第四章 手つなぎ鬼





03




* * *



小田急線、相鉄線と電車に乗って、横浜駅まで約一時間。
横浜駅で相鉄線から下車し、俺は思わずゴキッと首を鳴らした。
ここでやっと京急に乗り換えるが、それだってこの後もう一回乗り換えだ。K山の渓流釣りは最高だが、交通の便を考えるともっと近場にしようかという気にもなる。
そもそも10月になればK山を含め多くの川は禁漁期間に入る。2月いっぱいまで魚の産卵を保護するために、釣りが禁じられるのだ。
釣りができないとなると俺がK山に行く理由がなくなる。何か理由を――
そこまで考えて、自分の思考に辟易した。俺はみょうじと二人で会う理由を探しているのだ。
重傷だな、と内心だけで舌打ちし、横浜駅で人混みのホームに並ぶ。

車両に乗り込む際に気付いたのだが、同じ車両にみょうじが乗っていた。恐らく俺よりもだいぶ前で並んでいたのだろう。
一緒に帰るのがまずいので先に一人で帰らせたのだが、K山からここまでの移動の間に俺が追いついてしまったようだ。
俺に気付き慌てているみょうじを視線だけで諫めた。みょうじはすぐに理解したようで、小さく頷くとすいっと俺から視線を逸らした。
俺もみょうじのいない方向に進み、連結部分の前辺りにポジションを取る。

もし二人で一緒に帰ろうもんなら、内恋を疑われて面倒くさいことになる。
このまま距離を取り、次の乗り換えでは別車両に乗り込むのがベストだろう。

『お待たせいたしました、快特、三崎口行きです。次は、上大岡、上大岡です……』

無機質な男性運転手の声が流れ、いつの間にか電車が発車していたことにやっと気がついた。

内恋。
好ましくない、と思っている。
それがどうだ。自分自身がみょうじに恋愛感情を抱いていることを、もう否定できない。

士官候補生が恋愛に現を抜かすなど、あるまじき事だ。恋愛そのものを否定はしないが、防大内での恋愛は多かれ少なかれ秩序を乱す。
周囲に全く気付かれないように完璧な配慮ができるならまあわからなくはないが、言っても俺たちは大学生だ。ただでさえ若く未熟なのだ、そこまで人間ができた奴ばかりではない。

心の中だけでやり場のない溜め息をつき、ちらりと吊革に掴まるみょうじを見た。
あいつもあれで防大生だ。いつもどんな時でもしゃんと立って――
その時気がついた。
みょうじの顔が、変だ。

硬直しているというのだろうか。先ほど乗車する際出入り口付近から見た時は、俺を見つけて焦った表情はしていたが、もっと「普通」だった。
遠くにしか見えないが間違いない。今、みょうじの表情は固まっている。見れば見るほどなんだか顔色が悪いような気がしてくる。
俺は眉を顰めて目を細め、しばらくみょうじを観察した。

やはり様子がおかしい。腹でも痛いのだろうか。だがこんな混雑した車内で、しかも離れた場所からみょうじに声を掛けることはできない。
黙ってじっと見ていると、みょうじはとうとう俯いた。
伸びていた背筋はすっかり丸まり、美しかった立ち姿は消えていた。

具合が悪いのだろう。
この電車は快特だから、横浜の次は七駅先の上大岡だ。今どの辺か分からないが、上大岡に着いたら一緒に下車してやった方が良いだろう。
そう思いながらじっとみょうじを見ていたが――数分後、上大岡までは待てないと判断した。

周りの一般の乗客には分からないだろうが、今のみょうじは尋常じゃない。
あんな背中の丸まり方、見たことがない。どこにいても美しく立つのは防大生の基本だし、みょうじは普段からそれがきちんとできている。
それにずっと俯いているのもおかしい。相当具合が悪いはずだ。
本来はマナー違反なのだろうが、車両の連結部にでも誘導して座らせた方が良い。あのままあそこで立たせておくのは却って危ない。

「すいません、失礼します」

俺は周りに小声を掛けながら、乗客達をかき分けみょうじのいる方へと進んだ。
背中を丸めているみょうじまであと数歩のところで、異変の理由に気がつく。

「……っ!?」

衝撃で、思わず息を飲んだ。



みょうじの後ろに立っている男。年齢不詳だが、中年と呼ぶにはまだ若い気がする。三十代前半だろうか。
彼の手がみょうじの尻に行って――いや、尻じゃない。
恐らく手を露出させた自分の性器に添えて、その性器をみょうじの尻に当てている。混んでいる車内だったが、凝視すればそのように見えた。
痴漢だ。

「――っ、みょうじっ!こっち来い!!」

痴漢に気付いた瞬間、そいつをはっ倒してやろうかと思ったがすんでのところで冷静になる。万が一俺の勘違いだったとしたら取り返しがつかない。
俺は男を殴ろうと伸ばした手をぎりぎりのところで引っ込め、みょうじの肩を抱き引き寄せた。

肩をぐいと引き寄せたことで男とみょうじとの間に空間ができ、初めて彼ら二人の間が晒される。
周りの乗客からキャーッと悲鳴が上がった。

男はやはり、下半身を露出させていた。
勃ち上がっているそれは、白日の下に晒されみるみるうちに萎む。
男は真っ青な顔だった。

「痴漢だ!捕まえろ!」

どこかから上がった声に、周りの男性客らが男に飛びかかる。男は萎んだ下半身を露出させたまま両手を取り押さえられた。
だが、しかし。

「うえっ!?ひっ……おい、お前……!!」

男の両手を押さえた男性客が悲鳴を上げ、男に侮蔑の視線を投げる。

「お前、最低だな!!」

そう吐きながら、男性客はティッシュで必死に自らの手を拭いていた。
彼の手を汚したのは、精液だった。

「……っ!!」

勇敢な男性客の手を汚したのが精液だと認識した瞬間、俺の痴漢への怒りは沸点を超える。
殴り飛ばしたい衝動を抑えた代わりに全身の毛が逆立った。抱き寄せたみょうじを庇うように、頭から抱きしめる。
みょうじは震え、瞳は涙に濡れていた。

抱きしめたみょうじをそのままに、視線を下げてデニムスカートを見れば、スカート自身に汚れはないように見受けられた。
――であれば、男はどこで射精した?
最悪の事態に思い至ると、先ほど頭に上った血が一気に引いていく。

『ご乗車ありがとうございました。上大岡、上大岡です……』

ここで電車が上大岡へ着いた。プシューという音と共にドアが開く。
この車両の騒動は運転席へ届いていないのだろう。運転手の淡々とした声に車内は一瞬妙な空気に包まれ、しかしすぐに痴漢は下車するという安堵感が車両中を支配した。
少なくとも、周囲の乗客達はそうだった。

俺はみょうじを抱き寄せたまま下車し、痴漢は男性客二人に腕を引っ立てられ、強制的に下車させられた。



* * *



痴漢は駅員に引き渡され、俺たちは駅事務室の別部屋に通された。
駅前交番からすぐに警官がすっ飛んできて、痴漢と俺たちはパトカーで神奈川県港南警察署へ送られる。もちろん別車両だ。



港南警察署で女性警官が現われると、ずっと震えて黙っていたみょうじは、そこで初めて声を出した。

「着替え……着替えたいです……」

女性警官は頷き、みょうじの背に手をそっと添え別室へ案内した。俺はただその様子を後ろから見ているだけしかできない。

照明が節約された薄暗い警察署はひどくドライに思えた。
頼むからもっとみょうじに優しくしてやってくれ、気遣ってやってくれ、と、この無味乾燥な環境に奇妙な苛立ちを覚える。

女性警官に労られ震える脚で進むみょうじは、小さくて、今にも崩れてしまいそうで、俺の知っているみょうじとは別人だった。
みょうじは、もっとしゃんとしていて、凜としていて、強くて明るくて――




   

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