第五章 鬼の流言





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* * *



昨日の夕方に四学年の女学が起こした騒ぎは、秒で防大内を駆け巡った。
曰く、俺に恋愛感情を抱いていた女学が、俺とみょうじの内恋を疑いみょうじに刃物を突きつけたと。
幸いみょうじに怪我はなく、だが怪我の代わりにみょうじは髪の毛を失った。
昨日の日夕点呼で見かけたみょうじの髪型は、周囲をぎょっとさせるには十分すぎるものだった。あんな――あんな、懲罰のような。

刃物事件と同時に、俺達の帰校遅延の真相も学生間に広がった。みょうじがそうするように仕向けたのだろう。
彼女が電車内で痴漢に遭い、それを偶然居合わせた(実際には偶然ではないのだが)俺が助けた、帰校遅延は警察署で事情聴取を受けていたためだという内容は、その日の夕食時にはほぼ全ての学生に知れ渡っていたのではないだろうか。俺はその夕食時を境に、急に賞賛されるようになったのだ。
臨機応変に対応し、後輩女学を卑劣な痴漢から救った。それが俺に与えられた賛辞だ。
俺とみょうじの誤解――そう、誤解だ――は解けたわけだ。恐らく、みょうじの思い通りに。
誤解は解けた。だがその代わりに流布されたのは、みょうじが痴漢に遭い、その上俺に惚れている女学に逆上されて刃物を向けられ、あまつさえ髪の毛を失った、という事実である。



「坂木小長、さすがです」
「本当に。俺だったら同じようにできたかどうか」
「他人の変化に気付いて迅速に行動を起こす……見習いたいです」

夕食時、無邪気な後輩からの賛辞に、苛立つことしかできない。
主菜の肉野菜炒めは、まったく味が感じられなかった。食欲が無い。しかし食わないわけにもいかない。俺はまるで一学年の時のように義務的に飯をかき込んだ。

「無駄口を叩いてねえでさっさと食え」

自分の皿を空にすると、後輩に睨みを利かせながら俺は先に席を外す。後輩は「賞賛したのに何故睨まれているのか」と理不尽に肩を落としていた。



刃物を持ちだした四学年は、即日放校処分となったと人伝に聞いた。みょうじが望まなかったために警察沙汰にはしなかったと聞いているが(そして恐らく防大側も望まなかった)、その女学が行ったことは立派な暴行罪である。

俺に向けられていた内恋疑惑の視線は、すっかり賛辞の視線に塗り変わった。それがとにかく居心地悪く、不愉快だった。
なぜ俺が褒められている。みょうじをK山へ誘ったのは俺だ。
いや、明確に誘うようなことはしてこなかった、それは互いのために。だが俺は、みょうじとK山で過ごす時間を大切に思っていたし、一緒に居られることを好ましく思っていた。俺は惚れているのだ、みょうじに。
内恋?その通りだ、内恋だ。みょうじが俺をどう思っているかは知らない。確認したことなどないのだ。だが少なくとも俺はみょうじに恋愛感情を抱いている。



* * *



「かしらー右ぃ!!」

雑念が頭から離れない。日朝点呼での号令が、ぼんやりと脳内で木霊する。
集中しろ、こんなんじゃだめだ。

今まで内恋を批判してきた。それなのに、批判してきた奴らと同じ轍を踏んでいる。恋愛に現を抜かし注意力散漫になる、隊内の風紀を乱す。
一旦、みょうじのことは置いておこう。自分自身をまず立て直さないといけない。惚れた腫れたはその次だ。
そう思えば、乾布摩擦をする手に力が入る。

点呼と乾布摩擦が終わり、清掃のための移動が始まった。
その瞬間だった。みょうじと同期に当たる二学年の男子学生の私語が、耳に入ってしまった。

「あっ……みょうじだ……」
「髪、ちょっと可哀想だったよな」
「帰校遅延は、電車で痴漢されたところをたまたま坂木小長が助けただけなんだろ?
でもさ……あの明るくて気丈なみょうじが、自分で対処できない痴漢って……」
「な、一体何をどこまでされたんだろうな」
「もしかして……みょうじって処女なのかな。それなら、突然触られたら動けなくなったりするのかもな……」

移動時間は気が緩む学生も多い。もう二学年ともなれば、団体行動に支障を来たさない程度の私語であれば、見逃すこともある。
だが、これは見逃すことができなかった。
好奇のみの下世話すぎる雑談。彼らはほんの小声で話していたつもりだろうが、「みょうじ」の名に敏感になっている俺にはしっかりと聞こえた。
かあああっと頭に血が上り、怒りでこめかみに青筋が立っている。自分でわかる。

だから、だからみょうじが痴漢されたなんて知られたくなかったのだ。多かれ少なかれ、こうなることがわかっていたから。
娯楽の少ない防大ではすぐに噂が広まってしまう。浅はかな男子学生どもが性犯罪の程度に興味を持つのは目に見えていた。

俺は衝動的に、無駄口を叩いていた二学年の胸ぐらを掴んだ。右手で一人、左手で一人。

「うわっ!!??」

二人は突然のことに間抜けな声を上げ、目を白黒させている。
怒りが収らない。

「さ、坂木さん!?」
「すいません!!すいませんでした、は、放してください!!」

そう、怒りだ。
無責任に噂を流す奴らに、みょうじのことを興味本位で知りたがる奴らに、被害を気にするような素振りで性的な目を向ける奴らに。そして何より、この事態が抑えられなかった自分自身に。
二人を殴ってしまいそうだった。殴る蹴るの指導は禁止されているが、二人を掴み上げている拳が震えている。

「坂木!」

止めに入ったのは岩崎だった。ぐっと俺の拳を掴む。

「止めろ、今お前が動いたらみょうじの立場がもっと悪くなるのがわからないのか」

岩崎に早口で耳打ちされ、はっと我に返る。
掴んでいた二人の胸ぐらを解放すると、二学年たちはゲホゲホと咳き込んだ。

「よーし!!お前達、私語ばかりしてそんなに暇なら課題をやろう!!放課後俺の部屋まで来い!!
一学年よろしく反省文を与えてやる!懐かしいだろう!?」

無駄に明るい笑顔で二学年二人の前に立ちはだかる岩崎。
だが俺だけでなく、岩崎も怒っていた。笑顔の下に隠されている怒りに、こいつらは気付いているのだろうか。
岩崎は俺とみょうじの関係なんて知る由もないだろうが、こいつら二人のやっていることは同じ小隊の人間として見過ごすことはできない。

「志を同じくする仲間を、無責任に好奇の対象にし、私語を撒き散らかすなど言語道断!!みっちり指導が必要そうだ。
放課後必ず来い!もう行け!」
「は、はいっ!!失礼しますっっ……」

岩崎は笑顔を引っ込め、真剣な顔で凜々しい声を張った。
一学年じゃなくなったから指導されなくなるなんてことはないが、彼らは明らかに油断していたのだろう。普段温厚な岩崎に指導され、声をひっくり返して逃げるように去って行った。

「……岩崎、悪かっ……」
「さあ、清掃だ」

岩崎は謝罪を遮り、ぽんと俺の肩に手を置く。そして笑顔に戻ると一人学生舎へ戻っていった。



自分の無力さに反吐が出そうだ。
守りたいものがある。この国を守りたい。

それがどうだ。俺は、惚れた女一人守れずにいる。
みょうじが理不尽に辛い思いをしているのに、手を差し伸べることもできない。



どんよりと重い雲が両肩にのし掛かる。
俺は自分自身に舌打ちを一つし、小走りで学生舎へ戻った。




   

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