第六章 鬼と熱





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* * *



開校祭が終わって、十一月下旬。気がつけば、私の髪は随分と伸びていた。
元来髪が伸びるのが早いほうだったのかも知れない。私の坊主頭に近かった髪の毛も、もうショートヘアと呼べる長さだ。
自戒の意を込めてこのまま坊主頭でも良いのではと思った時期もあったが、女性の坊主頭は人目を引きすぎる。
休養日に外出する際、周囲からギョッとした目を向けられればやはり居たたまれなくなった。防大生でさえ驚く髪型に、シャバの人間が驚かないわけないのだ。
それに、坊主頭の一番の目的である「坂木さんは悪くないと学内に知らしめる」ことは、充分に達成できただろう。
そんなわけで私は再び学内の理美容室へ向かった。短めではあるが、一応ショートヘアに整えてもらったのである。



「あ、いた!みょうじ学生!」

理美容室からの帰り、廊下で後ろから声を掛けてきたのは四学年の女学、池田さんだった。

「こんにちはっ!」

慌てて振り向きビッと敬礼をすると、池田さんも敬礼を返す。

「探してたのよ。今年もみょうじ学生の力を借りたいなって」
「何ですか?」
「クリダンよ」

クリダン。クリスマスダンスパーティーの略である。
もうそんな時期かと、時の進みの早さに驚いた。

士官であれば、嗜みとして社交ダンスの心得も求められる。
士官学校である防大では、サマーダンスパーティー、クリスマスダンスパーティー、そして卒業ダンスパーティーと、年に三回ほど社交ダンスパーティーが行われるのだ。
防大内ではなく外部の施設を貸し切り、男女ペアで社交ダンスを踊る、華やかな一大行事である。
クリスマスダンスパーティーは毎年十二月初旬に開催される。
ダンスパーティーの主催はアカシア会(校友会の一つ、社交ダンス部のようなもの)だ。池田さんは女学ながらアカシア会の部長を務めている方である。

全学生の九割を男子学生が占める防大。
ダンスパーティーの男性参加者は、いつも募集人数に対して定員オーバーだ。毎回抽選によりパーティーの参加者を決めている。
対して、女性参加者は慢性的に不足気味だ。防大内では女学にも幅広く声が掛けられるが、それだけでは物理的に足りず、毎回外部から多くの女性を招いている。
クリダンは、常に女性との接触に飢えている防大生が堂々と女性の手を取れる数少ない機会だ。
男子学生の多くが、パーティーへの参加権を手にすべく、なんとか抽選に通るようにと申込書に念を込めているのである。

「去年みょうじさん、参加してくれたでしょ?
初心者ながら飲み込みが早かったし、上手だったから、今年も是非お願いしたいと思って。
何かダンス経験とかあったの?」
「いえ、特にそういうわけではないのですが……」
「そうなの?まあどちらでも良いんだけどね、とにかく今年もクリダンに参加して欲しいのよ。
例年通り女性が不足していて。ね?」

池田さんはパチンと両手を合わせ、頼み込むポーズを取る。
協力したいのは山々だが、今年はクリダンに参加できない理由があった。

「あの、大変申し訳ないのですが、今年はクリダンの日とバドミントン部の大会の日が被っていて。
去年は地区予選で敗退していたので十二月にまで食い込まなかったのですが、今年は本戦がクリダンの日なんです。私も試合に出場予定で……申し訳ありません」

丁寧に頭を下げると、池田さんは残念そうな声を出した。

「あら……それじゃ仕方ないわね。
じゃあ、せめて講習会だけでもお願いできない?」
「講習会?」
「ほら、昼休みや校友会後に行うダンス初心者向けの講習会。
アカシア会と外部協力者が講師を務めるけど、社交ダンスにはペアとなる相手が必要でしょ?踊れる学内の有志にも協力してもらっているの。
とにかく女性要員が少なくてね。本番は出なくても良いから、講習会だけでも協力してもらえると嬉しいんだけど」

それなら協力できるかも、と返事をしようとしたところに、池田さんの声が追いかけてきた。

「そうね、一大隊だと、ええと……西脇君や坂木君なんかが講習会に協力してくれる予定なの。二人とも本番は出ないんだけど」

名前を聞いただけだ。
名前を聞いただけなのに、心臓が跳ね、喉が詰まる。
急に固まってしまった私を池田さんは不審に思わなかっただろうか。

「あの」

平常を装って出した声は、裏返る一歩手前だった。
胸がひりひりする。

「すみません……大会前なので、校友会活動も時間が多少延長される可能性が……。
協力したいのは山々なのですが、安易にお受けしてしまうと却ってご迷惑をかけるかもしれません。
申し訳ありませんが、遠慮させて下さい」

咄嗟にもっともらしい言い訳を紡ぐ。
嘘ではない。校友会終了後に自主練の時間を設ければ嘘にはならないはずだ。

「そう、残念」

池田さんは肩を竦め苦笑する。
私もそれに合わせて、曖昧な笑顔を浮かべた。



クリダンの募集要項が掲示板に張り出さると、学内は俄に浮き足立つ。すぐに男子学生の枠は埋まった。
その後しばらく経ってから、女性参加者が増えたとかで男子参加者の二次募集がかけられた。学内はもう一度浮き足立った。

風の噂によると、女性参加者を増やせたのは坂木さんの小付をやっている一学年の近藤学生の働きのおかげらしい。
どうにか女性参加者を引っ張ってこられないかと、アカシア会に頼み込まれたとかなんとか。

近藤小付については、女性関係が派手だなんて話も聞くけれども、私にはそうは見えなかった。確かに顔が良いから女性にもてるのかもしれないが、あまり器用そうなタイプには見えない。
それに、開校祭での棒倒しでの頑張りは大隊の誰もが知るところだし、真面目な努力家だからこそ上級生からの頼みになんとか応えようと、女性参加者を集めてきたのではないだろうか。
そういう彼だから、坂木さんも買っているのだろう。
私はそんな風に勝手に思っていた。



クリダン目前になると、池田さんが言っていた通り、昼休みや校友会後の時間にPX上の講堂で講習会が行われるようになった。
そこに坂木さんも参加しているのなら、私はなるべくそこには近づかないようにするまでだ。



坂木さんとは小隊まで一緒だ。
その上坂木さん自身が小長であるのだから、完全に接触を無くすことは不可能である。小長には小隊の人間の状態を把握し管理する務めがあるのだから。
だが、できる限り接触を避けるよう努めていた。
致し方なく一緒になることがあっても、とにかく心を無にし、平常心を装うのが私の常になっている。

坂木さんの方はまったく「装う」ことなど無いのだろう。
点呼や掃除の際距離が近くなることがあっても、彼の表情から動揺や困惑の類の感情は一切読み取れなかった。
「装う」までもなく、私のことなど本当に一後輩としてしか見ていないのだろうと思っている。

だって、坂木さんだ。
坂木さんは、一人の後輩女学のために感情を揺らすことなどきっとない。乙女ちゃん以外には。
それが、坂木さんなのだから。
「坂木君が内恋なんてするはずない」と、あの女学に言わしめた坂木さんなのだ。



* * *



翌日の夕暮れ時、自室へ戻るために廊下を歩いていると、中庭で一人ダンスの練習をしている者がいた。近藤学生だ。
真剣な表情が、夕日に照らされている。
もう夕方はだいぶ寒くなったというのに、どれだけ踊っているのだろう、彼の前髪やもみあげからは汗が滴っていた。

私は、廊下から中庭へ続くドアを押し開けた。

「近藤学生」
「あっ……みょうじさん!こんちはっ!!」

足を止め、ビッと敬礼をする近藤学生に、私も敬礼を返す。

「クリダンの練習?」
「あ、はい……動きがまだ固いと、坂木小長に指摘されていまして」

近藤学生は後頭部に手をやり恐縮した。
坂木さんの名前が出るだけで、私の心臓はひゅっと一瞬動きを止める。

そう、近藤学生は坂木さんの小付なのだ。
きっと期待されている。可愛がられている。それはよく分かっていた。
以前二人でK山で過ごしたときにも、近藤学生の名前がよく話題に上がっていた。
坂木さんは一人の後輩を特別扱いなどはしないが、でも心の中では特別に可愛がっているはずだ。

「練習、相手しようか」
「えっ?」

申し出は自然と口から出ていた。
突然の私の申し出に、近藤学生は面食らった顔をしている。

「私で良ければだけど」
「えっ、いや、助かります!自分一人じゃやっぱり感覚が違うので……お願いします!」

近藤学生は私に向かって、がばっと勢いよく頭を下げた。
日はだいぶ低くなってきたが、完全な日没まではまだもう少し時間がある。多少の練習はできるはずだ。
坂木さんの可愛がっている後輩が頑張っているなら、手助けしてあげたい。私はきっと無意識にそんなことを思っていた。だからこそ、練習相手を申し出たのだと思う。

「じゃ、いくよ。基本のステップから。
クイック、クイック、スロー、クイック……」

私は彼とホールドを組み、ステップを踏み出す。
近藤学生は慌てて私に従うかのように、ステップを合わせ始めた。

「ちゃんとリードして。腰ももっと近づけて。
他大学の女子はダンスの経験なんてない子のほうが多いんだから、近藤学生が引っ張ってあげないと」
「はっ、はい……」
「クイック、クイック、スロー……」

女性とのホールドに少々動揺している様子が見て取れた。
まあ、無理もない。防大内で行われている講習会では圧倒的に女性が不足しているため、男性同士でホールドを組んで練習することの方が多いのだ。
男性が女性の手を取り、背に手を回す。
男女がこんなに密着することなど、防大の中では年に三回のダンスパーティーの他にない。
日頃異性との関わりがほとんどない男子学生達が、女性の身体に密着した際に情けないことにならないように。講習会には、そんな側面もあるのだ。

唇を真一文字に結び、汗をだらだらと掻きながら必死にステップを踏む近藤学生がなんだかいじらしくて、私は少し彼をからかった。

「近藤学生、ダンスに一生懸命になるのは分かるけど、トークも忘れないで」
「トーク?」
「黙ってダンスするのは無しだよ。女性と踊っている時は笑顔で楽しく会話するのもマナーなの。会話は男性からリードしてね。
ほら、なんか楽しい話して」
「たっ……楽しい……話、ですか!?」
「そう」

あたふたとしながらステップが崩れ気味になる近藤学生を見て、苦笑してしまう。
まだまだ辿々しいステップで、更にその上トークなど、今の彼にはちょっと難しいだろう。
だが近藤学生は食らいついてきた。

「あ、あの!」
「うん」
「みょうじさん、髪伸びましたよね!美容室行かれたんですか?その髪型、すごく似合ってます!!」

私はきょとんと目を丸くしてしまった。

トークと言われて、目についた髪型のことが咄嗟に口から出てきたのだろう。もしかしたら誰か先輩達から「女性の髪型が変わったら取り敢えず褒めろ」とか吹き込まれているのかもしれない。
だが、この場合明らかに話題の選定ミスだ。
私が坊主頭にしていたことを学内で知らない人間はいないだろうし、ファッションや個人的趣向が理由で坊主頭にしていたわけではないこともまた、学内で知らない人間はいない。
私の髪型はワケありだったということを思い出したのだろう。近藤学生の顔色が一瞬にしてざーっと青くなる。

「いやっ、今のは、その、あのっ……」
「――ぷっ、あっはは!!」

しどろもどろに弁解を始める近藤学生に、私は噴き出して大声で笑ってしまった。

「す、すいません!俺、話題無神経でしたよね」

萎縮して歩幅が小さくなる近藤学生を、私はステップで引っ張った。

「あはは、いいよいいよそんなこと。
それよりほら、胸張ってちゃんと私をリードして?」
「は、はい……」
「クイック、クイック、スロー……」

近藤学生に気まずい思いをさせてしまった。
どうすれば良かったのかわからないという顔で、それでも懸命に胸を張りぎこちないステップを踏む彼に、庇護欲が湧く。
なんというか、弟みたいに可愛いなと思ってしまった。私の弟はもうこの世にはいないけれど、生きていたらこんな感じなのだろうか。

「……いや、こんな守銭奴じゃないか?
成績もそんなに良くなかったような」
「は?」
「いやいやこっちの話」

ステップを踏みながらくっくっと笑っていると、近藤学生もつられて曖昧に笑う。

「そうそう、笑顔でね」
「はいっ」
「クイック、クイック、スロー、クイック、クイック、スロー……」

日没まであと少し。私達は屋上でくるくると回り続けた。
日が沈む直前になって、近藤学生のステップはやっと軽やかになってきた。




   

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