第六章 鬼と熱





01




強制的に季節は進む。
ちっぽけな人間が、何を思っていようが、何を憂いていようが、そんなことはこの星の理に関係がないのだ。



みょうじが坊主頭になった日を境に、俺とみょうじの関係は変わった。

元々頻繁に連絡を取り合っていたわけじゃない。平日なんて口を利くことはほとんど無かった。
ただ月に数回山の中で合う俺達は、きっとただの先輩後輩ではなかったはずだ。少なくとも俺の方は。
週末、大自然の中二人だけで会えば、厳しい訓練でささくれ立った心が凪ぐようだった。俺だけが見られるみょうじの笑顔が、厳しい平日を乗り越える糧になっていたことは確かだ。



みょうじが痴漢に合ったその翌週、俺は土曜も日曜もK山に行ったのだ。
だがみょうじは来なかった。

俺は川の中に立ち釣り竿を持ってはいたが、最早釣りをしてはいなかった。
ただ突っ立って釣り糸を垂らしているだけで、魚を釣ろうなどという意識はとうに頭に無かったのである。
みょうじは来るだろうか。日がな一日、それだけを考えていたのだ。

俺達は約束をしていたわけじゃない。だからみょうじが来なくても何もおかしくはないのだが。
そもそもみょうじが来たとして、俺は彼女に何と声をかけるのだろう?

「お前に怪我がなくて良かった」?
「周りの奴らが言うことなんか気にするな」?
「守ってやれなくて悪かった」?

どれもこれも無粋で気の利かない台詞だ。自分にうんざりしてしまう。
それでも、俺はみょうじに会いたかった。
会ってどうする。だが会いたい。
そんな葛藤を、あの日からずっとしている。

平日は課業と訓練にとにかく集中したかったため、みょうじから意識を反らすよう必死だった。
彼女が視界に入れば、どうしたって気にしてしまうのだ。
顔色は悪くないか、苦しんでいないか、髪の毛は伸びたか。
みょうじだけを特別扱いするわけにはいかないため、校内ではなるべく視界に入れないようにしていた。



九月の第四週、金曜日。
明日明後日は土日で休養日だが、九月最後の週末となる。
十月になるとK山の川は禁漁期間に入るため、釣りができなくなる。俺があの川に行く口実がなくなるのだ。

その夜、消灯時間後。ベッドの中でスマートフォンの画面を見つめながら、俺はメッセージアプリを開いた。

『明日、明後日は空いているか?』

こんな風に直接的に予定を聞くのは初めてだった。送るか送らないか、随分と長いこと悩み、やっとのことで送信ボタンを押す。
スマホはこちらの気持ちなどお構いなしに、ボタンを押すとすぐさまスイッとメッセージを送信した。もうみょうじに届いているはずだ。
柄にもなく心臓がばくばくと鳴っている。

既読はすぐについた。
自身の心臓の音が一段と大きくなった気がして、そんなわけはないのに部屋の奴らに聞こえているのではないかと心配になる。
明日でも明後日でも良い。みょうじがK山に来られるのであれば。
幸い校友会もない。この週末が最後のチャンスだと思っていた。

きちんと言おう。
守ってやれなくてすまなかった。
守りたいと思っていた。今でも思っている。
お前は俺にとって特別なんだ。
そう言おうと、心に決めていた。

既読がついたにも関わらず、返信はなかなか来ない。まさか読んでおいて寝落ちってことはねえだろうなと、やきもきしながら待つ。
ようやく十分が経過した頃、ヴヴッとスマホが振動した。

『空いていません。すみません』

端的な拒絶は俺の胸に突き刺さった。
予想していたよりもずっと傷ついている自分がいた。

もう、俺から離れたいのだろうか。
きっとそうなのだろう。あんなことがあって、痴漢からも周囲の目からもみょうじを守れなかった俺に、傍にいてくれという権利もない。



布団の中で、は、と息が漏れた。
これで良い気がする。収まるべきところに収まった、そんな気がする。

川は禁漁期間に入る。俺はもうあの山へは行かない。
一時内恋を疑われた俺達だったが、内恋の事実はない。服務事故を起こし学内に混乱を招いたことを反省し、今後は疑われるような行動を取らない。
俺もみょうじも、もう週末に会うこともない。今後は、小隊の後輩として指導する、それだけだ。
それがあるべき姿じゃないのか。

そこまで考えて、はたと気付いた。
そもそもが俺達はただの先輩後輩で、それ以上の関係は何もなかったじゃないか。

だって、俺は何一つみょうじに伝えていないのだから。

ああ、俺は失恋したのか。
そう思い至ると、全身から力が抜けていく。

布団の中で長いことスマホをぼんやりと眺めていた。
みょうじの寄越した『空いていません。すみません』の文字はとても無機質だった。

『わかった』

そう一言だけ返信する。
すぐに既読がつき、会話はこれで終わった。

俺はスマホの画面をオフにし、枕元へ転がした。



* * *



強制的に季節は進む。
私の意思とは関係なく、時間は進むのだ。
無情だろうか。そんなことはない。
私は時間の経過に、確かに救われている。



人の噂は七十五日と言うが、七十五日経たないうちに、私やら坂木さんやら放校処分となった四学年やらの噂は収束していった。
十一月中旬に行われる開校祭の準備が始まると校内はそれ一色になり、それ以外の話題はほとんど出なくなったのである。



痴漢にあったあの日以来、K山へは行っていない。
坂木さんへの思いを断ち切ろうと思えば、行けなかった。それに元々、私達は約束をしていたわけではない。

九月の最終週に坂木さんからメッセージが来たことがあった。
金曜日の消灯後に、一言だけ。
『明日、明後日は空いているか?』という、短いメッセージだった。

空いているか――つまり、K山に来るのかということだ。
坂木さんはきっと、私と会おうとしてくれていたのだと思う。
自らの心に真に正直になれば、坂木さんに会いたかった。会ってどうするのかは、わからないけれど。
だが私は、会いに行かなかった。

彼からメッセージが来たのはその一回のみ。
それ以降は一切来ていない。



坂木さんは同じ小隊の先輩だから、何かあれば指導されるが、私は元々先輩からの指導が多いわけではない。二学年ともなると、やるべきことをきちんとやっていればおかしな指導はされないものだ。
対番としての乙女ちゃんについての報告も、今ではほとんど無くなっていた。乙女ちゃんも防大生として順調に歩んでいたし、彼女は遠泳でリーダーを務めるほどのできっ子だ。問題や報告すべきだと懸念される事項は、この頃にはほとんど無くなっていた。

結果、私と坂木さんは学内では大きく関わることもなく、個人的にメッセージをやり取りするようなこともほとんどなく。
あるべき姿である「ただの先輩後輩」の関係に戻ったのである。



「好き」という気持ちはこんなに厄介だっただろうか。
決して多くない恋愛経験を振り返ってみれば、高校生の時はもっと単純で簡単だった気がする。
「好き」だと思って「告白」して、OKだったから「交際」する。もしくは「好き」だと「告白」されて、付き合ってみてもいいかなと思ったから「交際」する。

防大生だから厄介なのだろうか。交際が出来ない相手だから厄介なのだろうか。
それはもちろんそうだが、それ以前に私が坂木さんに抱いている「好き」が、今まで自分が経験してきたものと全然違うように感じている。
好きは好きなのだが、「好き」の中に「尊敬」「敬愛」「憧憬」が混ざっている。
坂木さんへの「好き」は、私が今まで経験した感情よりももっと複雑で重厚なものになっていた。



坂木さんへの「好き」を断とうとして早二か月。
十一月中旬、今年も開校祭が行われた。

今年の棒倒し(開校記念祭のメインイベント。大隊毎で戦う。相手チームの棒を三十度、三秒以上倒した方が勝利というもの)、我が一大隊の総長は岩崎さん、そして、猿(棒の先端に乗る司令塔)は坂木さんだった。
私は応援席から猿を見ていた。
応援席からでは棒の上で何を言っているのか全く聞こえないが、声を張り上げながら敵を蹴散らしていく猿の様をずっと見ていた。

釘付けというのはこういうことを言うのだろうと、後からぼんやりと思った。
棒倒しの間、坂木さん以外は私の目に入らなかったのだ。



今年の優勝は一大隊だった。
悲願を果たし、ウィニングロードを練り歩く隊列を、そしてその中心で岩崎さんと肩を組む坂木さんを見ているうちに、気付いてしまった。
私はまだ全然、「好き」を断てていない。




   

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