第五章 鬼の流言





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下宿で制服に着替えタクシーが防大に到着した時には、とっくに点呼の時間を過ぎていた。既に消灯後の防大は暗いが、玄関や教官室の灯りは煌々と点いている。
帰校遅延などしたことがないから、こんな風に消灯後の防大を外から見るのは初めてだ。
罪悪感が増幅させられた。自分が服務事故を起こしたことはもちろんだが、坂木さんを事故に巻き込んだことに対しては余計に居た堪れない気持ちになる。

数名が玄関先に立っているのが見えた。中指を初めとする教官数人、そして前期に引き続き後期でも同部屋となった私の部屋長だ。坂木さんが事前に連絡を入れていたから、私たちの到着を待ち構えていたのだろう。
タクシーから降り、私と坂木さんは玄関へ向かって走った。理由があるといえども、帰校遅延は重大事故だ。とにかく謝らねばならない。

「申し訳ありま……」
「なまえ!!」

私と坂木さんの謝罪を遮ったのは、私の部屋長だった。私の姿を見るやいなや、私に飛びついてひしと抱きしめる。

「部屋長……」
「事情は聞いた、なまえが無事に帰ってきてくれて良かった」

部屋長は私をきつく抱きしめたまま、耳元で震えた声を出す。
普段気丈で男勝りな部屋長のこんな声を初めて聞いたかもしれない。本当に心配をかけてしまったのだ。

「帰校遅延という重大な事故を起こし、申し訳ありませんでした!!」
「も、申し訳ありませんでした!!」

坂木さんは腹から声を出し、深々と頭を下げた。私も続いて頭を下げる。
教官達は、うんと頷くと頭を上げるよう促してくれた。

「坂木、みょうじ、疲れているところ悪いが、事情を聞いてとりまとめさせてくれ。坂木から大まかには聞いているが、警察も絡む件であれば我々もきちんと把握しないといけないからね」

はいと私と坂木さんが頷き、玄関へ進む。やっと防大に帰って来られたが、今日はまだ終わらない。



私と坂木さんは別々の部屋で教官達から事情聴取を受けた。
私を担当してくれたのは学内に一割しかいない女性教官だった。この男所帯の環境の中での配慮を、ありがたいと素直に思う。しかしそれと同時に、ああ私が受けたのは性犯罪だったのかと嫌悪感が蘇った。

教官からは警察での事情聴取と同じようなことを聞かれたが、ありのままを答えた。坂木さんもそうだったのだと思う。
私達の事情聴取は通り一遍のもので、短時間で終了した。点呼へ間に合わなかったことについては一応の指導があったものの、警察への通報、捜査への協力のためであったという点からお咎めは無しとなった。



もう薄暗い廊下を歩き部屋へ戻ると、廊下で待っていてくれたのは部屋長だ。部屋の前のドアに凭れて腕組みをしていた。

「なまえ、戻ってきたか」
「部屋長……あの、ご心配とご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」
「ああいや……良いんだが、なまえに話しておかなければならないことがある」
「? はい」

私が謝罪のために下げていた頭を上げると、部屋長はハァと小さく息を吐く。組んでいた腕を下ろして真っ直ぐに私に向き合った。

「なまえが……電車内で卑劣な目に遭って、そのせいで点呼に間に合わなかったことは、教官達とお前の部屋長である私しか知らない。男子のほうは、坂木自身が部屋長で且つ小長だから、他に知らされた人間もいないようだ」

つまり、私が痴漢に遭ったということは、学内のほとんどの人間は知らないということだ。

「部屋のみんなもなまえが帰ってこないことを心配していたから、事件に巻き込まれて警察での事情聴取のために点呼に間に合わなくなった、とだけ話している。具体的に何があったかは伝えていない」
「そうなんですね……あの、ご配慮ありがとうございます。私自身も……痴漢にあったなんて、あんまり知られたいことではありませんのでありがたいです。自衛ができていなかったことも恥ずかしいですし」
「だがな」

非常灯しか灯りのない廊下で、部屋長は硬い声を出す。

「11中隊で点呼に間に合わなかったのは、当然だがなまえと坂木二人だけだ。もちろん、点呼の際になまえ達が遅れている理由などを申し開く場などない。……それがどういうことを意味するか、なまえにはわかるだろう?」
「……」

ピリ、と自分の顔が強張った。

どういうことかわかっているつもりでいた。
だが私は、今まで矢面に立つような経験がなかった。今回起こした事故の意味を、真にはわかっていなかったということを、翌朝以降思い知ることになる。

「なまえも坂木も、悪いことは何もしていないんだろう?何があっても堂々としていろよ」

部屋長はそう言うと、私の背中を押した。二人で消灯後の真っ暗な部屋に入る。
同部屋の仲間達は起きているような気配もあったが、寝たふりをしてくれているのだろうか。無音の部屋で私はそっと制服を脱いだ。



* * *



翌朝、月曜日。
私は部屋長の言葉の意味を痛感することになる。

起床直後、日朝点呼の時から既に感じていた。周囲の視線が刺さるように痛い。
自分に向けられている視線のほとんどが好奇によるもので、そして無遠慮だった。少なくともこの視線が好意的なものではないことはよくわかる。防大のような閉鎖的な空間は噂が広がるのも早いのだ。
もちろん点呼や乾布摩擦の際に無駄口など叩いていれば指導されるため、表立って私や坂木さんに指を差す者はいない。しかし囁くような声がいくつか私の耳にも入ってきた。

「あの子が……昨日帰校遅延した……」
「四学年の坂木さんと一緒だったって……」
「事故渋か?それにしても二人一緒だったってことは……」

こんな時、耳が鈍感になってくれれば良いと思う。聞こえて来なくて良い言葉が、聞きそびれてしまってもおかしくない小さな声が、耳に入ってくる。
季節は9月の中旬。朝晩は相当に涼しくなってきたにも関わらず、私は乾布摩擦を行いながら汗を掻いていた。これは、冷や汗だ。

『11中隊で点呼に間に合わなかったのは、当然だがなまえと坂木二人だけだ。もちろん、点呼の際になまえ達が遅れている理由などを申し開く場などない。……それがどういうことを意味するか、なまえにはわかるだろう?』

昨晩の部屋長の台詞が脳内でこだまする。
私と坂木さんは、内恋を疑われているのだ。



一斉喫食の昼食は、更に居心地の悪いものだった。
私と坂木さんが帰校遅延したのは昨晩のことだ。それが翌日の昼には学内中に噂が回っているとは。ここまで早く、そしてここまで広く広まるとは思わなかった。
突き刺さる視線、視線、視線。食事時は私語がある程度許されている分、日朝点呼の時よりもダイレクトに蜚語(ひご)が私の耳に入る。

「お咎め無しらしいけど、何をしてたんだか……」
「坂木さんだって帰校遅延するような人じゃないだろ……?」
「というか、坂木さんって内恋否定派じゃなかったっけ?」
「二人揃って遅延ってことは、つまりそういう事だろ?」

自分のことをあれこれ言われるのは仕方がない。自業自得だ。だが、坂木さんの立場を悪くしているのが私は耐えられなかった。
坂木さんは何も悪くないのに。私を助けてくれただけなのに。坂木さんは内恋なんて……していないのに。

坂木さんという人間が今まで作り上げてきた「信頼」は強固なものだ。だからこそ戸惑いや疑念の空気が嫌というほど充満している。「あの」坂木さんが内恋するなんて、という感情があちこちから漏れ出ていた。
しかし私に申し開く場など無い。せめてこそこそ噂をするのではなく、直接私に問いただしてくれれば良いのに。そうしたら、事件に巻き込まれただけだと……坂木さんは偶然その場に居合わせただけで何の落ち度もないと、そう説明できるのに。

食事は味がしない。砂を噛むよう、とはよく言ったものだ。正に砂を食べているようだった。
坂木さんもこんな食事を摂っているのだろうか。

「なまえ」

私の隣で食事を摂っていた部屋長が、うしろからバンと私の背を叩く。知らず知らずに丸まってしまっていた背中を正された。

「堂々としてろっつっただろ。少なくとも部屋の仲間はなまえのことちゃんとわかってる。お前は事件に巻き込まれて、警察に協力していただけだってな」

わざと周囲に聞こえるように言ってくれているのか。部屋長のその言葉で、私達周辺の人間は、半分は納得したように、半分は気まずそうに、私から視線を逸らした。
だがこの広い食堂にいる学生全てに部屋長の声が届くわけじゃない。昼食のトレイを下げる時も突き刺さる視線が居心地悪く、私は逃げるように食堂を出た。




   

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