第三章 鬼の休養日





02




「……坂木さんは?」
「あ?」
「坂木さんの志望理由は、なんだったんですか?」

長いこと黙っていたが、ようやく顔から赤みの引いたみょうじが尋ねる。
岩の上で膝を抱え体育座りの状態だ。

「俺は……まあ、カンピンだからな。親父が空自だ。その影響はある」
「へえ、お父様空自なんですか」

みょうじは体育座りのまま首を傾げる。

今、みょうじの纏う雰囲気はとても柔らかかった。
俺はまたも普段見られないみょうじを見ていると、はっきり自覚した。

学生舎でのみょうじはもっとキリッとしている。
自衛官たるものキリッとしていなくては話にならないからそれも当然なのだが、このみょうじが休日のみょうじなのだと思い至れば、まるで心を許されているかのようで。

「……俺の話のほうこそつまらねえからもう良い」
「えー、教えてくれないんですか」

ほんの少し口を尖らせたみょうじを無視し、俺は食事を再開した。

これ以上互いのプライベートに踏み込むのは少し……なんというのだろう。
そう、「怖い」という気持ちがあった。

その一方で、どうせ遅かれ早かれ俺はみょうじのプライベートにもっと踏み込んでしまうのだろうという、予感めいたものもある。
今はその予感を押し込めるだけだ。



「ごちそうさま、美味かった」
「坂木さんの魚も、今日も美味しかったですね。ごちそうさまでした」

食事が終わるとみょうじは手際良く片付け始める。
ここはキャンプ場ではないから、洗い場などない。汚れた鍋や飯盒、食器なんかはみょうじがまとめて持ち帰る。下宿で洗うのだろう。

「悪いな」
「いいえ!」

俺も自分の釣り道具を片付け始めた。

魚を釣って、飯を炊いて、(主に俺が)たらふく食べて、ベラベラと学生舎ではあり得ないくらいに喋って。
それでもまだ、14時だ。
今日は多分この辺でお開きだが――次回はもっと、長く一緒にいられるだろうか。



「……みょうじよお」
「はい?」

みょうじの顔がこちらを向いた気配がしたが、俺は手入れをしている自分の釣竿から目を離さなかった。
離せなかった。
自分がどんな顔をしているか、自信がない。

「この近くに、温泉があるな」
「……ありますね」

山だから温泉があるのだ。
登山客が多くないK山だが、ネットで少し調べれば帰りに温泉施設に寄る登山客のレビューが見られる。

俺は自分の釣竿から目を離さなかったから、みょうじの顔はわからない。
だから、彼女の声色から感情を読み取るしかないのだが。

「……俺は大体、校友会が入るのは土曜日が多い。来週もだな」
「……はい」

返事をしたその声色は、決してネガティブなものではなかったと思う。



明確な約束はしない。
俺は自分の校友会の予定を述べただけで、みょうじはそれに返事をしただけだ。
この近くに温泉があると述べただけで、みょうじはそれに相槌を打っただけだ。



* * *



次の日曜日、みょうじはまたやってきた。
飯盒と、米と、鍋と、味噌汁の材料と、そして温泉に入れるようにタオルと着替えを持って。
俺のほうも、釣り道具と、魚用の焼串と、ライターと、そしてタオルと着替えを持ってきた。



「偶然」このK山で「鉢合わせた」俺たちは、互いの趣味であるアウトドアを楽しみ、そのまま「成り行きで」一緒に山麓の温泉施設を楽しんだ。



学生舎の生活では考えられないほどゆっくりと湯船に浸かる。
もちろん男湯と女湯は別れているが、湯を上った後に「休憩室」と札が出された座敷の広間の前で待ち合わせようと言ったのは、俺の方だ。



休憩室は、他にも利用客がいてガヤガヤと騒がしかったが、地元民と見られる人間が主だった。
ほとんどが中高年で、自ら持ち込んだと思われる漬物やら煎餅やらで酒を飲んだり茶を飲んだりしている。彼らは俺たちのことなど全然気にしていないようで、却って居心地良い。
先日誕生日を迎え成人したというみょうじにビールとつまみを奢り、二人で晩には少し早い酌を楽しんだ。

立派な温泉施設で宿泊もできるようだったが、俺たちは日帰り入浴だ。
宿泊客と違い浴衣は着ないが、ラフな私服に着替え湯上りで頬を上気させたみょうじを見れば、この座敷に来る前、湯船の中を容易に想像してしまう。
アルコールが顔に出やすいタイプなのか、みょうじはビールをほんの少ししか飲んでいないのに湯上がりの頬を更に染めた。
肌が白いみょうじが頬を染めるとまるで日の丸弁当のようだ。分かり易すぎる赤みに心配になる。
俺のコップにビールを注ぐみょうじを眺めながら、つい本音が出てしまった。

「……お前は、あんまり外で飲み過ぎない方が良いな」
「え?なんでですか?」
「無防備過ぎる」

きょとんと目を開いたみょうじは、俺の台詞をどう理解したかはわからないが俯いてしまった。

「……そんなことはないつもりですが……気をつけます」

小さな声でボソボソというと、華奢な手で注文した枝豆をチマチマと食べている。



ああ、可愛い。



そこでハッと気付き、心の声が外に漏れていなかったかと青ざめる。
みょうじを見れば何も聞こえていないように引き続き枝豆をチマチマやっているから、多分声には出ていなかった。



* * *



「お前、先に帰れ。俺はヤニ吸ってから行くから」
「はい」

小一時間ほど二人で注ぎつ注がれつした後、館内の喫煙所の前でみょうじと別れた。



前回も前々回もそうだった。
俺たちはバラバラにK山に来て、帰る時もバラバラだ。一服してから行くから先に行けと、みょうじを先に帰すのだ。
帰る場所は同じなのだが、同じ電車で並んで帰ったりしているのが見つかったら校内は蜂の巣をつついたように騒がしくなる。

これは内恋ではない。デートでもない。
ただ、釣りやら山登りやらが好きなもんがたまたま休養日に山で一緒になったという――そういうことになっている。



俺はみょうじに好意を伝えたことはないし、みょうじだって俺に好意を伝えたことはない。
俺たちは男女交際をしているわけではないのだ。
そもそも、みょうじが俺に対してどういう感情でいるかなんて分からない。

きっと嫌われてはいない。慕ってくれているのだろうと、そう思っている。
だが彼女の感情が、尊敬なのか、恋慕なのか、友情なのか、俺にはわからなかった。

自分自身の気持ちは――わからない、と言ったら嘘だ。
わかっている。
わかっていて目を背けている。
その気持ちは、この防大生活を送る上で邪魔なものだからだ。



明確な約束をしないまま、K山でのアウトドアごっこと温泉は、何回か繰り返された。
週に一回、もちろん二人の都合が合わなくて行けない週もあるから、慣らすと月に二〜三回というところだと思う。
翌週の都合が悪い時には、互いにそれとなく匂わせた。「来週の土曜日校友会がある」とか「部屋会がある」とか。そこまでしか言わない。
はっきりと「都合が悪いから来週は会えない、再来週の日曜日にしよう」などとは言わないのだ。
俺たちはいつまでも、この建前を大事にしていた。



* * *



常装が冬服から夏服へ変わった頃。
一学年の武井が服務事故を起こした。

休養日、日夕点呼に間に合わないという重大な事故を起こしたため、中隊全員でヘルウィーク――地獄の一週間――を行った。
日々の点検や指導、訓練はいつもより数段厳しく、苦しい。もちろん週末、つまり休養日の外出も禁止だ。

武井自身が犯した罪の重さを認識し、反省の色を見せて初めてヘルウィークは終わる。
普通であれば一週間経たないうちに終わるヘルウィークだが、武井は驚異の粘りを見せ、結局二週近く続いた。



K山でのアウトドアごっこは、ヘルウィークのため一週間空いた。
ヘルウィークの明けたその週末、日曜。
俺は前回から二週間ぶりにK山へ向かった。



みょうじは来るか、わからない。
俺たちはメッセージアプリで互いに友達登録されているにも関わらず、相変わらず約束の類をしないからだ。
みょうじからほんのたまに来るメッセージは、全て岡上乙女についての報告ばかり。
俺から「明日は来るのか?」と聞けば良かったのかもしれない。
だが、暗黙の了解を破る勇気はなかった。

みょうじが来なくても別に良い。初めの頃のように、一人で釣りを楽しむだけだ。
そう意識して電車に乗りこんだ。
それはつまり、みょうじが来ないとガックリきてしまいそうな自分を嗜めたということである。



K山に着くとすぐにウェーダーを着て釣りの準備をする。ザバザバと川に入ると、ウェーダー越しではあるが水温が足に伝わって、ひんやりと心地良い。
木陰の下でしばらく釣糸を垂らしながら、俺の意識はつい手首の腕時計に向かってしまう。
今11時半を回った。いつもあいつが来る時刻だ。
みょうじは、まだ来ない。

こんなんじゃ、釣れるもんも釣れない。気もそぞろな状態で餌に食いついてくれるほど、魚もバカじゃない。
俺は目の前の魚に集中しようと努めた。
無心になれ。
そう思って、すっと目を閉じた瞬間だった。



「――坂木さん!」

バタバタという足音と共に、みょうじの声がした。時刻は12時。

「下宿出る時に、同期に捕まっちゃって!いつもより少し出るのが遅くなったんです」

言いながら駆け寄ってくるみょうじを見て、つい顔が綻ぶ。
来てくれた。



「急いでご飯炊きますね」

みょうじは言いながらリュックを下ろし、ガサガサと準備を始める。俺は緩んだ顔を意識して引き締めた。

「急がなくて良い。今日はまだ一匹も連れてねえ」
「そうなんですか?ふふふ、もしボウズだったらご飯とお味噌汁だけですね」

誰のせいだと思ってんだ。お前が来ないかと思って、釣りに集中できなかったんだよ。
米と味噌汁だけでも構わねえ。お前の飯も味噌汁も美味いし、この後温泉に行くならまたビールとつまみを奢ってやる。

そんなことはもちろん口に出さずに、俺は黙って魚に向き合い続けた。




   

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