第四章 手つなぎ鬼





04




そこからは事情聴取の時間だ。
俺とみょうじは同室になることはなく、廊下で別れたまま別々の部屋に通される。俺には男性の警官がついた。
色々尋ねられたが、ありのままを供述した。
偶然同じ車両に乗り合わせた後輩であること、様子がおかしかったから具合が悪いと思い、介助するために近づいたこと、近づいて初めて痴漢に襲われていたことを知ったこと。

俺への事情聴取は短時間で終わり、その場で待機するように言い渡されると警官は部屋を出て行った。
随分と長いこと待たされ、ようやく警官が戻ってきた時にはみょうじとも会えるのかと思ったが、ドアを開けたのは先ほど俺を事情聴取した男性警官一人で、みょうじの姿はなかった。

「あの、みょうじは……まだ帰れないのですか?」
「彼女の事情聴取と、身体に付着していた証拠からのDNA採取、再現も先ほど終わりました。もうすぐ帰宅できますよ」

警官は感情の籠もらない声で答える。だがその答えに、俺は思わずパイプ椅子から立ち上がった。ガタンと派手な音がした。

「かっ……身体に付着していたDNAって……」

DNAは、精液から採取したのだろうか。
電車内で想像した最悪のパターンがもう一度頭に浮かぶ。

警官は俺を一瞥した。

「君は、みょうじなまえさんの恋人かな?」
「……はい」

何と答えるべきか迷った。

俺たちは恋人ではない。同じ学内、学生隊の先輩後輩の間柄。それだけだ。
だが「恋人」ということにすれば、恐らくこの警官は俺の知りたいことを教えてくれる。瞬時にそう判断した。
嘘をつくことへの罪悪感よりも、みょうじに惚れていることを認めることへの罪悪感よりも、彼女の現状を正確に知りたいという思いが勝ったわけだ。
而してその判断は正しかった。警官は無表情を崩し、哀れみの視線を俺に向ける。

「……本来はプライバシーに関わることだからね、君が知らない詳細な被害状況なんて私達からは言わないのだけれど。
彼女……随分ショックを受けて、恐らく君にもまともに話せないだろうし、だが君が知っていたほうが君にも彼女にも良いだろうから……君から彼女に根掘り葉掘り尋ねるのも、傷口に塩を塗ることになるだろうし」

溜め息交じりで言うと、警官は事情聴取の時のように俺の向かいのパイプ椅子に腰掛けた。立ち上がっていた俺も腰を下ろす。

「結論から言うと、彼女の身体に加害者の身体が挿入したということはない。彼女がされた痴漢行為は、太腿から臀部……あ、臀部ってお尻のことね、加害者男性右手によるその箇所への接触、撫でまわし行為。及び加害者男性の性器による接触、撫でまわし行為。また被害者女性の下着の上からの射精。被害者女性の下着、臀部、大腿部をこれによって汚している」

そこまで言うと警官は俺の顔をちらりと見て、供述調書に再び目を落とした。

「簡単に言うと、挿入(い)れられてはいない。太腿とお尻を撫で回されたあげくにショーツの上から射精されている。そういうこと」
「……」

みょうじが受けた恥辱に対する怒りと、挿入されていなかったという安堵がない交ぜになる。
俺は今、一体どんな顔をしているのだろう。

「君たち、防大生なんだって?」
「え……あ、はい」

警官は調書を机上に伏せると、グレーの無機質なデスクの上に両腕を置いた。

「彼女はね……痴漢行為をされた際、恐怖で声が出なかったのもあるが、最初に男性の手の感触を太腿に感じた時、もしこれが自身の勘違いで痴漢行為ではなかったら、男性に冤罪を着せてしまったら、防大の名に傷がつくと……そう考えてしまったらしい。
君たちが報道されれば、『大学生』とはならないからね。『防大生』、そう報道される。我々公務員にとっては当然なのだが……。
結果として、彼女が声を出さない間に男の行為はエスカレートして、彼女がこれは痴漢行為に間違いないと確信した時には恐怖で何もできなかった、と」
「……」

みょうじのその思考回路に、納得をしてしまった。
俺たちは国家公務員だ。国民の血税で食べている。常にそのことを忘れてはいけないし、自身の立場や所属組織を汚すようなことがあっては絶対にならない。
彼女の高い意識が、今回は裏目に出てしまったということだ。

「とにかく……彼女は非常にショックを受けている。
支えになってやれ。恋人なんだろう?」

警官はそこで初めてにこりと笑った。
俺は、頷くことすらできずに、ただ黙っていた。



* * *



警察署からタクシーを呼んだ。
ここから防大までまだ遙か遠いが、これ以上みょうじを電車に乗せることは憚られた。



人気の無い警察署の入り口、二人並び手配したタクシーの到着を待っている。
みょうじはあのデニムスカートではなかった。借りたらしい黒いジャージを履いている。下着も恐らく何かしらかの形で調達してもらったのだろうか。

「あの……ご迷惑を……おかけして、本当に申し訳ありません」

突然蚊の鳴くような声を出し、みょうじは深々と俺に頭を下げた。

「お前は何も悪くねえだろ。何か謝らなきゃいけねえことしたのかよ」
「……自身で対処すべきことでした。それができず、坂木さんにご迷惑を……」
「いい、そんな事は。今てめえは自分のことだけ考えてろ」

みょうじは俯いた。
もう涙は出ていないが、泣き腫らしたのか目は真っ赤だった。

「……それからな」

言いにくいことだが、帰舎した後のことを考えれば言わなければならない。
9月の温い風が俺とみょうじの間をなぞる。

「中指に電話した。
勝手にすまないが……事情を説明させてもらった。もう点呼に間に合わねえだろ」
「……!!」

見る見るうちに顔を青ざめさせたみょうじは、バッと腕時計を見る。
点呼に間に合わないということは、服務事故だ。夏休み前に一学年の武井がやらかした、あれだ。

「さ、坂木さんだけでも!!今すぐ、電車で帰って下さい!!
タクシーより速いです、まだギリギリ……」
「いや、間に合わねえよ。俺だって下宿で制服に着替えなきゃなんねえしな。
中指からの了解は取り付けたから、事故は事故だがまあ……武井の時見てえにヘルウィークにはならねえよ」

俺の腕に縋り付く真っ青な顔のみょうじに、敢えて茶化すように笑う。逆効果だったらしく、彼女の目にはまた涙が溜まった。

今までこいつの泣くところなんて見たことなかったが、今日一日でみょうじがどんな風に泣くのか知ってしまった。
大きな瞳に涙を溜めて、それを零さないように必死に歯を食いしばる。
――愛しいと思ってしまっているのは、流石に不謹慎すぎる。

「なんて……なんてお詫びすれば良いか……坂木さんを服務事故に巻き込むなんて……」
「バカ、大げさだ。中指の了解を取り付けたって言っただろ。今頃部屋長にも話がいっているはずだ。
それに、お前は犯罪に巻き込まれたんだ。警察へ通報するのも調査に協力するのも、国民の義務だろ?
まあ、帰舎したら部屋長にはちゃんと報告しておけよ。心配はしているだろうからな」

コツンと額を小突いてやれば、みょうじは唇を噛みしめたまま頷いた。

幼少期、乙女がクラスの男子に意地悪された時もこんな顔だった。
泣きたくないのに涙が溢れて、零したくないために必死に耐えている顔。



やがて黒塗りのタクシーがやって来て、俺はみょうじの手を引いた。
みょうじは素直に俺に従う。
ノロノロと進むと、タクシーのドアがボンと無遠慮に開いた。

初めてみょうじと手を繋ぐのがまさか警察署の前になるだなんて、誰が予想しただろう。
出来ることならもっと違う形で、みょうじの手を握りたかった。



防大へ戻るタクシーの中、俺たちはずっと無言で、だが俺の右手とみょうじの左手は、シートの上でずっと重なり合っていた。




   

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