第五章 鬼の流言





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* * *



放課後、バドミントン部の活動場所である体育館へ向かっている時のことだった。
廊下を駆け足で走っていると、突然私の前に女学が立ちはだかる。

「っ、こんにちはっ!!」

慌てて立ち止まり敬礼をするが、見覚えのない顔だった。左胸の学年識別章を確認すると、四学年である。まったく私の記憶にない顔だということは、彼女は1大隊ではないだろう。

四学年の彼女は、敬礼を返すこともなくただこちらを睨み付けている。上級生であっても敬礼を返すのが通常であるのだが。彼女が敬礼を返さないため、私もその場を去ることができずそのまま足を止めていた。不穏な空気を感じ、しかし私はその場に立ち続けるしかない。
何か指導されるのだろうか。服装も乱れていないはずだし、欠礼もしていない。この先輩に指導されるようなことは何もないと思うのだが。
うんともすんとも言わずただただ私を睨み付けている彼女に、戸惑ってしまう。

「……お前か?みょうじなまえは」

四学年の女学は、地獄の底から出たような低い声で唸るように言った。

「は、はい!私は、113小隊みょうじなまえです!」

何を問われているのかわからないが、先輩に尋ねられたら答えるしかない。気をつけの姿勢のまま声を張る。
空気が良くない方向へ傾いた。それだけは理解できた。

「……みょうじあああ!!!お前えええええ!!!」
「!?」

ヒステリックな怒鳴り声と共に、その女学は私に向かって飛びかかってきた。何事かと目を白黒させているうちに背中から床に叩きつけられる。ガツンという嫌な音と衝撃が頭に響き、後頭部を強打したと認識できた。
相手が如何に女子といえども、馬乗りになられ全力で押さえつけられれば身動きが取れない。何が起こっているかわからず、混乱した。背中で感じる冷たい廊下の感触がやけに鮮明だった。

「昨日!!坂木学生と!!何をしていた!!」

彼女は私の肩を両手で押さえつけたまま怒鳴った。

私に覆い被さる彼女と目が合うとすぐにわかった。正気じゃない。目がイッてしまっている。
混乱で頭が追いつかず、彼女の質問……というか叱責の意図がうまく飲み込めない。しかし、坂木さんが絡んでいることだけは理解できた。
私も相当に動揺しており、答えようにも抵抗しようにも声が喉でつっかえて出てこない。すると彼女はポケットから何か取り出し、私の喉に突きつけた。

「……ひぃっ」

恥ずかしくも、情けない声が出た。
彼女が私の喉に突きつけたのは、裁ち鋏だった。

突如登場した凶器に、周囲の空気が一瞬で凍り付く。偶然廊下に立ち会わせた数人は固まり、女学などはきゃあっと声を上げた。
バタバタと焦ったような足音。誰かが走って教官や人を呼んできてくれるのだろうか。私は身動きが取れないため確認する術がなく、音から推測するのみなのだが。
周囲の学生達は、彼女を取り囲んだまま動けずにいる。勇気が無くて動けずにいるというよりも、彼女を逆上させ、裁ち鋏が私に突き刺さることを危惧しているのだ。

防大生なら裁縫道具として必ず持っている裁ち鋏。それをまさか人の喉につきつけるなんて。私は数年前にニュースで見た、裁ち鋏で腹部を刺すという殺人事件を思い出してしまった。
彼女の私に対する行動が通常の指導でないことは明らかだ。私も混乱しているが、彼女は錯乱している。

混乱の中、私は懸命にこの状況を俯瞰しようとした。
恐怖など感じていてはいけない。これは有事だ。幹部自衛官を目指すのならば、有事を仮定にしてはいけない。もし敵勢力に馬乗りになられて刃物を突きつけられたなら私はどうする?
完全にイッてしまっている彼女を逆上させないよう、必死に頭を動かす。

「坂木学生と何をしていたかって、聞いてるんだよ!!」

彼女は喉に突きつけていた裁ち鋏を振り上げ、刃を開く。廊下の窓から差し込む日光に鋏の刃が反射してきらりと光った。

「坂木君が!!内恋なんて!!するわけないのよ!!」

彼女の声に、ガツンと頭を殴られたようだった。
そうか、この人。

冷たい廊下の上で腹の上に全体重をかけて乗り上げられたまま、彼女を見上げた。彼女の瞳からは涙が溢れ、私の頬やら肩やらにパタパタと雫が落ちる。

彼女は、坂木さんに恋をしているのだ。

彼女の想いがどのくらいのものなのかは、私にはわからない。だから推測の域を出ないのだが。
きっと……この人は、坂木さんのことをすごく好きなのだろう。もしかしたら、この環境では自分の想いを誰かに打ち明けることもできず、吐き出すこともできずにいたのだろうか。
もちろん気持ちを本人に伝えることもできず――気持ちを伝えたって、内恋など受け入れてもらえるわけがないと坂木さんを見ていればわかるのだ――恐らく私よりもずっとずっと長い間、坂木さんへの思いを募らせていたのかもしれない。
募らせて膨らんだ想い。この噂がトリガーとなり暴発したのだろうか。だって坂木さんはきっと、内恋の噂など今まで立ったことないのだ。

「お前が!!坂木君を!!誘惑したんだろ!!」

彼女は開いた鋏を振り上げ、そして――

「きゃああーーっ」

再び周囲の女学達から悲鳴が上がった。
目の前に押し迫る刃物にぶわっと冷や汗が噴き出し、それでも私は必死でもがき首を捩った。

耳元に聞こえたのは、バサという乾いた音。
顔面に刃物が突き刺さることは免れた。
その代わりに、私の左耳後ろの髪がばっさりと裁ち鋏の刃によって切り落とされたのだ。

瞬間、彼女の周りの空気が緩む。
切り落とされた私の髪の毛が床に散ったのを見て、正気に戻った……とまではいかなくても、自分の行いに当惑したのであろう。

「今だ!!抑えろ!!」

廊下の学生達はその瞬間を見逃さなかった。複数人の男子学生が彼女に飛びかかり、その手から裁ち鋏を取り上げる。
彼女は取り押さえられ、今度は彼女が腹ばいで廊下に押しつけられた。

「みょうじ!大丈夫か!!」

誰かが呼びに行ってくれていた教官達が駆けつける。
騒ぎは大きくなっており、私達の周りにはいつのまにか疎らな人垣ができていた。

周りの女学達が手を貸してくれたので遠慮無く借りて立ち上がる。
途端に空気が憐憫に振れた。周囲の視線が私の頭部に向いたことで、理由を悟る。
鏡が無いのでわからないが、恐らく私の髪の毛は、左半分だけがバラバラに切り落とされた不自然極まりない髪型なのだろう。

「坂木君は……!!内恋なんて……!!」

取り押さえられた女学は身体を床に押しつけられたまま、まだ叫んでいる。憎悪の目で私を見上げながら。
しかし、私を睨む瞳からは涙が零れ続けていた。

恋愛感情を拗らせてこんな騒ぎを起こすなんて。刃物を振り回して、下手をすれば傷害事件だ。彼女に自衛官としての将来はないだろう。
それもこれも、きっかけは私だ。
私が、彼女の拗らせた想いを暴発させてしまったのだ。

私は、すう、と息を吸った。
姿勢を正し、腹から声を出す。

「仰るとおりです!!!」

突然出した私の大声に、学生達と教官がぎょっと私に注目する。
押さえつけられている彼女もじたばたともがいていたのを止め、改めて私をぎっと睨みつけた。

声が震えないように、足を踏ん張り両手は後ろでまとめる。大声を出すときの基本姿勢だ。

「坂木小長は、内恋などに現を抜かすような方ではありません!!坂木小長の名誉のために申し上げます!!」
「みょうじ、待て……」

気遣った教官が私を止めようとしたが、私はそれを遮って声を張り上げた。

「私は昨日!電車内で痴漢に遭い!情けなくも自身で対応しきれず!偶然同じ車両に乗り合わせた坂木小長が!加害者の確保及び駅員・警察への連絡を私の代わりに行って下さいました!
警察の捜査・事情聴取に協力するため帰校遅延となってしまいましたが、中指への連絡は事前に行っておりました!」

ざわっと、わかりやすい音がした。廊下の空気がまた変わったのを全身で感じる。

昨日私と坂木さんが揃って帰校遅延したことはもう学内中に知れ渡っているようだが、痴漢の話は初出のはずだ。教官達も部屋長も、私の名誉の為に、痴漢に遭ったなどとは誰にも言わなかった。もちろん、坂木さんもだ。
女学が痴漢に遭ったと耳にすれば、若い男子学生達は否が応でも「どこまでされたのか」を想像してしまうだろう。恐らくそれは、善悪や理性を超えた本能に近いところで。
教官達も部屋長もそして坂木さんも、きっとそれをわかっていたから私の為に伏せていてくれたのだ。

「全ては!国民と国土を守る自衛官であるはずの私が!自身の身すら守れず!偶然に居合わせた坂木小長にご迷惑をお掛けしてしまったために起こったことです!
責任の全ては私にあります!!ご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんでしたっ!!」

シン、と廊下は静まりかえる。
私の張り上げた大声がわずかにこだました。




   

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