第四章 手つなぎ鬼





02




* * *



夏休みが終わり、九月。中期が始まり、またあの目まぐるしい日々が再開だ。
坂木さんは中期の小隊学生長(小長)に任命された。

ただでさえ卒論もあって忙しい四学年だが、役職を持つということは他の学生よりも更に忙しくなるということである。
私は、坂木さんの忙しさ故に月数回のアウトドアごっこが流れてしまうのではないかとひっそり危惧したのだが、結果としてそれは杞憂に終わった。
K山での釣りと野外炊爨は9月の第二週に再開した。

山で釣りをし、キャンプ飯を食べ、帰りは温泉で汗を流す。
夏休み期間のブランクを一切感じさせない、全く同じスケジュールと空気感だった。
――もとい、空気感は自分だけが違う。自分自身の心持ちだけが夏休み前とは違っている。

「なまえ、その人のこと『好き』どころじゃなくて『大好き』なんじゃん」

麻耶に言われた言葉が棘のように刺さっていて、私の心には甘い痛みが走る。
「甘い」痛みだなんて――この恋は本当に無駄なことで何の役にも立たないと分かっているが、私は確かにその痛みに喜びを覚えていた。



その日も、温泉施設の喫煙所の前で坂木さんと別れた。やはりいつも通り「先に行け」と帰される。
いつもと違ったのは、電車の中でのことだった。



K山の最寄り駅から馬堀海岸駅までは遠い。小田急線から相鉄線へ乗り換えて、やっと横浜駅だ。そこでようやく京急本線へ乗れる。
横浜駅ではホームでしばし待ったが、やがて快特が到着した。K山からの帰りはいつもこのルートだ。
車内はそこそこ混んでいる。座席は空いていない。まあ、仮に空いていたとしても、防大生は公共交通機関で座席に座らないのだが。
私は奥へと進み、車両中心部の座席前で立った。
後ろからは続々と乗客が乗り込んでくる。吊革につかまったままぼんやりとドアから乗り込む乗客達を眺めていると、一人の男性の姿に目を剥いた。
なんと、坂木さんが乗ってきた。

K山の最寄り駅では、私は坂木さんよりも少なくとも一本は早い電車に乗ったはずだった。なのに、なぜか追いつかれてしまっている。
恐らく私が乗り換えでもたもたしていたか、もしくは途中の乗換駅でお手洗いに寄ったからそのせいかもしれない。
わざわざ時間をずらして帰ってきていたのに一緒になってしまって慌てていると、彼のもほうも挙動不審な私に気がついたようだ。ばっちり目が合った。
坂木さんは、視線と顎先だけで私に指示を出す。「知らんぷりしとけ」。そう読み取った。私は小さく頷き、指示通りに坂木さんから目を逸らした。

坂木さんは、私のいる方とは反対方向へと進んでいった。
その姿を途中まで目だけで追いかけていたが、知らんぷりしろと指示を受けたからにはじろじろ見るわけにもいくまい。たいして高くもない坂木さんの姿はすぐに人混みに紛れ、私の視界から外れてしまった。もしかしたら隣の車両に行ったのかもしれない。
このまま、互いに気付かなかったことにして別々に帰るのだ。馬堀海岸駅で男女が一緒に降車などすれば、大騒ぎになる。

『お待たせいたしました、快特、三崎口行きです。次は、上大岡、上大岡です……』

男性の声で車内放送が流れる。私は片手で吊革を握って真っ直ぐ前を向いていた。
時刻はもう18時を回った。既に日は沈んでおり、黒い車窓は車内を鏡のように映している。
私は鏡に映る自分の姿勢を意識し背筋を伸ばした。まだ私服だが、防大生が姿勢を崩してはいけない。こういうのは日々の積み重ねなのだ。



突然、すり、という感触があった。
太腿にだ。

「……」

それは誰かの指だったと思う。
が、すぐに離れた。恐らく車内が混雑していたから、うっかり手が触れてしまったのだろう。

私は自分の格好を後悔した。
山にいた時は、ショートパンツの下に長丈のレギンスを履いており、肌を露出させていなかった。だが入浴後に着替えた際、デニムのミニスカートを履いたのだ。今、膝上から足首まで肌が露出されている状態だった。
こんなに電車が混んでいるのであれば、入浴後ももっと長いボトムを履けば良かった。不可抗力とは言え、他人の手が自分の太腿に当たる感触は良いものではない。
かと言って不快感をぶつける相手もおらず、私は黙ってそのまま車窓の向こうを見つめていた。

数分後だろうか。再び太腿に感触があった。すり、すり、と太い男の指の感触。
最初一本だった指は二本になり、四本になり、最後には指と掌全体で、太腿を撫でまわされていた。

私は硬直した。
これは、痴漢だ。

20年間の人生で、痴漢というものに遭遇するのは初めてだった。
高校生の時は今よりももっと短いミニスカートを履いて電車通学していたが、こんな風に太腿を触られたことなどない。他人から太腿を触られるなんて、人生で初めての経験だった。
先ほどまで、自分が映っている車窓の奥にビルや住宅の灯りが見えていたはずなのに、今は何も見えない。
景色が変わったのではない、私が混乱しているのだ。

痴漢に遭遇したら、どうすれば良いのだっけ?
「この人、痴漢です」って声を上げれば良いのだっけ?
――でももし、冤罪だったら?

この手がたまたま混雑により当たっただけのものだったら?
痴漢の冤罪はその人の人生を変えてしまうと、テレビで言っていなかったっけ?
この人は本当に痴漢なのだろうか?
もし痴漢じゃなかった時に、この人の人生はどうなる?

それに冤罪だった場合、防大の名にも傷がつくのではないだろうか。
声を上げればその瞬間にきっと駅員、そして警察が絡むだろう。私の身元はもちろんすぐに分かる。
善良な一市民に濡れ衣を被せたのは防衛大学生だった。そんなことがニュースになってでも見ろ、防大に大きな汚点を残してしまう。国民を守るための自衛官が、国民を傷つけることがあってはいけない。

ずっとそんなことをぐるぐると考えていた。

冷静になれば、この手つきが意図を持っていることは明白だ。
だが人生で初めて痴漢に遭い、今までにない嫌悪感と羞恥心でパニックになっている私は、冷静でなかった。
この人の人生を潰してはいけない、防大の名を汚してはいけない。
その二つにがんじがらめになった身体では為す術なく、私は変わらず吊革を握って立ち続けていた。

恥辱のあまりに視界が滲み始める。
こんなところで泣いてはいけない。泣いているところを他の乗客に見られてはいけない。

黙って突っ立っているせいか、男の手はエスカレートする。
太腿を撫でていた手はだんだんと上のほうに上がり、ショーツの縁に手がかかった。

「……!!」

息を呑むが、声は出ない。
縁のゴムを通り過ぎ、指は布地の上から尻の肉を撫で始めた。
この辺りでやっと私は、これは冤罪ではないと確信する。

痴漢であるならば止めて下さいと声を上げねばいけない。だがこの時にはもう、声を出そうとしても出ない状態だった。
何か、何か声を出さなきゃ。そう思っているのに、唇が震えるばかりで発声ができない。普段どうやって声を出していたか思い出せない。
私が声を出さないのをまさか了承の意と捉えているのだろうか、男の手は休むことなくショーツを撫でまわしている。

なぜ、なぜ膝上丈のスカートなど履いてきたのだろう?
私はこの痴漢に、浅ましい自分の姿を思い知らされているような気になっていた。

坂木さんに女として認識して欲しい。どこかでそんな風に思っていなかっただろうか?
きっと思っていた。
山の中で足を出すことは難しいが、入浴後から下宿へ戻るまでの間なら何を着ていようが自由だ。私はそこで長丈のパンツを選ばなかったのだ。
暑さのせいだけじゃない。普段学生舎では見せることのない脚を、スカート姿を、見せたいという気持ちがきっとどこかにあった。
今、その罰(ばち)が当たっている。

私はもうずっとショーツの上から男に尻を撫で回され、あまつさえ割れ目をなぞられていた。
声も出ず、身を捩ることもできない。ただただ恐怖で身体が支配されている。

しばらくすると、男の手が私のショーツから離れた。安堵の吐息と共に私の緊張が緩まる。
彼はもう満足してくれたのだろうか。
頼むからもう終わりにして……そう祈るように目を閉じていたが、無駄だった。数秒の後に、再びショーツの上から割れ目に感触が来る。
私は、その感触が先ほどまでの指と違うことに気がついてしまう。全身からざあっと血の気が引いた。

この感触は、指ではない。
指でないなら、何だ?

ショーツの上から私に触れている正体に思い至ると、いよいよもって涙が目尻に溜まる。誰にも見られないように、下を向いた。

見たこともないし、もちろん触れたこともないのだ。だからそれが男性器であるだなんて確証は持てない。
だが、この状況と私の思考回路はどうしてもそこに行き着いてしまう。もちろん確かめる術はない。
動けない。声が出せない。
取るべき行動は分かっているのに恐怖と羞恥で微動だにできない。
とうとう、パタ、と下瞼から涙が一粒落ちた。俯いているからきっと誰にも見えていないだろう。

この先、ショーツの上のそれはどうなるのか。いつ終わるのか。
考えれば恐ろしくて、私は俯いたまま立ち尽くすしかできなかった。




   

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