第五章 鬼の流言





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* * *



廊下に散らかった自身の髪の毛は、居合わせた学生達が片付けてくれた。だが私の髪の毛が戻るわけではない。
私は学生会館の理美容室へと向かった。

校友会は欠席だ。欠席なんて初めてのことだったが、居合わせた学生達の中にバドミントン部の部長がいて、先に髪の毛を整えるよう指示された。確かにこの髪型ではだらしないし格好がつかない。
普段は、学生会館の理美容室など利用しない。休養日に街の美容院で切ってもらっている。髪型に気を使う女学はもちろん、男子学生だって2学年以上になればそちらの方が多い。
私は初めて学生会館の理美容室のドアを開いた。

「いらっ……しゃいませ」

理美容室の女性スタッフは、バラバラのみっともない頭髪を見て一瞬声を詰まらせた。が、すぐににこりと笑って席へと勧められる。
今の今起こった騒ぎだから、事情の詳細はまだここには流れてきていないはずだ。だが、この髪型が自分で切ったものではなく、トラブルがあったということは察してくれただろう。こんなバラバラの髪の毛、自分でやるだなんて有り得ない。

美容師は、椅子に座った私にクロスを掛けると、両手を肩において優しい声色で言った。

「ショートカットに整える感じでいいかしら?この子くらいの長さは残せそうよ」

そう言って取り出してきた雑誌の1ページを指差す。「ショートヘア」のページの中で微笑んでいるモデルを見れば、襟足は少し長く、サイドも耳に掛けられるくらいには残りそうだった。

「今後ろがちょっとバラバラになっちゃっているけど、段を入れていけば目立たなくなると……」
「いえ」

私は優しい美容師の声を遮った。

「あの、もっと短くしてください」
「短くって……どのくらい?」

美容師からは、戸惑いと憐憫が滲み出ている。

「このくらいで」

私が指差したのは、男性用ヘアカタログの写真だった。
美容師は顔を引き攣らせた。



夕食時、私が食堂へ入ると騒がしい食堂が一瞬だけ静まりかえった。一秒後、再び食堂内は喧噪を取り戻すが、好奇と同情の視線が自分に向いていることはわかりすぎるほどわかっている。

もう夕方の刃物騒ぎは、学内中に広がっているだろう。目撃者も多かった。
これで坂木さんは何も悪くないと周知できただろうか。あの四学年はどうなったのだろうか。

「ちょっ……なまえ……」

食堂で私をみた同期の女学達は、声を失った。
それはきっと、私の髪型を見て。



普通のショートカットでは、自分が許せなかったのだ。髪型の可愛らしさなんて今の私には必要ない。

坂木さんを好きだったがために、ミニスカートなんて履いた。
女であったがために痴漢に遭い、坂木さんを巻き込んだ。
結果私は服務事故を起こし、大好きな坂木さんに迷惑をかけ、その上坂木さんに恋心を寄せていた一人の女学を錯乱させた。
私は、自分の中の女の部分に対してほとほと辟易としていたし、いっそ憎悪のような気持ちを抱いていたのである。

ショートヘアというにはあまりにも短すぎる、坊主頭とベリーショートの中間のような髪型。



防大に入ってからずっと肩上のボブだった。私を見慣れている仲の良い同期達には衝撃が走ったようだったが、それでも仲間達は私を気遣ってくれる。

「その髪、意外と似合ってる」
「モンチッチみたいで可愛いじゃん」

私の頭をわしゃわしゃと弄りながら、周りの席に座ってくれる。彼女達が敢えて明るい声を出してくれていることに感謝した。

髪の毛のこと、夕方の刃物事件のこと、そして昨日の痴漢、服務事故のこと。彼女達だって気になっているだろうにそこには触れずに、たわいない馬鹿話をしてくれる。同期の仲間達、部屋長、教官達。私を助けてくれる人々に、心底ありがたいと思った。
私には仲間がいれば良い。仲間がいればやっていける。

ゆっくり食事を摂っている暇がないのは二学年になっても変わらないが、それでも夕食は気の合う仲間達とほんの少しだけリラックスできる貴重な時間だった。
食事も終わる頃になって、前期同部屋だった舞子がぽつりと言った。

「気が向いたらさ、また……髪、伸ばしたらいいと思うよ」

彼女の優しい声に胸が一杯になる。
うん、とだけ返すと、舞子はにこりと笑って再び食事に向き合った。



その日の晩、部屋長に付き合えと言われ二人で部屋を出た。
PXにでも行くのか、それとも屋上で風にでも当たるのか。黙ってついていくと、寮の端にある誰も使っていない空き部屋を案内された。

「入れ」

戸惑いながらも入室すると、本当に長いこと使われていないようで少し埃っぽい。パイプ椅子や長机などが積まれた物置のような場所だった。

「しばらくここにいろ。私は廊下にいるから。誰も来ないよう見張っててやる」
「は、え?」
「一人にしてやるっつってんだよ。それとも、付き添ったほうが良いか?なまえがそのほうが良いなら、いくらでも付き添うぞ」

学生舎での生活は、一人になれる場所など無い。起床してから就寝まで、トイレ以外は常に誰かと一緒だ。防大での生活にプライバシーは無いに等しい。

部屋長は、昨日から色々なことがありすぎた私に、泣き場所を与えてくれたのだ。
その思いやりに気付いた瞬間に、目からぶわりと涙が滲み出てしまう。

「ひ、一人で……」
「わかった」

情けなくも既に声が震えてしまった私を気遣い、部屋長は短く返事をするとすぐにドアを閉めて出て行った。

ドアがバタリと閉じた瞬間、私は崩れ落ちるようにしゃがみ込み、自身の顔を膝の中に埋めた。溢れ出る涙をズボンに染みこませていく。
嗚咽が漏れる。人気の無い廊下だったが部屋長が外にいる、あまり声を出すこともできない。
唇を噛み声を殺すが、どうしも泣き声の欠片が口から漏れた。部屋長に聞こえていなければ良いが……いや、例え聞こえていたとしても、きっとあの人は口外せずにいてくれるだろう。



自分が許せなかった。
坂木さんに恋心を抱いている自分が。
好きだと、一緒にいたいと、特別に思って欲しいと……そう思ったからこんなことになったのだ。

ミニスカートなどを履いたから、痴漢に遭った。
痴漢に遭ったから、坂木さんを服務事故に巻き込んだ。
学内に騒ぎを起こし、坂木さんへの想いを秘めていた女学をあんな風に追い込んだ。
きっとあの女学は、四年間防大生として真面目にやってきたのだろう。だから坂木さんへの恋心も自分の中だけで膨らんでいったのだ。
大好きで大好きで、結果正気を失ってしまう。自分があの女学になることはないと、どうして言い切れるだろう?



髪の毛など惜しくは無かった。
自分への戒めである。自衛官のくせに、自分の身一つ守れなかった情けない自分へ。
もう一つ、この髪は今自分にできる最大の表現だと思ったのだ。
男子学生は、特に一学年などは、時々懲罰的な意味で坊主頭にされたりしていることがある。一目見れば「あいつは何かしでかした」とすぐにわかるものだ。
きっと私が突然こんなに髪の毛を短くすれば、同じように思ってもらえるはずだ。悪いのは私だ。坂木さんは何も悪くない。せめてそれだけは周囲にわかって欲しかった。

そしてもう一つだけ。これは、自分の胸の中にだけ。
今日私は、私の中の小さな恋の灯火に水をかけた。

失恋して髪を切るなんて高校生の時に一度やったきりだ。その時はロングヘアをセミロングにしたくらいだったけれど。でもあの時確かに気持ちが切り替えられたのをよく覚えている。

この髪型に込めた「失恋」の意。
同期も部屋長も知らない、私だけの秘密だった。




   

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