩後輩の間柄のままこの檻の中で過ごしている。
だが、二人きりになるのは久しぶりだった。

「久しぶり」という台詞はつまり、あのK山で二人きりだった時間がただの先輩後輩の間柄じゃなかったことを示唆するものだ。
きっとみょうじもそれに気付いている。
気付いていながらシラを切るかどうかは、みょうじ次第だ。

ゆっくり、ゆっくりと。みょうじはノロノロと教材を棚に戻す。
最後の一つを片付けてしまうと、覚悟を決めたのだろうか、それまでの緩慢な動きを振り切るかのように勢いよく俺のほうへ振り向いた。

「あのっ!その節は本当に申し訳」
「止めろ」

がばっと頭を下げたみょうじを固い声で制止する。
突如謝罪を遮られたみょうじは、腰を折ったまま首から上だけ持ち上げて、恐る恐る上目遣いで俺を見た。

「止めろと言ったんだ。頭を下げるな、上げろ。
お前は何か謝らなきゃいけないことをしたのか?」
「……坂木さんにご迷惑を……」
「その話なら、あの日済んだはずだ。てめえの事だけを考えていろと言っただろうが」

強い口調で言えば、みょうじは気まずそうな顔のまま、ゆっくりと折っていた腰を元へ戻した。

そのまま、互いに一言も発さない。動きもしない。
グラウンドから、野球部の声や金属バットの音が聞こえる。

永遠とも思えるような沈黙を終わらせたのは、俺のほうだった。

「この間、中庭でダンスしてたな」
「――えっ?」

脈絡無くダンスなどと言われたことに面食らったのか、みょうじは俯いていた顔をぱっと上げる。
図らずも彼女の顔をはっきり見られたことに、俺の胸はほんの少しだけ高鳴った。

「近藤とダンスしてただろうが。
クリダン、出るのか?講習会にはいないようだが」
「あ、あの……クリダンは出ないんです。バドミントン部の大会があるので……。
近藤学生が自主練していたところに偶然通りかかったので、練習に付き合っただけです」
「なんだ、近藤には随分優しいじゃねえか」

ふんと敢えて鼻を鳴らして言えば、みょうじは慌てて弁解する。

「ち、違います!同じ小隊の後輩が頑張っているのを見れば……助けたくなるじゃないですか!」
「はっ、まあ道理だな」

久々のみょうじとの会話が思いの外スムーズに進んでいること、みょうじの顔を正面から見られたこと。
さっきから鼓動が煩くて、早い。俺は浮かれているのだろうか。



「なあ、俺とも踊ってくれよ」
「――え?」

それは、考えて出てきた台詞ではなかった。
みょうじの顔を真正面から見ることができたら、反射のように口から滑り出てきたのだ。

一瞬、俺は一体何を言っているのだと焦る。
だがもう口から出てしまったものは取り消せない。
それに、みょうじと近づけるのであればそれは願ったり叶ったりだった。

もっと近くでお前の顔が見たい。
今お前が何を考え、何を思っているのか知りたい。
お前を笑顔にしたい。

「お、踊るって……ここで、ですか?」
「そうだ」
「だって……ここは狭いですし……坂木さんはクリダン出るわけじゃないんですよね……?」
「お前、近藤とは踊れて俺とは踊れねえのか」
「ちが、違います!そういうわけでは!」

みょうじは慌ててぶんぶんと両手を胸の前で振り否定する。

この季節、もう日が短い。電気もつけていなかった資料室は、窓から入る橙色だけが頼りだ。
みょうじの顔も橙に照らされているが、その下で、本当は赤く染まっているのかもしれないと思った。
――希望的観測すぎるだろうか。




   

目次へ

小説TOPへ




- ナノ -