第三章 鬼の休養日
【ご注意】
東日本大震災についての記述があります。
ご了承下さい。
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01
翌々週の日曜。前回と同じく、快晴。釣り日和である。
みょうじは、午前11時半過ぎに渓流にやってきた。
みょうじが買ってきた飯盒は、老舗アウトドア用品メーカーの定番商品だった。キャンパー御用達の安牌なチョイスに、優等生だなと胸の中で思う。
言われた通り無洗米も買ってある。が、みょうじが持ってきたのはそれだけではなかった。
「これもあったら良いかと思って」
笑顔で取り出したのは、ステンレスの両手鍋。それから、ビニール袋に入った大根、にんじん、ネギ、油揚げ。それぞれイチョウ切りやら細切りやら、既に包丁で切られている。味噌はラップに包まれていた。
「おお、お前気が利くじゃねえか」
飯と焼き魚の他に、味噌汁も用意しようとしてくれたのだ。急に豪華になった野外食に思わず笑みが溢れる。
先々週のあの時、口約束をしただけだった。
『再来週の日曜日、空いているか?』
『……はい!』
俺たちが交わした言葉はこれだけで、そのあと特にメッセージのやり取りはしていない。前日に待ち合わせ時間や待ち合わせ場所の確認もしていない。
俺も送信しなかったし、みょうじからも何の連絡も無かった。メッセージアプリで繋がっているのに、だ。
だから、本当にみょうじが来るのか、半信半疑ではあった。
互いに暗黙の了解だったのだと思う。
時間を決めて待ち合わせ場所を決めて「約束」してしまえば、それはいわゆるデートと変わらない。
デートにしてしまうことがどんなに危険で且つ大変なことか。四学年の俺はもちろん、みょうじだってもう一学年じゃない。二人ともわかっていた。
一つ、気づいてしまった事がある。
今日みょうじは11時半ごろこの渓流にやってきた。
馬堀海岸駅からこのK山まで、どうやったって2時間近くかかる。
計算すれば、みょうじが山頂へ行っていないことは明白だった。
「趣味の登山をしにK山へ来た」というみょうじの前提が崩れていることに、俺は気がついていた。
だが、それも敢えて指摘はしない。
指摘したところで何と言えば良い?
「お前、今日は山へ登らず真っ直ぐこの川へ来たのか?」
そう尋ねて、はいそうですと答えられたら?
わざわざ前提が崩れていることを口にして明らかにしなくても良い。
趣味の登山をしにここへ来たわけではなく、俺と一緒に魚を焼いて飯を食うために来たと明確にしてしまえば――
それは防大生にとって好ましいことではないのだ。
自惚れているだけかもしれない。
もしかしたら前回、四学年である俺に飯盒買っておけなどと言われた手前、律儀に真っ直ぐ渓流にきただけという可能性もある。
だが、先々週のこいつの顔を思い出せば。
再来週の日曜日空いているかという問いに「はい!」と答えた、あの花が咲いたような笑顔を思い出せば。
四学年に対する義理だけのために、真っ直ぐこの渓流にやって来たとは思えなかった。
俺が川に足を突っ込み、魚を釣っている間、みょうじはちょこまかと河原で動き回っていた。
火を起こし、どこかから丁度良い小ぶりの岩を持ってきて、その上にこれまた持参していた金網を置く。この金網の上に飯盒と鍋を置いて調理するのだ。
釣りの邪魔をしないようにしているのだろうか。みょうじは無駄口を叩かず黙々と作業をしているが、しかし嬉々としているようにも見える。
嬉しそうに米を炊き、味噌汁の準備をし、薪を集めるためにその辺をくるくると走り回っている様子は、まるで小動物のようで。
小学生の頃クラスで飼っていた、ハムスターを思い出した。
見ていて……何と表現すれば良いのか。
そう、むず痒かった。
だが見飽きない。
俺は目の前の釣竿ではなく、ついみょうじに意識が向いてしまっていた。魚釣りに集中できたとは言い難い。
乱れた精神は魚に見透かされているのか。
今日は先々週のように大漁とはいかず、連れたのはたった三匹だった。
「お前手際良いな」
すぐにできた焚火と、完璧に配置された飯盒と鍋。
俺は魚に串を刺し火に翳しながら言った。
「ありがとうございます。坂木さんほどじゃないですけど」
苦笑するみょうじの頬はわずかに赤みを帯びていた。
よく見れば、薄く化粧をしているように見える。前回ここで会った時には気がつかなかった。
校内では化粧をしている女なんていないし、もちろんみょうじもしていない。普段見れない女の一面を見てしまったようでこそばゆい。
不埒な心情が顔に出てはいないと思うが、万が一に出ていれば見られたくない。俺は下を向いて魚に串を刺し続けた。
今日の魚は三匹全てヤマメだ。これだけでは二人分の昼食として足りないが、みょうじの炊いた飯と作った味噌汁がある。
魚が焼き上がるとほぼ同時に飯も炊き上がった。
みょうじは、プラスチック製のキャンプ用食器に飯と味噌汁をよそい、俺に手渡した。
白い無機質な食器は温かい食事を乗せた途端に彩りを帯びた有機物になる。昇り立つ白い湯気が俺の鼻をくすぐった。
「いただきます」
二人同時に手を合わせる。
俺は、まず飯を一口食べて、瞬時に美味いと思った。二口三口と勝手に箸が進む。
次いで味噌汁、最後に焚火の前の魚に手を伸ばす。地面から抜いた焼き串を先にみょうじに手渡すと、みょうじは恐縮して、だが嬉しそうに魚に齧り付いた。
人気のない山の中で柔らかな緑の匂いの風を感じながら、炊き立ての飯と焼きたての魚と熱い味噌汁。
こんな贅沢、他にない。
「お前、料理上手いんだな」
みょうじの飯も味噌汁も、お世辞抜きで美味かった。
イチョウ切りの大根と人参、斜め切りのネギ、細切りの油揚げがバランスよく碗の中で踊っている。
「そうですか?ありがとうございます。お口に合ったなら良かったです」
料理し慣れているのがわかる。そう言うと、みょうじは魚を持ったままこちらに笑顔を向けた。
「実家にいた時は、私が料理担当でしたから。学校から帰ってきて毎日夕食を作ってました。ほぼ主婦ですよ」
なかなかに殊勝な高校生だと驚いた。
何か家庭に事情があったのだろうか。
そうでもなければ毎日夕食を作る女子高生というのも、正直珍しい。
高校生なら友達とも遊びたいだろうし、テレビも見たいだろうし、三年生ならば受験勉強も忙しかっただろう。殊に防大に関して言えば、男子より女子のほうが募集人員が少ない分狭き門だ。
「うち、母子家庭なんで。母一人子一人だったので、母は仕事で忙しくて」
「……そうか、そりゃあ……」
聞いてはいけないことだっただろうかと言葉尻が濁る。みょうじは俺の顔を見て察したか、慌てて頭を横にブンブンと振った。
「全然、あの、気にしないでください!もう長いこと母子家庭で!
父と……弟もいたんですけど、だいぶ前に亡くなって。私も母ももう乗り越えてることなので」
「……亡くなったのか」
「はい。あの、震災で。津波に飲み込まれてしまって」
みょうじの言う震災とは、2011年の東日本大震災のことだ。
俺は高知にいたからそこまで大きい揺れは経験しなかったが、あの頃テレビでは昼夜問わず震災の凄惨な被害が報道されていた。どれほど甚大な被害だったかはもちろん知っている。
高知県内でも、津波も発生し一部の地域では浸水の被害も出たようだ。
だが俺自身、そして俺の家族や友人については、被害は無かった。
ふと思い出した。
学生舎、部屋入り口のネームプレートに書いてあったみょうじの出身地。
「……みょうじは、埼玉出身じゃなかったか?」
海のない埼玉で津波の被害というのも不自然だ。
「あ、はい。生まれも育ちも埼玉なんですが……数年間父親の仕事の都合で岩手に住んでいたことがありまして。
ちょうどその時に震災が発生したんです」
かの震災での津波による死者、行方不明者は二万人近くに上る。
その中に、みょうじの父親と弟が含まれているのだ。
「それは……大変だったな」
「いいえ!大変なのは皆一緒でしたから。
まあ……よくある話です。あの震災がきっかけで、自衛官を目指した人間は多いですが、私もそのうちの一人ってことです」
みょうじは歯を見せてカラカラと笑う。
「だから、実は要員(※卒業後、陸上・海上・航空の各自衛隊のうち、どの自衛官になるのかを決めることを要員配分という。二学年進級時に決定される)は海が第一希望だったんですよ。
あの日海に沈んだ父と弟を私が助けてあげたかった、って。結局、第二希望だった空に配属されましたけど。
今では空で良かったって思ってますよ!それにどこに配属されたって、志が変わるわけじゃありませんから……守りたいものがあることも変わりませんし」
「……そうか」
しんみりした空気になるのを嫌ったのか、みょうじは殊更に明るい笑顔だ。
俺はそれを察して微妙に話題を変えた。
「しかし、母親には反対されなかったのか?自衛官になることを」
「え?」
「俺は岡上学生が自衛官になることには反対だった。厳しい仕事だし……生半可な覚悟で務まるもんじゃないからな。
防大も自衛官も苦労するに決まってるし、はっきり言って女学なら尚更だ」
母一人子一人なら余計にそういうもんじゃないのか、と尋ねれば、みょうじは頷いた。
「やっぱり最初は反対されましたね。
父と弟を亡くして私が唯一の家族でしたから、できれば地元というか、自分の近くにいて欲しかったみたいです。
それが叶わなくても、せめてどこにいるか分からないような仕事にはつかないでくれって、泣きつかれて。
でも勝手に願書を取り寄せたあたりで、母親折れまして」
びゅう、とやや強い風が吹くと、肩上で揃えられたみょうじの髪が乱れ彼女の顔を覆う。
髪を耳にかけ整えるその仕草も、学生舎で見られるものではない。
口の周りに貼り付いていた髪の毛を剥がすとみょうじは続けた。
「元々母だって、震災時の自衛隊の働きにはすごく感謝していたんです。
自衛隊そのものに対して悪い印象があったわけではなかったので。今ではすっかり応援してくれています。
……坂木さん、お代わりは?」
みょうじは空になった俺の茶碗に向かって手を伸ばした。
「あ、ああ、頼む」
「はい」
俺の手からプラスチック製の茶碗を受け取ると、飯盒から飯をよそう。
上手く炊けた部分の飯だけ――「上メシ」をよそってくれているのが分かった。
「ほんとつまらない志望理由ですよね、すみません。震災がきっかけで自衛官を目指すなんて、ありきたりすぎて面白くなかったでしょう。
お味噌汁は?」
再び伸びてきたみょうじの手にやはりプラスチック製の碗を渡す。
ふとみょうじの手に目をやると、木陰の下で白さが目立っていた。手の形も華奢で、俺や周りの奴らとは全く違う。
女の手だ。
だが、その手は荒れていた。
日々の苦しい訓練は手だけでなく全身を荒らすし、防大生にゆっくりと身体の手入れをしている余裕なんてない。
みょうじの掌には、カッターの時にできたと思われるマメがまだ残っていた。
「つまらないなんてことはねえだろう」
これまた綺麗によそわれた味噌汁を受け取りながら言うと、みょうじが手元から顔を上げる。
「震災がきっかけで自衛官を目指すというのは確かに良くあることかもしれない。だがその背景に抱えているものは人それぞれだし、みょうじの志望動機がつまらないなんてことはない。
それにお前と家族があの震災で辛い思いをしたのは事実だし、それがきっかけでお前が国民を守ることを決めたのも事実なんだろう。
立派な志望理由じゃねえか、卑下することはない」
俺は、よそってもらった飯と味噌汁を交互に食べながら言った。
みょうじがうんともすんとも返してこないので、何か気に障ったのかと、茶碗から目を離してみょうじを見る。
するとみょうじは、両手でタオルを持ちそのタオルでもって顔の下半分を覆っていた。
焚火の煙が辛くて顔を覆ったのかと思ったのだが、多分違う。
タオルに覆われていないみょうじの顔の上半分は真っ赤で、ついでに言えば耳まで真っ赤だ。
「……ありがとうございます」
十分な沈黙の後に出てきたのは、唸るような声と怒ったような目つきだった。
照れているのだというのは、俺でも分かった。
何も大したことを言っていないのに俺まで照れてしまいそうで。飯に目を落とすと無言でかき込む。
みょうじは真っ赤な顔を、しばらくタオルで隠し続けていた。